第49話 再度、実習 ②

「じゃあ脇の下から刃を通して、体側にべったりとくっついている肩甲軟骨を剥がすこと。大腿骨と違って関節がハマっているわけじゃないから簡単だよ。バリバリと接着剤を剥ぐような感じだ」

「えっ、そうなんですか……?」

「まあまあ、百聞は一見に如かずだよ」


 その言葉を信じて、日原は解剖刀の刃を当てた。


 毛皮というのは案外刃が通らない。ずるりずるりと滑りそうになってしまった。

 毛皮が肉食獣の牙から身を守る防具だというのも、こうして切ろうとしてみるとよくわかる。


 けれども一度刃が通ってしまえばあっという間だった。

 表皮が裂けると分厚い結合織の層に当たる。これが体側とくっつけているらしく、刃を当てると本当にバリバリと接着剤を切り剥がすような感触だ。

 これなら確かに血みどろの解剖という感覚ではない。


 ――そう思って残り半分以下も切り剥がそうと肉も切り剥がそうとしたところ、ビクビクッと足が小さく揺れた。


「うわっ!? えっ……?」

「それは橈骨神経や腋下神経を離断した証拠だね。あと、腋下動脈と静脈も切れたから血が流れてきているよ」


 左の腋下動脈と言えば人間でもかなり太い血管として有名だ。

 血がぽたぽたと流れ出るためか、白い動脈が視認できてしまうほどだ。心臓が止まっていても切断面に血が広がっていく。


 すらすらと進んでいただけに、これは不意打ちだった。


「続けるかい?」


 手が止まっていたことで、教授は再度問いかけてきた。

 からからと乾き始めていた口で無理に息を飲み、堰き止まりかけていた声を出す。


「や、やります……!」


 ここから学ぶべきこと。

 例えば、どうすれば綺麗に肉を切れるのか。神経や血管はどう走っていたのか。切った後でも自分で見分けられるのか。


 ――思考停止している場合ではない。課題は目の前に多くあるのだ。

 日原は自らも左手で前肢を持ち上げながら肩甲骨を剥がしていく。脚と胴体に渡る筋肉を大きく切り取り、ついに前肢が外れた。


 重そうに前肢を持ち上げた教授は「よろしい」と呟き、後肢を外す指導に移る。


「じゃあ次は後肢だ。持ち上げるので、同じく根元まで切っていく。そして寛骨臼と呼ばれる部位に大腿骨頭がハマっているのでそこを外さなければいけない。ここはね、交通事故の動物などで起こる股関節脱臼がどのような状態なのか理解するために重要だよ」


 教授の豆知識を受けながらクラスメイトの女子が解剖刀を手に取った。


 料理が得意なのだろうか。解剖刀の扱いが上手く、スムーズに寛骨臼まで達する。

 それを教授はうむうむと頷きながら眺め、解剖の手を止めさせると手にしている後肢を動かし始める。


「いいかい? 筋肉が大体切れて、こうして動かすと関節包がよく見える。大腿骨頭の丸い部分が骨盤にハマって、膜が包み込んでいるわけだ。事故の衝撃でこの関節包が破れたり、さらには靭帯が切れたりして脱臼するのが股関節脱臼になる。あとはこの関節包内の潤滑油の役割をしている関節液。これも状態をよく見ておくんだ」


 さあ、切ってと指示されて生徒が解剖刀を当てる。

 それによって関節包に穴が開くと、キュッと音が鳴った。


「脊髄、胸腔、股関節といい、普段は陰圧が保たれているんだよ。それぞれの陰圧にも意味はあるんだが、今は置いておこう。これはそこに空気が入った際の音だね。さて、見えてきた。関節炎になればこの関節液の色が濁る。正常な色、ぬめり具合、関節面の滑らかさは記憶しておくように。これはホルマリン固定していると絶対に見られないものだよ」


 その言葉で生徒は交代しながら触って確かめていく。

 同時に日原はこのやりとりで深く納得をしていた。


 ホルマリン固定をすれば色はくすみ、こういった組織の液にもホルマリンが混じって全く別物となる。

 映像資料でも確かめられるかもしれないが、そのような豆知識にも近いコアな部分の資料はなかなか出回っていないだろう。


 これは実習モデルではなかなか補いきれないものかもしれない。

 それを確かめた後、今度は腹腔が開かれた。


 体液でぬらぬらと湿り気を帯び、まだ深部体温も残る腹腔は開けた瞬間にもわりとした空気が広がる。


「胸椎と間接している肋骨は本物の骨だね。けれど、それだけでは胸の前方が守れないし、安定しない。そこで胸郭前面の正中部にある扁平骨と軟骨で繋がっている。その軟骨を作る場所が肋骨にある膨らみの肋軟骨結節。ここならすんなりと刃が通るから、ここを切断して腹部を大きく開いていって」


 その指示に実行役となったのは渡瀬だ。彼女はその膨らみを手で確かめて切断した。

 けれども綺麗に切断できたはいいのに彼女は疑問を覚えた様子で首を傾げる。


「あのー、切った感触が若干じゃりっとしていてこの前の二頭より硬い気がするんですけど……?」

「うん、それは切った位置が少し悪いね。もう少し腹側なら柔らかいよ。ただ、年齢がかさむにつれて軟骨は骨化していく。その違いもあるね。一歳前後くらいまでならノコギリなんて使わなくても背骨の椎間板を狙えば切断できるし、その違いは大きいよ」


 位置が悪いという一言に「うぐっ」と傷ついた様子ながらも渡瀬は教授の言葉で理解を深めていた。

 年齢による状態の違い。そういったものも、こうした機会で学べるらしい。


 さらに彼女は何かに気付いた様子で腹腔の臓器に目を向けた。

 先日の鹿島の発言通り、腸はまだ自動能によって、にゅうっと蠕動運動を繰り返している――が、彼女が着目したのは別のようだ。


 渡瀬は腹腔から何かを摘まみ上げる。

 それは全長五センチほどの白いミミズとも言うべきものだ。うねうねと緩やかに身じろぎをしている。


「教授。これって指状糸状虫セタリアですか?」

「む? ああ、そうだね。よく知っているね。十数頭に一頭くらいは見るよ。牛にはそうして腹腔内に張り付いているくらいで大した悪さはしない。死んだら結合組織に覆われて臓器表面に瘢痕のように残りながら、徐々に消えていく。ただし、犬のフィラリアと同じ伝搬方法で羊や山羊、馬に感染すると厄介な病気を起こすことがあるんだ」

「ああ、あの時の……!」


 どこかで聞いた話のようなと記憶を掘り返し、思い出す。

 生理学研究室の栗原先輩が羊を前にして同じようなことを言っていたはずだ。彼女は解剖学実習の時に探してみるといいと言っていただろうか。


「蚊の吸血によって伝搬した指状糸状虫は成長して血中を流れ始める。牛ならそれで大体が腹腔内に辿り着くので問題ないけれど、羊などでは眼球や神経などに迷い込んでしまい、障害を引き起こすことがあるんだよ」


 だから牛と同じ場で買う際は犬のフィラリア予防と同じく月一で駆虫薬を与えて予防する。そんな話だったはずだ。


「本来の寄生先では問題がないけれど、他の動物では妙なところに行き着いて大変なことになる。外来種のアライグマからのアライグマ回虫、海外の豚の有鈎条虫も発症機序としてはよく似ているよ。来年の寄生虫学とよく学ぶといいね」


 神経異常を起こす寄生虫として有名な名前だ。


 種類が全く違っても、病気が発生するメカニズムは似ているという言葉に日原はまた新しい扉が開けたような感覚を覚える。

 腎不全や牛白血病の症状のメカニズムで発見をした時と同じだ。


 解剖役を別の生徒に変わった渡瀬が傍に歩いてくる。


「私たちが今まで勉強してきたこと、全部がどこかで繋がっているんだね……!」

「うん、本当に。高校までの国語とか数学とかでは見つからなかった感動だと思うよ」


 きっと、まだ気付いていないだけで探せば多くの部分が繋がっているのだろう。

 解剖学や衛生学、寄生虫学などの知識のみではない。放射線学の先輩も「放射線学は物理学と解剖学を元にした分野」と口にしていた。こういうところで学んだ知識が、いずれ学臨床分野でも活きてくるのだろう。


 日原は改めて牛の体を見つめる。

 さっきまでは生きていた、廃用牛の姿だ。


 彼らは法律の上では産業廃棄物と言い表される。

 けれど本当の意味でどういう存在になるのかは、獣医師の努力次第で変えていける。

 その事実は今この瞬間、とても強く感じていた。


「日原君、体調は大丈夫?」


 顔色はそこまで悪くないだろう。渡瀬の心配も念のための確認というくらいのものだ。

 日原は彼女に頷いて返す。


「大丈夫。今回は前の分を取り返すくらい、しっかりと勉強するよ」


 はっきりとした言葉で返した日原は、目の前で進んでいく解剖の様子をしかと目に焼き付けるのだった。


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