第48話 再度、実習 ①
週末を経て、平日に通常の授業を受けていれば第二回目の解剖実習もあっという間に思えたことだろう。
しかしながら日原にとっては違う。
残るハイエナ病と牛白血病の牛の世話があるので実習までの残り日数をカウントダウンのように感じながらの一週間だった。
そして実習当日の朝の世話に鹿島と共に出た日原はひと通りの仕事を終えた後に牛の触診をしていた。
鹿島はその様を先週と同じくスコップの柄尻にもたれかかりながら見つめてくる。
「俺はてっきり、もうちょっとナーバスになるかと思っていたんだが」
「世話をすると情が移っちゃうもんね。うん、それはそうだとは思うよ。だけどさ、単にくよくよしているだけだとこの子たちに失礼だなと思って」
言いながらに触って確かめているのは体表リンパ節だ。
牛白血病になった牛は肩甲骨の前方や腿の付け根などを始めとして全身のリンパ節が腫大することがあるという。
それも、ちょっとやそっとではない。通常は硬貨ほどの大きさのリンパ節が拳サイズまで膨れ上がることもあるという。
それがあるかどうか触って確かめていたのだ。
この牛の場合はまさしくその通りに腫れているものの、体形は健康そのものである。
「削痩、元気消失、眼球突出、下痢、便秘がみられるなんて書かれてあるのに、リンパ節が腫れている以外は特にないね。こんなに健康そうなこともあるんだ?」
「親が言うにはウイルスに感染したからといって全部が発症するわけじゃないらしいからな。乳牛を何十頭も飼っている農場の場合は家畜保健衛生所が採血して、ウイルス検査で陰性と陽性を区別するんだとさ。ウイルスを持っていても無症状なら牛の体調に影響しないし、人に移る心配もない病気だから問題はないんだよ」
いわゆる無症候性キャリアというやつだ。
気付かないうちに周囲に伝染させることもあるので、厄介な疾病であるほどに問題になる状態である。
「けど、アブが連続で牛の血を吸うと農場に蔓延させちゃう。蔓延すればそれだけ発症する牛も増えてくるってわけだね」
この牛も今は元気に見えても、じきに白血病の症状が出てくるのだろう。
だから廃用とされたのだと現場の考えが日原にも理解できた。
「発症する、か。そういえば深く勉強してこそ興味深い点もあったな」
「ほう。それはどんな?」
「発症して白血球がガン化して、それが集まるリンパ節が腫大するのはわかるよ。その機能が落ちて免疫能力も落ちるから元気もなくなるし、痩せてくる。じゃあ、眼球突出や下痢や便秘はどうしてって疑問に思ったんだよね」
教科書を見ていると、病気についてすんなり関係性が繋がるものと、首を傾げるものがある。
文章を丸覚えしてしまえばそこまでだが、考えてみるとその関係性が興味深かったのだ。
鹿島に自分が引っかかった点について投げかけてみると、答えに窮した様子である。
日原は早めに答えを提示した。
「教授に質問したら眼球突出は目の底にあるリンパ節が腫れるからで、下痢と便秘は腸にくっついた腸管リンパ節が腫れた時の影響次第なんだってさ。例えば去勢していない老犬の前立腺肥大も同じように物理的に圧迫するから便秘を引き起こすらしいよ」
「なるほど。そういう繋がりか」
言われてみれば理解できるが、単なる症状の表記だけではその理由がわからない。鹿島も同じく興味を抱いたらしい顔つきだ。
コウの腎不全で起きた貧血についてもよく似ていた。
一見すると繋がりがない症状だが、実は根幹の部分で繋がっている。その理屈を理解するのはいわゆるアハ体験として心地いい。
そうして会話をしながら世話を終了する。
どのような病気を持つ動物だったのか、できる限り目の前にして学び取った日原は鹿島と共に牛房から出た。
「この牛たちには感謝をしないとね」
「そうだな。病気についてもだし、解剖学の知識的にも世話になる」
鹿島と二人して牛をじっくりと見つめた。これが今の自分たちにできる最大限の向き合い方だ。
正直なところ、解剖学実習にはまだ不安もある。
実際にぶつかっていないのだからそこだけは本番にならなければわからない。
けれども前回とは変える意気込みだけはある。そのためにもまずは姿勢からだ。
今の姿と、一週間前の姿。
そこにある違いが努力の結果だろう。支えてくれた仲間には感謝の念が絶えない。
そして、午前の授業を終えて実習が始まる。
先週と同じだ。ツナギ姿の一年生がずらりと集まり、解剖教授を囲むようにして並ぶ。
「はい、それでは二度目の解剖学実習を始めます。今回見るのはハイエナ病と牛白血病の牛の前後肢内側の筋肉と内臓を見ましょうか。牛白血病の牛は各リンパ節が腫れており、ハイエナ病の牛は骨端軟骨版以外には異常がないはずです。これらを比べながら正常像と異常像を覚えていくように」
前置きを終えると、前回と同じく上級生が牛を連れてきた。准教授は安楽殺用の薬剤を用意し、教授に手渡す。
先週の二頭は大型犬程度の大きさであったが、今回の二頭は体重が大人よりも重いくらいだろう。用意されたシリンジもそれだけ大きなものとなっていた。
処置自体は変わらない。
頚静脈を駆血して怒張させ、そこに注射器を刺して鎮静剤のキシラジンを投与する。
寝たところでペントバルビタールを投与し、眠るように息を引き取るのを待つだけだ。
(……ありがとう)
ハイエナ病、牛白血病の牛は両方ともそれがどのような病気なのか教えてくれた。比較的元気に見える牛だったため、乾草を手渡しでも食べてくれたりと親しみが湧いていた。
感謝と共に良心がずきりと痛む。
そんな感覚を覚えながら見つめているうちに、准教授は心音と眼瞼反射によって死亡の確認を終えていた。
「――っ」
先週は血の気が引いてしまったあの瞬間だ。
牛の喉が裂かれて放血されると共に後頭顆と環椎の間で脊髄が断たれて頭が切り離される。
頭が離断されると、加藤教授は生徒を見回した。
「牛白血病は眼窩にあるリンパが腫れることで眼球突出が起こることもあるのが特徴の一つです。あとで比べるために二、五班はそれぞれの眼球を摘出してください。また、リンパ節は衛生学研究室などが実験に使うので、できるだけ傷つけないように摘出してください」
その合図と共に班が動き始める。
日原たち仲良し四人組は出席番号順に分かれるとバラバラの班にはなるのだが、日原は四班で渡瀬は六班のために解剖する牛は同じだ。
教授と准教授はそれぞれの牛につき、解剖の仕方を指示してくれるらしい。
日原たちが前にする牛には教授がついていた。
「今日は早めに終わらせるために剝皮はなしで前後肢を外し、脚の剝皮と筋肉の同定、それから腹腔を開くのを平行作業でやりましょう。では、先日早退した日原君。これを」
「僕ですか……!?」
今のところ解剖風景を見ていられたが、解剖刀を差し出されるとどきりと身構えてしまう。
「うむ。他の生徒は先週やったからね。君には前肢を外してもらおう。できるかい?」
そう問われながら、日原は牛と解剖刀を交互に見た。
意識にしても勉強にしても少しずつ進めなければ進歩はしないだろう。ここまでは大丈夫だったのだ。たとえ無理でも、先日のように倒れる前に踏み止まればいい。
「は、はい。やってみます」
「うん。それじゃあ手を切らないように気を付けて。付け替え式の解剖刀は最初だけよく切れるからね。基本は料理と同じ。ぶよぶよの皮は刃が通らないので、誰かの手を借りるなりしてピンと張らせてからゆっくりと撫でるように切ること」
「わかりました」
頷きを返すと、教授は右横臥になっている牛の左前肢を持ち上げた。
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