第18話 不妊去勢手術 ②

 

「はいはーい、一年生はまず準備が終わるまで端の方でじっとしておいてねー。私は下っ端なので監督を仰せつかりました。準備は外科学研究室の学生がやります」


 そう言って獣医学科一年生を前にするのはラウンジで動物の引き渡しもしていた内科学の助教だ。

 研修医という名札を下げた女性もいる。


 上級生は作業慣れしているのか別途指示がなくともてきぱきと動き、手術器具を置く台の消毒や滅菌器具の準備を済ませていった。


 手術室には手術台が二つある。

 準備を見るに、どうやら犬の不妊手術と猫の去勢手術は同時におこなわれるらしい。


「外科と内科、病院、放射線研究室所属の生徒は研究室の教授が診察する際、看護師みたく同行します。そして外科や病院講座なら、このように手術をよくします。診察の同行と手術の準備と入院動物の世話がルーチンワークとでも思ってください」


 そんなことを助教が説明してくれていたところ、後ろから上級生が近づいてきた。


「先生、器具の準備終わりました。麻酔導入と毛刈りはどうしますか?」

「研修医の先生とやっちゃって。こっちはこっちで説明するので」


 確認を終えた上級生はすんなりと頷き、また滞りなく動いていく。

 助教は彼ら動きをデモムービーのように指し示しながら説明を加えた。


「不妊去勢手術の意義は前もって渡したテキストの通りです。あっちでしていることは術衣に着替えながら解説しますね」


 助教は隣の準備室に向かうと帽子とマスクをつけ、手を洗って戻ってきた。

 彼は上級生の補助を受けながら緑のガウンや滅菌グローブを着用する。


「あちらでは麻酔導入をしています。犬猫には少し前に留置針がセットされ、麻酔前投与薬も注入されました。留置針とは、何度も薬液を注入するためのソケットとでも思ってください。あと麻酔前投与薬についてですが、麻酔は単体で使うより鎮静剤や鎮痛剤と組み合わせた方が量も痛みも抑えられるのですね。そういう下準備というわけです」


 研修医はこの説明を背景として子犬の前腕を手に取る。

 いよいよ始まる雰囲気に、日原たち一年生はパレードの観客のように立ち並んだ。


 子犬の前腕の血管には留置針――柔らかい樹脂のソケットがテーピングされている。

 薬液の追加があるのか、研修医は白い液体が入ったシリンジをそこに近づけた。


 ゆっくり投与されていくと、ぼーっとしていた子犬はかくりと眠りに落ちる。


「あれはプロポフォールという麻酔薬です。あれで超短期の麻酔を効かせている間に挿管し、吸入麻酔を開始するわけですね。イソフルランなどの吸入麻酔も含め、基礎知識は今後の薬理学で習うので、今は流れを知ってくれれば十分です」


 挿管が終わると仰向けに寝かされ、素早く電極が皮膚に付けられた。

 それによって目の前のモニターに心電図が刻まれる。


 上級生が次に行うのは術野の準備だ。

 犬の腹部をバリカンで毛刈りすると剃刀でさらに丁寧に剃る。

 それが終わると皮膚の表面を、器具台と同じくアルコールとヨウ素で消毒していった。


 助教は確かめるように頷きながらそれを眺めた。


「麻酔の導入が終わり、こうして消毒が終われば術者の出番です。手術中は邪魔にならないようにもっと遠巻きから眺めてください」


 助教は帽子とマスク、ガウンと滅菌手袋の装着を終え、テレビで目にする手術の装いに変わっている。

 彼は手術台を前にした。


「まずはドレープと呼ばれる覆いを患者に被せ、タオル鉗子というロック機能付きのピンセットで手術部位の四隅を止めます。これで準備が整ったので、執刀開始です」


 助教は助手からメスを受け取ると、犬の腹部を一センチほど正中に切皮した。

 その後は角が丸いハサミを手にする。

 それで切るのかと思いきや、違う。切るのとは真逆で、閉じた状態で皮下に突っ込み、開く力で皮下組織と筋肉を剥がしていた。


 飼い主のクラスメイトはその光景が痛々しくて目を離している。

 けれども痛々しさ以上に行動の意味が気になった日原は助教に問いかけた。


「それは何をしているんですか?」

「体表に大きな傷があると癒合不全があった時に大変です。ただし、内部までそれだと体内でY字に広がる子宮を手繰り寄せきれません。だから、少し広い窓口を開けるためのスペース作りですね。それも終わって腹膜も切ったので、卵巣に向かって伸びた子宮角と呼ばれる管を、この小さなフックでひっかけて体外まで引き出します」


 腹腔内にそれを差し込んだ助教は腸のような管状の臓器を引き出した。

 それが件の子宮角らしい。

 柔らかな臓器に、血が通った血管まで見える。


 食品としての臓器は見覚えがあっても、活きた臓器を目の当たりにした覚えがある生徒はいない。

 日原たちは生唾を飲んでしまう。


「卵巣には血管が繋がっており、頭側から血流があるので鉗子で挟んで止めます。そして糸で結紮して卵巣を切除。反対側でも同じことをした後は子宮頚管を結紮して切除。簡単に言うと、そんな具合で手術が終わります」


 助教は手術時間を短くするためか、処置が手早い。

 たくさんの生徒が並んでいる上、ドレープに空いた術野は直径十センチにも満たない。そのため、手技をじっくりと観察することは不可能だった。


 気付けば切除された子宮と卵巣が膿盆に移され、上級生が一年生に回してくる。

 助教は縫合針を掴むための持針器と補助用の鑷子を持ち替え、すでに腹膜や皮膚の縫合に移っていた。


 それはまるで釣り針による裁縫だ。


「糸を引っ張ると長くなる方をロングテール、裁縫の玉止めとして残る方をショートテールと言います。目で追いにくい速さですが、毎度逆巻きに結んでいる作業です」


 しの字型の縫合針で皮膚をすくうと針を手で持ってロングテールを持針器に二回巻き付け、ショートテールを持針器で挟んで結ぶ。

 次も持針器に巻き付け、ショートテールを掴んで結ぶという繰り返しだ。

 一定のリズムで流れるように進むその手技はまさに職人芸の領域である。


 助教は傷を等間隔に結び終えると器具を置いた。


「というわけで不妊手術は終わりです。じきに覚醒しますが、腹腔を開いた手術なので一日入院した後に退院です。そちらの去勢手術ですが――もう終わっていますね」


 流石に一つの手術台を三十人では囲えないので、半分はそちら側を見ていたようだ。

 説明どころを失ってしまった助教は少しばかり考えた様子だったが、まあいいかと小さく息を吐く。


「処置としては不妊手術より工程が少ないです。陰嚢を切皮すると皮膚が弛んで癒合しにくいので陰茎寄りを切皮し、そこから睾丸を捲り出すように露出させます。そして輸精管や血管を結紮して切除し、皮膚を縫合すれば終わりです」


 処置としてはそういうものらしい。

 これはあくまで授業ではなく、研究室の雰囲気を手早く掴んでもらうためと助教は割り切っているのか、説明が軽めだ。


「では、質問がある人以外はこれで解散としましょう。一年生の皆さん、良い休日を」


 助教はあとをよろしくと研修医に場を任して退室した。

 手術の詳細な技術まではわからなかったが、見学の趣旨は十分達成されただろう。

 日原たちは上級生に対して、研究室に所属してからの感想などシンプルな質問をいくつか向けた後、この場から離れた。


 これにて基礎系と臨床系、ひと通りの研究室を見終えたことになる。

 四人は大学の学生食堂に向かうと、早めの昼食がてらに確認を始めた。


「これで研究室のレポートに関しては大丈夫そうだな。当面の課題はクリアか?」

「そうだね。あとは定期テストに向けた準備くらいだと思うよ」


 これまでを振り返る鹿島の声に、日原は補足をする。


 ひとまず他にレポートを課してきそうな教科もないため、安心だ。

 また、定期テストに関しても渡瀬が上級生から過去問をもらってくれるという話だった。


 進捗はどうかと伺うために目を向けてみると、彼女は途端に表情を引きつらせた。


「あっ、そういえば……」


 そこはかとない不安を抱かせる仕草だ。悪い想像をしつつも、日原は問いかける。


「もらうのはこれからとか、そういう話? できる範囲でなら手伝うよ」

「ううん、そうじゃないの。もらいはしたんだけどね……」


 渡瀬はそう言って手提げカバンからプリントを出してくる。

 そこには過去数年分のテストがあったのだが、獣医遺伝育種学に関しては一枚もない。


「あのね。実はこの教科、近年になってコアカリキュラムとして新設されたばかりだし、教授が答案を回収しちゃうんだって。だから過去問がなくって……」

「うわっ、それはまた嫌な感じだね」


 生物の遺伝分野に関して基礎的な話もあったが、最近はどうも高校生物Ⅱでも見なかった難しい話に足を突っ込み始めたために不安が生じていたのだ。

 朽木は無言で顔を押さえているし、鹿島は天を仰いで大きなため息を吐いている。これは危険な臭いがした。


 すると、渡瀬はさらに切り出してくる。


「この教科、大変そうだよね……。それでさ、過去問をくれた生化学の先輩に不安を打ち明けたら、一ヶ月後くらいに試験範囲を教えてくれるって言ってくれたの。ただ、それに関して皆に言わないといけないことが一つあってね……」


 随分と良い根回しに思えたのだが、渡瀬は後ろめたそうである。

 指をいじいじとしていた彼女は意を決して口を開いた。


「実はそのお願いを聞いてもらう代わりに、『ニクダシ』って仕事を手伝ってって言われちゃってね……」

「ニクダシ……? なにそれ?」


 聞いたこともない名前に日原は首を傾げる。

 だが、渡瀬も詳細は知らないらしく、首を横に振って返してきた。


 この獣医学科には、まだまだ日原たちが知りもしないことが多いらしい。

 




※※※


これにて一章が終わりました。


ファンタジー系と違って目立たない作品なので、これを機に評価や感想での応援をどうぞお願いします!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る