第36話 息づいているもの ③
そうして俯いていた時、日原はふと武智教授の言葉を思い出した。
彼は気持ちの整理ではなく、消化だと言い直していた。
よく似ているが、若干ニュアンスの違う言葉だ。
教授として生徒を見てきた彼からすると、そこにある違いはわざわざ言い直すほどに重要だったのだろうか。
片付けも終わって手持ち無沙汰になってしまった日原は考えに耽ってしまう。
そんな時、不意に携帯の音を鳴った。
見れば渡瀬からの着信である。
「もしもし? どうかした?」
『あのぅ、こんな時にごめんね……。実は遠出をしている子の腎不全犬を預かったんだけど、皮下点滴が上手くいかなくて。何度も刺すのはかわいそうだし、ミスをした時に自分の指を針で刺しちゃった上に針の替えがもうなくて……。翼状針が余っていれば、それをもらえると嬉しいの……!』
「そんなことなら別にいいよ。余った針も病院に返すだけだし、手伝うよ」
『ありがとう……! すぐに行くから……!』
電話が切れるとすぐに廊下を歩いてくる音がした。
迎えに出ると、渡瀬は気まずそうに小さくなっている。
一緒についてきたのはラブラドールレトリーバーだ。少しふるふると震えながらも自分で歩く元気があるらしい。
「その、ね。日原君、ごめんね……?」
「そんな何度も謝らなくていいよ。僕も一人だと何だか寂しいなと思っていたところだし、気にしないで」
うう、と弱っていく渡瀬を慰める。
その時、日原は彼女が左手にぶら下げたビニール袋に鮮やかな色の血が伝って落ちていくことに気付いた。
そういえば彼女は電話で指を刺したと言っていただろうか。
「その指、また血が出ているよ」
「えっ!?」
体重三キロ程度の猫でさえ百ミリリットル程度の点滴をする。体重三十キロ前後はありそうなラブラドールであれば投与量はずっと多いはずだ。
それもあってビニール袋には五百ミリリットルの輸液が二パックも入っているようだ。出血はその影響だろう。
さらにやらかしたと天を仰ぐ彼女に「まあ、入ったら」と促す。
ひとまずは絆創膏を用意し、さめざめと泣く彼女の指を手当てした。
次は泣く彼女の顔をぺろぺろと舐めて慰める心優しいラブラドールの番である。
「やることは簡単だよ。点滴のセットを準備して、高いところに輸液パックをひっかけておく。輸液を流して管の中にある空気を抜いたら三本指で皮膚を摘まみ上げて、テント状になった皮膚に刺す。これをクリップなんかで止めて規定量の液が入るのを待つだけ。おどおどと刺すのを躊躇う方が痛い思いをさせちゃうかも」
渡瀬の話によると、針の予備はもうないとのことだった。
日原は使い損ねてしまった翼状針を取り出すと、滅菌されたパッケージを開けて説明ながらに点滴のセットに繋ぐ。
この動きももう慣れたものだ。
緊張のない動きのおかげでラブラドールも怯えることなく受け入れてくれる。
摘まんだ皮膚に刺し、一枚の厚紙でも抜けたような感覚と共に皮下に針が達するので輸液を堰き止めているクレンメを押し上げて流す。
あとは待つだけだ。
――そう。皮下点滴を受けるコウを撫で、輸液パックの残量を見上げながら何度も点滴してきた。
同じ皮下点滴であれば、犬にもスムーズにこなせるらしい。
それと共に、日原はある事実に気付いた。
コウが死んでしまい、喪失感を覚えていた。だからこそ、その空白を埋めるための心の整理が必要だと思っていた。
だが、違う。
「そっか。僕、失ってばかりじゃなかった……」
コウとの思い出が残っている。
何より、その共同生活で得た知識は今も自分の中で息づき、将来のために役立っている。今までの経験が抜け落ちて骨壺になったわけではないのだ。
そんな事実に、たった今気が付いた。
それだけではない。
コウの体調悪化で不安を抱いていた時、渡瀬はこのように心と向き合えば楽になるのではないかとすでに教えてくれていたではないか。
『もし全部が終わってからも日原君の胸にもやもやが残っていたら、コウちゃんの思い出とか、そこで得た経験を大切にすればいいんじゃないかな。別れはあるけど、動物を飼って失うばかりじゃないと思うよ。特に私たちは未来の獣医さんなんだから』
本当に、その通りだと心に沁みる。
共同生活で得たものは抜け落ちるわけではない。
だからこそ武智教授は気持ちを消化するという表現を取ったのだろう。消化して、自らの血肉になってくれているのだ。
それを理解すると、急に目頭が熱くなった。
コウの死に際して理解し損ねていた悲しみと、今までの生活に対する感謝と――。
そういった感情がない交ぜになって溢れた。
じんと痛んだ鼻をすすったことで、渡瀬もこの変化に気付いて目を向けてくる。
「うあっ、日原君っ!? や、やっぱり今は辛いよね……!? あの、そのっ……」
「……いや。ごめん、ありがとう。今こうして皮下点滴できて、本当によかった。気付かないままに落ち着いてしまうより、ずっとよかったと思う」
流していた涙に目を向けたラブラドールは、お座りしたまま顔を舐めてきた。日原はそれを深く抱き込む。
獣医師としてコウを癒すことは、できなかった。
今の自分、そして今の獣医療では、できなかった。
けれどもコウの痛みや苦しみをどうにかしてやりたいと思い続けたこと、在宅療法で得たこと。
それらはこれからの原動力のみならず、血肉にもなったのだと気付けた。
多分、こんな体験は獣医を志した人なら幼い時に済ませているだろう。
他の三人はとっくに立っていたスタートラインをようやく見つけることができたのだと、日原は実感する。
「中途半端な状態でこの道に進んだけど、僕はやっぱり獣医になりたいんだって気持ちにようやく気付けた。だから、ありがとう……」
嗚咽の中、絞り出すように言葉を向ける。
渡瀬は目を潤ませながらこちらを見つめていた。
こうして口にした言葉は単なるフォローのために発したのではないと気付いてくれたらしい。彼女は深い頷きを返してくる。
「私たち、経験したものをずっと大切にして、一緒に獣医になろうね」
もちろん、慣れはあるだろう。一つ一つの別れでいつまでもこんな風につまずいてはいられない。
けれども、自分たちの原点はこうだったのだ。それだけは忘れたくない。
そんな思いを二人で共有したのだった。
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