第十八話 記憶

 青年は午前の深い時刻に起床した。着替えもせず、昨日敷地を抜け出した格好のままだった。裾は土汚れがついていて、それがベッドの白いシーツに薄く移っている。

 彼は意識のはっきりとせぬまま、シーツの汚れを爪の先でがりがりと削る。汚れは思うよりあっさりと取れ、シーツは再びその清潔さに帰った。


 こんなものなのかもしれない。青年は思った。伊達の死も、こういう具合なのかもしれないと。どれだけ懸命な思いで繋いだ汚れも、少し誰かが弄れば後もなく消えてしまう。そして、青年自身もまた、爪に移った土汚れをいとも簡単に忘れてしまうのだ。


———伊達は、私を知って死ぬといった。また、私もそういう気概だった。あの孤独な男の唯一の理解者になって死にたかった。

 しかし、今はどうだろう。今も刻々と、私の脳は彼の存在を忘却しようとしている。爪の土汚れのように、いつか彼の存在は私の中から消え果てて、 伊達一郎のいない私が出来上がる。

 私は、友のために死ぬこともできなければ、友のために生きることもできないのだろうか———


 少しすると、青年は伊達の遺書を探した。何度も読んでは改訂をさせたあの遺書を。軽く空で言えそうなほど頭に残ってはいるが、記憶など当てにはならない。何か伊達の存在を証明するものが欲しかった。

 しかし、当然ながら青年の周りに伊達の遺書はない。それどころか、青年の周りに伊達との接点と呼べるようなものは一つたりともなかった。


    ◆◇◆◇◆◇◆◇


 その日の夕暮れ、だいだいの明かりがカーテンを染めようとした頃、青年の元に一人の初老の男が訪ねてきた。

 男はベージュの素朴なスーツと帽子を身に纏っていたが、その随所に質の良さが伺える。

 青年は即座にその男が伊達の父であると確信した。品のよく端正な顔立ち、筋の通った背筋、何より青年と対照の感じを持った雰囲気があった。

 

 青年と男は一通りの撫でた会話をした。青年は頭を下げ、陳謝した。しかし、内心その心はなかった。悔やみこそすれ、伊達の父に謝ることなどないと思っていた。

 男もこれを形として受け取ったようだった。そして、男のほうからも一通りの謝りがきた。伊達の親密者同士の会話にしては何とも味気ないものだった。


 会話は十五分ほどで終わった。浅く内容のない会話で青年が男に抱いた印象は、丁寧さと人の良さだった。

 その印象に甘えて、会話の最後に青年は伊達の遺書ないし遺品の何かを貰えないか、訊いた。

 しかし、男は断る。曰く、譲れるものはないので、伊達の存在は心の奥に留めてほしいとのことだった。


「一郎は、出来のいい息子で、親しい人も多かったですから、前の葬式で譲れるものは全て譲ってしまいました。口惜しいですが、ここは記憶と心に息子のことを刻んでいただければ……」


 青年にはこの言葉が嘘にしか聞こえなかった。それどころか、その意味とは裏腹に、伊達のことを早く忘れろと言っているようだった。

 

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