出会いと誘惑
第九話 訪問者
冬の冷たさがいよいよ形を成し、四畳半の部屋は無機質さを増した。
触れるものは皆、物を言わず、ただ表面的な性質のみを伝達する。青年は冷気を纏う畳の凹凸をなぞりながら、己の死の輪郭を確認した。
———仮に今、私が死ぬとして、それはどんな形だろう。
恐らく悲劇とも喜劇ともとられぬ酷く無機質な情報としての死。
生に対してのプライドなんてとんとないが、私の死が何かを語るとして、それは「逃避」だけなのか。
無数の自殺者と一緒くたにされ、ただ数字の欠片と成り果てるのか———
死には序列があるように思えた。
人から記憶される死とそうでない死。前者は、死によって各個人の固有の意味を際立たせるが、後者はそうではない。ただの一介の現象である。
そして、彼の死は後者に値するだろう。彼の迎える死はおよそ意味薄弱で、あるとしても生からの逃避という何とも聞き飽きたもので、大衆の心には響かない。
青年は悩み、一日の大半を狭い四畳半で過ごす生活をしていた。大学の講義も、友人との会話も彼の望むものを提供してはくれない。
袋小路の思索に青年は半ば意地になって孤独に対峙していた。
一月の半ばの頃である。雪の降り積もる夜だった。
青年が胡座を組み、窓の景色を通じて物思いに耽っていると、扉を軽く二、三回叩く音が聴こえた。
青年は訝しげに思ったが、恐らく向井達だろうと推測し、居留守を決め込んだ。
彼の家に訪れる人はそう多くはない。大方向井達がその殆どだが、あれ以来青年と疎遠になっており、会う気がしなかった。
もはや青年にとって彼らは友人と呼べるほどの愛着の対象ではない。ただ無理解で身勝手な大衆の象徴として青年の脳に上塗りされている。
わざわざ此方まで出向いて文句を言うのなら、願い下げだった。
しかし一方で、何処か、青年の心に引っかかるものがあるのも確かだった。
これが向井達による訪問なら、それはさぞかし退屈でこの苛立ちを強めるものに違いない。しかし、そうではなく、全く異なる人物だとしたら……。
青年は先の音の正体へのただならぬ予感を察知していた。そしてそれが自らの死の観念に一石を投じてくれるのではないかという願望が入り混じり、彼の神経は古びた扉の先に向いている。
思索の毎日に嫌気がさし、どこか運命的な出来事に身を任せたかったのかもしれない。青年は気怠い身体を玄関に向かわせた。
扉の向こうには、男が一人、佇んでいた。青年の予感は的中した。男は、青年の友人でもなければ知人ですらない。今この瞬間始めて相対した人間である。
青年は膨らんだ期待と共に男を舐め回す様に観察した。
整った茶髪に、端正な顔立ち、高い背丈とがたいの良い体格、全てが青年と真逆の様に思えた。
しかし、それらの差異が些細に捉えられるほど、青年の視線は一箇所に集められる。
青年は驚愕とともに動揺と困惑に駆られた。そして、やはりこの判断は間違っていなかった。この男は自分の死を変える人間であると彼の心に強い確信が生まれる。
男は、提示する様に一つの茶封筒を右手に持っている。それは、青年の見慣れたものと同じで、二人を繋ぎ止める唯一の共通物だった。
そこには、見覚えのある達筆な字体でこう書かれていた。
「安楽死用」
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