第35話 息づいているもの ②

 黙祷を捧げるように十数秒の沈黙を保った後、教授は改めてこちらを見つめてくる。


「これから一時間程度はかかる。しばらくどこかに行っていてもいいが、どうする?」

「いえ、ここにいたいと思います」

「そうだな。ちゃんと別れをして心に区切りつけるにはそれがいいかもしれない」


 辛ければ見ないという選択肢もあるだろうが、それではきっといつか後悔するだろう。


 ……そう。

 後悔するかもしれないといえば、日原には一つ確かめたいことがあった。


「武智教授。僕はコウのために一番良い行動を取れていたんでしょうか?」

「一番良い、か。最高と最善の格差で思い悩むのは医療現場の常だな」


 言葉の捉え方は難しいとでも言いたげに教授は唸る。


 最高といえばもちろんその上がないことだ。

 対して最善や最良といえば、取りうる手段の中での最高。そんな違いがあるという話は様々な場で聞いた覚えがある。


「最高で言えば人間の医療水準の人工透析や腎移植だが、日本ではほぼ実施されていないことだ。引き渡しの時にも言ったが、腎不全は君も適切に努力したからこそ平均余命よりは永らえたと考える」


 そう言って教授は日原の肩に手を置いて横を通り過ぎた。

 彼が席を外したのは仲間内だけにした方が心の整理がしやすいからだろうか。


 目に見えて動きがあるのは渡瀬だ。彼女は何か言いたげにあぐあぐと口を開閉させている。

 その動きが次第に小さくなるにつれ、苦悩の表情は深まっていった。


 もしかすると、発しようとする言葉が正しいのか悩んでいるのかもしれない。口下手な朽木も似た表情になっていた。

 鹿島はそれらの表情を見回し、小さく息を吐く。


「あんだけレポートと図書館の本を読み込んでこの結果なんだ。教授の言う通りなんじゃないのか?」


 鹿島の言葉は端的で、表情にもブレがない。

 言葉が重なるほどに配慮が見え、実際の感想が隠れてしまったと感じることはある。それからすると彼の態度はこざっぱりとして、はっきりとした思いが感じられた。


「うん、できることはやっていたと思う」

「そうだね。なら、これからまた頑張っていかないとね」


 日原がこれまでのことを軽く振り返ったところ、渡瀬は頷きかけてきた。

 鹿島の行動に倣ったのか、励ましに苦慮していた様子とは変わっている。


 あとは言葉少なに火葬を見守っていたところ、しばらくして武智教授が戻ってきた。

 火葬台車が改めて引き出され、遺骨が現れる。

 コウはただ深い眠りに入っただけという印象も、ここまで来ると死の実感に変わった。


 生前よりずっと小さくなってしまったコウを骨壺に収める。

 その後、武智教授はこちらの感情を推し量った様子で穏やかなことを向けてきた。


「日原。今すぐにはパートナー動物を決めなくてもいい。経験をもとにしっかりと気持ちを整理――いや、違うな。気持ちが消化できたらレポート製作や次のパートナーを決めることを考えていくように」

「はい。しばらくしたら考えていきたいと思います」


 失った痛みは辛かろうと気遣った言葉が向けられる。

 だが不思議と悲しみは沸かなかった。


 どうにも例えにくいものだが、まだ死の実感が沸いただけで悲しいという感情に辿り着けていない――そんなところだろうか。

 教授の言葉は第三者に向けられているものを耳にしているような気持ちさえしてしまう。


 そんな時、骨壺に視線をふと視線を落として気付いた。

 もしかするとコウを失って胸から抜け落ちたものが、この骨壺なのかもしれない。自分の一部がなくなったが故、感情の歯車が上手く噛み合わなくなった。

 日原にとってのペットロスはこのような形だった。


 骨壺を抱いて、唇を嚙む。

 飼い主がいつまでも引きずられていたらコウも浮かばれないことだろう。そう考え、日原は感情を切り替えようとする。


 火葬炉を掃除し終えた武智教授はその様を見てふむと顎を揉んでいた。


「日原君。悩んだりしたら獣医学部棟にある私のデスクを訪ねてくればいいからな?」

「悩み、ですか?」


 悲しいという気持ちにまで至っていないが、骨壺を見つめていると思い詰めそうになる。そんな状況で向けられた言葉なので日原は理解が遅れてしまった。


 教授は穏やかに言葉を続ける。


「時期が少し悪かった。君たちはこれから解剖実習があるだろう? 二年生の生理学実習でも安楽殺が絡む。そういう動物の死に直面して悩みを抱える生徒は多い。悩みを悩みと気づいていないこともある。これは男女関係なく、一生懸命に向き合ったからこそ起こることだ。頭の片隅にでも入れておけばいい」


 心配をされているのだろうか。

 武智教授はぽんと叩き、婉曲に提案してくれる。


 けれどもそこまではいかない。

 確かに半年も飼ってきたコウが亡くなったばかりなので元気は出ないが、何も手につかないわけではなかった。


 武智教授は長引かせようとはせず、それで切り上げて帰っていった。


「ひとまず寮に戻るとして、どうする? 何なら一緒に飯にでも行くか?」


 残った仲間で最初に口を開いたのは鹿島だ。

 一人でいると落ち込まないかと気にしてくれたのだろう。こういう細かな点を気にかけてくれるのが彼という男だ。


 日原はその配慮に苦笑を返す。


「いや、流石に出歩く気分でもないかな。それに部屋の片付けもしたいと思うし。牛の世話を今日だけはお願いしてもいい? 明日の朝から行くよ」

「そうか。そう言うならいいんだが」


 そして三人と別れた日原は一人で自室に戻った。

 暗く、静かな廊下を過ぎ、リビングの壁に貼られたカレンダーに目を向ける。


 大学の動物病院には薬の補充、赤血球量の定期検査などがあって二、三週間に一度はコウを連れて行ったのだ。

 その他、どのメーカーのフードをいつからいつまで食べていたのかなどがびっしりと記されている。


 それに合わせたフード入荷依頼もしていたのだが、もう必要がなくなってしまった。

 予定に二重線を引くと共にキャンセルの連絡を入れておく。


 するとどうだ。

 カレンダーは驚くほどに予定がなくなってしまった。


「あとはご飯皿と水とトイレも片付けるべきかな。キャットタワーももういいね」


 ここ最近は飾りでしかなかったキャットタワーを眺める。

 コウにそこから見下ろされた時は様々な角度で撮影したものだった。


 その思い出が懐かしい上、キャットタワーに残ったコウの毛が目に留まる。

 コウ自身が遺骨になってしまった今、これは貴重な名残だ。


 床に置きっぱなしのおもちゃも含め、部屋を意外に占めている品々を見回す。それらを一つ一つ片づけていくと、部屋がひと回り広がった印象を受けた。

 骨壺と同じだ。自分とその周りを形作っていたものが急になくなってしまい、喪失感を覚える。


「……寂しいな」


 こういう時間も気持ちの整理に必要だが、鹿島の気遣いもまたこんな時に恋しくなる。

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