第50話 善意で成り立つもの

 季節は流れて十一月初旬。

 暑さを時折感じた秋の気配も薄まり、冬の到来を感じ始めた季節のこと。


 日原たち一年生の授業も順調に進んで授業にも慣れた頃、毎週のことながら解剖学実習を前にして学食で昼食を取っていた。


「えっと、今日はいろんな動物の骨を見るんだっけ?」


 日原は授業の最初に配られたシラバスに目を向けながら、仲良しメンバーの三人に確認する。


 他の授業ではシラバスに記された計画通りに授業が進むものの、解剖学実習に関しては微妙に事情が異なってくる。

 渡瀬は頷きながらも苦笑を浮かべた。


「確かに先週はそう言って終わったはずだけど、予定は突然変わるもんね。一昨日も昨日も雷と雨が凄くて洗濯できなかったし、私はちょっと早く終わってほしいところだなぁ」


 むむむとスプーンを噛みながら、彼女は困り顔を浮かべた。


 そう、彼女が言うようにこの実習の予定は突然入れ替わる。

 例えば心臓の血管を見ようと言っても、ホルマリン漬けの標本よりも本物の方が得られる情報が多い。

 もしも機会さえあるのならば少々組み替えてでも、本物の動物の病理解剖と合わせておこなうためにシラバスの予定はごちゃごちゃになるのだ。


 これによってバイトをしている生徒は解剖学実習の曜日だけはどうなるかわからないのでシフトを外してもらっているという現象まで起きている。

 まあ、実習はいつまで延長するかもわからないのでそういうものなのだろう。


 鹿島もこくこく頷き、息を吐いた。


「そればかりは仕方ないな。農場での治療途中で予想外に早く死んでしまったとかいうこともあるだろうし、機会を逃す方が惜しいんだろう」

「うん。予習時間がないのは惜しいけど、いろんな症例が来れば経験も増えるしね」

「そして画像フォルダも大変なことになるな」

「う、うん。気をつけよう……」


 予習できなかった症例ほど、何が大切な要素なのかわからないためにたくさんの写真や動画を撮影する。


 勉学のためとはいえ、感覚がマヒしそうなのでそこは定期的に思い出しておかねばならない。

 鹿島の言葉に、日原は己を戒める。


 そんな時、四人の携帯が一斉に着信音を上げた。それだけでピンとくる。これは学年一斉送信のメールだ。

 いち早く目を向けた朽木は「あっ」と声を漏らす。


「馬が来たって。内臓の外景、内景までフルコース」

「か、完全に夜中確定コースだね……!?」


 渡瀬がひんっと泣きそうになる一方、まだ見ぬ解剖対象なので朽木はほわほわと好奇心が勝った様子だ。


 どちらの気持ちもわからないでもない。

 機会があるなら自分は粛々と臨むのみと、日原は受け入れる。けれど一つ疑問が生じた。


「それにしても馬はどういう理由で運ばれてくるんだろうね?」

「さてな。競走馬の骨折は安楽死って聞くが、競馬場も食肉用の馬牧場も近くにはないだろうし、想像もつかん」

「それだけじゃなくてもしかしたら十頭程度を飼育している馬術場とかかもね。地方には点々とあるし」


 日原の親が通っている馬術場もそうだ。

 競走馬は老後にそのような牧場で乗馬用の馬として暮らすこともあるので、そことの提携があるかもしれない。

 そんなことを思いつつ四人は早めに食器を片付けて解剖室に向かった。


 いくらかの生徒はすでに集まっている。

 現在はちょうどその馬の搬入らしく、大きなトラックが敷地に入ってきていた。解剖研究室の上級生も勢揃いして万端の状態である。


 まずはトラックの荷台に付けられたシートが外され、次にアオリのロックが外された。

 軽トラックが荷台のロックをすべて外した状態と似ている。


 そこには今まで解剖した牛より明らかに大きなサラブレッドが乗っていた。


 体高は大人と同等。

 胴体も大きく、筋肉質だ。体重は四、五百キロあるだろう。


 今まで解剖学実習で相手をした牛は約一歳までで百キロにも満たない。

 つまり単純計算で三、四倍は大きな相手だった。


 大動物をパートナーにしていない生徒はそのサイズ感に「おお……!?」と驚きの声を漏らしている。


「あれを下ろすんですよね?」

「いやいや、待ちたまえ。流石にあれを人力で下ろすと怪我をするよ。はい、それでは周囲の生徒は下がって」


 荷台に近づこうとした日原は加藤教授の声に止められた。

 教授は解剖室前から避けるようにと手で払う仕草で生徒を散らすと、トラックの運転手に目を向ける。


「それじゃあ、いつものように解剖室に突っ込んでお願いしますー!」

「はいよー!」


 解剖教授が運転手に向かって言うと、トラックは教授の「オーライ」という声に合わせてバックで解剖室に入り始めた。


「はい、ストップ!」


 そしてある程度まで荷台が突っ込んだところで止められる。

 それに合わせて上級生が荷台に上がるとてきぱきと作業を始めた。


 まず解剖室の天井に備えられたレールをクレーンが移動し、フックが下げられる。

 馬の脚を太いロープで結んでいた上級生がそれをフックにかけて退避すると教授がリモコンを操作して吊り上げた。

 天井のクレーンはこのような大動物の運搬用に備えられたものだったらしい。


 床に馬が降ろされ、上級生によってロープが解かれていく。

 まだ授業開始まで時間があるので教授はゆったりとそれを眺めていた。


 質問にはちょうどいいタイミングだろう。日原は教授に近づく。


「この馬はどこから来たんですか?」

「近くの養老牧場だね」

「養老牧場ですか……?」


 日原も聞いたことがない名前に、首を傾げる。


「うむ。引退した競走馬や乗用馬を引き取る老人ホームのような場所だよ。酪農をやめた農家が観光牧場として始めたりすることもある。乗馬営業をしないで、本当に広大な牧場で気ままに過ごさせるっていうタイプの牧場もあるね」

「馬術場ってウェスタンなログハウスとか備品を揃えたりして、綺麗に整えている場所もありますもんね。それの発展系ってイメージですか」


 牧羊犬と共に田舎暮らしをするなど、海外の牧歌的なイメージや自然を好む傾向がある。日原の両親もそんなタイプだった。

 飼っている馬を馬術場に委託しているだけでもかつかつだが、もしかするとそういうところに馬を預けることも理想的にはしたがっているかもしれない。


 自分よりも馬を大事にしている節もあるので、敢えて突っ込んだ話はしたことがなかった。

 こんなところでそれらしい話に行き着くとは予想外で、苦笑が浮かんでしまう。


 その表情の意味を理解できない教授は不思議そうな顔をしていた。


「あ、それとこの馬はどうして運ばれてきたんですか?」

「昨日、雷と雨が激しかったろう?」

「そうですね……?」


 昼食時に渡瀬もその話については言及していた。

 けれど、それが一体どう繋がるのかわからない日原は首を傾げる。


「その音に驚いて急に走ったところは牧場の人が見たらしいんだ。臨床症状からして、恐らくそれで腸が捻じれて腸閉塞になってしまったようだから、その確認をね」


 つまり牛の病理解剖に近いということらしい。なるほどと納得して頷く。

 尤も、それだけではないようだ。


 教授はすぐに「まあ――」と何やら気になる引きでこちらを見つめてくる。


「むしろそちらよりは君たち獣医の卵の経験にしてもらうための善意の献体って意味合いが強いかもしれないね。倫理的にも、予算的にも全部の動物を経験するのはなかなか難しい。こうして善意で成り立っている以上、しっかりとね」

「はい……!」


 牛に比べれば飼育頭数も文字通り桁違いに少ない馬だ。

 確かにこうして解剖機会に出会えるだけ恵まれている。


 日原は教授に力強く頷きを返したのだった。

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