二十五話 忘却

 向井とは駅の付近の或る居酒屋で待ち合わせた。青年が店前の電柱の足元で黒傘をさして佇んでいると、相変わらずの小太りなシルエットが目につく内股でやってきた。


「なんだってそんなところで待ってんだ」


「雨だからな」


「店に入るか、前でいいだろう」


「明るいところが苦手なんだ」


 向井は「まあ、いいや」と云って、居酒屋の戸を開けた。溢れた光がアスファルトに艶を与え、向井の革靴の輪郭を薄ぼんやりと照らす。青年はその革靴と光から軽い目眩と云い知れない疎外感を覚えたのだった。



「で、どうなんだ、就活の方は」


 向井は安っぽいチューハイのグラスの縁を指で滑らせながら訊ねた。埃を確かめるように人差し指の腹でしたたる水滴を追い、


「ぼちぼちだ」


「ぼちぼちって?」


「良も不可もないってことだ」


 赤ワインの粗雑な渋みが際立つキティーを含んだ後の青年の返事はやや間抜けで向井を苦笑させた。それにつれて青年も苦笑し、それから二人は活動先の企業のくだらない愚痴を取り留めもなく言い合った。空っぽな科白を空っぽな相槌で返し、それでも埋まらない時間の空白は安酒で誤魔化した。いつからか青年はこういう軽薄さを好むようになっていた。直接照明の明るみを泳ぐアップテンポなBGMが、外の雨を掻き消した。

 

 ひとしきりの愚痴を言い合って、話題が二転も三転もした頃、向井はひとつ、写真を示してきた。ヒビのないスマートフォンは、恐らく大学の噴水と、それに隣するベンチと、整備の届いてない花壇の一群と、街灯と、広く石畳みの道並みと、そこを往来する人々と、真っ青な空が写っていた。


「なんだ、写真の趣味でも始めたのか」


 青年は半ば興味を失って、残り最後の餃子を口に放り込み、カシスオレンジを口に含んだ。騒々しい臭いが舌のあたりに充満する。


「違う、そうじゃなくて、ほら、ここ。この女に見覚えがあるだろう?」


 向井は五つあるベンチのうちの最も左端に座る、一人の女性を指さした。女性はしゃんと背筋を伸ばしながらも、目を閉じて、どこか薄氷のような綺麗で脆い様相をしていた。


「何がだ」


 暫く前に注文した水を口に含ませた後、青年は反問した。当面の臭いは洗い流せたが、幾分違和感が残余する。

 

「ほら、前に言ってたじゃないか。盲目の、飛びっきり美しい女だよ。美がどうのこうの喋ってた」

 

 青年は向井の俗な言い方に気にも留めず、だらだらともう一度写真を眺めた。しかし青年にはこれが盲目の彼女であるかわからなかった。

 青年は彼女の顔をすっかり忘れていた。それは渚の砂が干上がる如き忘れ方だった。彼女も伊達と同様に一事象の役者に過ぎなくなってしまった。

 「わからない」と青年は答えた。杖を探すも見当たらず、しかしベンチが噴水の曲線に沿って位置されていることから、女性の影に杖を置いただけかもしれない。外見もやはり推測の域すら届かない。何より青年は、既に彼女に対する執着を無くしていた。

 向井は残念そうにスマートフォンを収めた。それは自ら撮った女が青年の語ったそれではないということよりも、話の種が一つ消えたことへの残念さらしかった。

 青年は灰皿を頼み、煙草を呑んだ。そうして写真に写る女性の、綺麗で、けれども何処か凡庸な印象を感慨もなく頭に浮かばせるのだった。

 

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