第44話 三人寄れば文殊の知恵 ②


「うん。だから現場で実施されている機会を有効利用するためにキャンパス内に家畜保健衛生所を移転させた獣医系の大学もあるらしいよ」

「共同研究のためとか? それで解決するものなのかな……?」


 精密機器はその使用頻度的に、有効活用するなら関係各所が共同で利用するのが望ましい。

 研究機関を一ヶ所にまとめる話はなんとなく理解できる。


 けれどそれで基礎分野の何が解決するのかは日原にはよくわからなかった。


「ただの研究だけじゃなくて、家畜保健衛生所は流産や病死があった時は疾病蔓延防止のために病理解剖をするんだって。その辺りが関係してくるみたい」


 これは鹿島が親から聞いたことを渡瀬が代弁してくれているのだろう。


 家畜保健衛生所は家畜の疾病蔓延防止が仕事とは聞いた。それが病理解剖までしているとは初耳である。

 けれど、知ってみると加藤教授から聞いた解剖実習のためだけではないという内容と繋がった気がした。


 渡瀬は紙を見て、続きを語る。


「あと農業共済の事業の中に家畜共済って言って、病死や事故や治療の時に出る保険があるみたい。インフルエンザの診断書みたいに、その病気の診断書を作るための病理解剖もあるらしいんだけど、そういうものを生徒に実習として見せるんだって。私たちの大学でした実習もそれに近いんだと思うよ」

「……! なるほど。だから僕らの実習のためだけじゃないって言われたのかな。そう思えばしっくりする気がする」


 鎖肛だけでなく肺炎やハイエナ病、牛白血病も確定診断を含めた病理解剖だったのだろう。


 産業動物であるためにペットと違って費用的な意味で治療の限界がある。

 けれどそこで診断書を作るためだけに病理解剖をするのではなく、大学と連携して医療の発展のためにデータを集めたり、生徒の実習としたりして最大限の意味を作ろうとしたらしい。


 日原は高原を見渡した後、知り得た事実を噛み締めた。

 自分たちの勉強のために命が使われ、それから十分に学び取れなかった。――そういうことではなかったのだ。理解できると、棘が抜けたような思いがする。


 心境の変化がどのようなのかずっと気がかりだったのだろう。渡瀬がこちらにじっと視線を注いでいたことに気付いた。

 彼女の表情には安堵が浮かんでいるのがわかる。


 この場に鏡なんてないが彼女を見れば先程までの自分がふと浮かべていた表情がどんなものだったのかは察せられた。


「産業動物を取り巻く世界も深いんだね」

「ええと……肉牛二百五十万頭、乳牛百三十万頭。豚が一千万頭。鶏が……三億羽!? う、うん。こんなにいるらしいし、ここだけ見ても獣医としての関わり方はいろいろあるよね……!?」


 彼女はカンニングペーパーを見てその数字を拙く補足した後、自分でもその数について考え込んだ様子を見せる。


 これらの動物の疾病蔓延防止などを司る家畜保健衛生所はこの他に羊、山羊、馬、蜜蜂なども管轄だという話だった。彼女が好きな羊は先程の数字に上乗せされるわけなので、改めて驚いているのだろう。


「産業動物ってさ、病気で死んでしまったら産業廃棄物ってことになるんだよね?」


 日原はふと言葉にする。

 ぶつくさと考え込んでいた渡瀬はその声に目を向けてきた。彼女は認めがたそうに眉をハの字に寄せる。


「ペットの死も器物破損で捉えられちゃうもんね。法律的にはそう言うしかないんだろうけど、嫌な感じだなぁって思うよ」


 動物の命に携わる者――その卵としては受け入れにくい表現だ。

 渡瀬の気持ちには日原としても同意である。


「うん。そうなんだけど、解剖や研究で病因を究明することも、獣医師として疾病を予防するのも、産業動物を産業廃棄物ってものにしないために重要なんだね。こうやって見たり聞いたりして、少し実感が湧いた気がする」


 解剖に連れて来られた牛のように病気として末期で廃用になるしかない運命でも、後世のために活きるのならば無意味な死ではないだろう。

 単なる産業廃棄物とは、断じて違う。


 そんな思いで口にしてみると、渡瀬も意味を理解したらしい。「そうだね。私も」と頷きを返してくれた。


 そうして解剖実習を振り返りながら天狗高原をしばらく見回す。

 さて、それでは次に移る頃合いだろう。そんな空気になり始めた時、日原は解剖教授の言葉の続きを思い出した。


 晴れた顔つきから一転し、顎を揉んで考え始めたので渡瀬も気にして「まだ何かあるの?」と問いかけてくる。


「そういえば解剖の意味だけじゃなくって、解剖牛の行く末にまで意味があるって解剖教授が言っていたなって思い出して。君はニクダシも見ていたろう? なんて含みを持たせて言ってきたんだよね。皆が調べてくれたことで意味は分かったんだけど、今度はそこが気になってきたんだよね」

「えっ、行く末……?」

「うん。例えばニクダシの時に解剖残渣を積み込んだトラックの目的地とか?」

「それはやっぱり焼却処理施設じゃない?」


 二人して自分が口にしたものが不確かで、むむ? と首を傾げ合ってしまう。

 実際のところ、あれはどういう意味のものだったのだろうか。互いの顔を見るに、二人では答えが出せそうにない。


「じゃあ、これこそ大学に戻ったら武智教授を頼って聞いてみようか。一応、解剖の加藤教授には調べてくる課題だって言われちゃったし」

「私もそれは全然わからないし、気になるな」


 渡瀬としても異論はないようだ。

 そうして会話がひと段落したところで彼女はバイクのキーを取り出してくる。


「じゃ、それはそれとしてこの辺りの牧場も遠巻きから眺めて帰ろっか。実はね、栗原先輩経由で家畜保健衛生所に就職したOBの人と連絡を取ったんだけど、今日はちょうどこの辺りで仕事があるんだって。遠目から眺めるだけなら大丈夫って話だから、それを見よう? 今は大変だけど、今の私たちの頑張りがどういうところで活かされるのか見たらきっとやる気が出ると思うの」

「何から何まで気を遣ってくれてありがとう。助けられっぱなしだね」


 至れり尽くせりというくらいに細部まで気を遣われているのがよくわかる。それくらいまで考えてくれる友人を持って胸が温まる思いだ。


 彼女らにはどうやって返していくべきだろう?

 考えてはみるものの、案が浮かばなくて悩んでしまった。


 すると渡瀬はとんでもないと首をぶんぶんと横に振る。


「そんなのいいってば! 私たちの方は常日頃から勉強を見てもらっていたしね。日原君はもう、こまめに助けてくれているじゃん。どこかでつまずいたらお互いに助け合っているだけだよ」


 彼女の笑顔につられて笑みを零す。

 勉強を教えることとこういった気遣いは別物と思っていたが、確かに助け合いは数や質で比べるものでもない。


 助け合いという言葉に、ふと受験の時を思い出す。

 そういえば彼女との縁も消しゴムを貸すというところから始まっただろうか。あのやりとりがなければ今日という日は来ていなかったかもしれない。

 情けは人の為ならずなんて言葉の意味を我が身で体感した気分だ。


 渡瀬はバイクに跨り、来た時と同様に座席を叩いて招いてくる。

 日原はそれに応じてバイクに乗るのだった。

 


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