第16話 臨床系研究室 ②
「一年生じゃ社会人の就職体験談もまだ聞いていないか。この研究室の技術を活かす方向だと農業共済や大動物の診療所が候補だろう。そうだろう、学生?」
教授は検査をしている学生たちに視線を投げかける。
「農済っす」
「家畜診療所ですね~」
「
空いている手を上げたりしながら、彼らは答えてくれた。
はて。
しかしながら農業共済とやらがパッと思い浮かばない日原は首を傾げた。
農済のみならず、農協という言葉も思い浮かんでしまい、混乱する。
「あのー、農済って何ですか?」
「ふむ、知らないか。獣医師が関わる分野を簡単に言うと、半分公務員で大動物の治療をする機関と思えばいい。家畜診療所は動物病院の大動物版だ」
日本中央競馬会であれば日原も知るところだ。
馬のレース大会なのだから、疾病蔓延防止などで獣医も当然必要になる。
馬の相手もあるのだから、産業動物の相手もあることだろう。
基礎系も含め、渡り歩いてみると視野が広がる。“動物のお医者さん”について動物病院くらいしか思い浮かばなかったが、研究分野に公務員、大動物診療と獣医師が活躍する舞台は多いようだ。
臨床繁殖講座については教授の会議や午後の牛の世話が重なってしまい、あまり時間が取れないということでしばらくすると終わりを迎えた。
次の研究室訪問のため、日原たちは動物病院棟に向かう。
その最中、渡瀬は興奮した様子で口を開いた。
「案外、獣医って職域が広いんだね。びっくりだよ。単に大動物に関わるってだけでも選択肢が多そうだし、これからの進路を迷っちゃうね」
「それだけじゃないぞ。担任が言っていたように、公務員には食肉処理場、店や温泉の衛生管理みたいな厚生労働省系の業務もあるそうだ。農林水産省系の家保以外に、国家公務員として空港の検疫に勤めるとかもあるらしい」
「なんとっ……!?」
親が獣医師というだけあって、鹿島は広い範囲の話を聞いているらしい。また知らない分野が発掘され、渡瀬は眉を上げた。
では、その就職割合は如何ほどなのだろう。
日原は鹿島に疑問を投げかけてみる。
「じゃあ、実際は花形の小動物臨床ってどれくらいの割合なんだか知ってる?」
「そこまでは知らないが、調べれば出るとか親は言っていたな。――ふむ。大学卒業者の状況だと四万人の国家資格所持者のうち、小動物が四割。公務員が二.五割。さっきの話の産業動物系が一割。あとはその他が一.五割と不明になっているな」
「花形が四割なの!?」
「その他もなんだか多くないかな!?」
検索結果を読み上げる鹿島に、渡瀬と日原がそれぞれ驚きをぶつける。
すると、彼の携帯画面を覗き込んだ朽木が何かに気付いた様子だ。
「獣医師法第二十二条に基づく、二年毎の調査結果だって。『その他』は大学関係者と製薬会社系。『不明』は……寿退社とか、そういう人?」
「そんなところだろうな」
鹿島の肩に両手と顎を乗せた姿は普段、彼女が抱えるテグーに似ている。
日原は己の気付きにひっそりと笑いつつ、足が止まっていたことを思い出した。
「おっと、いけない。次は放射線講座が待っていたよね。急ごう!」
腕時計を確認した日原は急かし、四人揃って小走りで向かう。
待ち合わせたのは動物病院棟でも比較的新しく改修されたフロアだ。光沢感のあるリノリウムの床といい、まさに最新と言うべき雰囲気がある。
そこで待っていると、上級生らしき白衣姿の女性がやって来た。
「約束していた一年生ね? ごめんなさい、教授は忙しいから私がさっと案内するわね。と言っても、機器が桁違いに高額だから遠目から眺めるだけで、物には触らないように気を付けてください。億単位、数百万円単位がゴロゴロしているからね……」
洗練された校舎状況に相応しく、上品そうな女性だ。
彼女は普段から耳にタコができるほど聞かされているのか、遠い目をしている。
MRIは超高額で磁力を利用したもの。
そんな話に聞き覚えがある日原は心して頷く。
「金属が物凄い力でくっつくんですよね。それに、壊れれば修理費用も凄まじいとか」
「その通りです。MRIは電磁石と超伝導を利用しています。とても簡単に言うと、磁力で体内を透かして見ますが、それを可能にする磁力を維持するには莫大な電力が必要になるので超伝導を利用しています。故障すれば機能全停止で、液体窒素も全交換となるので凄まじいことになります。不祥事が起こると一人の首では事が収まらないので、くれぐれも早まったことはしませんように……!」
いいですね!? と、先輩は念を押して各自の表情を確認する。
それに各々が返事をした後に案内をされた。
「基本的に放射線講座はこのMRIやCTの管理と有効利用が仕事です。例えば椎間板ヘルニアのように骨や神経に関する検査だけではなく、MRIやCTで追跡できる薬剤で腫瘍の新たな発見法を生み出すとかが医療分野での利用法になります」
そんな説明がてらに案内されるのはMRIの操作室だ。
ガラス窓の向こうには巨大な機会が確認できる。パソコンとディスプレイがいくつも並び、向こう側には金属扉を潜らないといけないところからして重々しい雰囲気だった。
その空気に震撼しつつ見渡していると、渡瀬が実に楽しそうに反応する。
「なるほど。神経学的な検査だけじゃないんですね!? それは知らなかったなぁ」
「その他にも、大動物のための利用法も考案されていますよ」
ふふふと奥ゆかしく笑った先輩はこの部屋を出ると、別の部屋に案内してくれる。
先程までの雰囲気とはまた違い、今度はリノリウムの床ではない。
割れにくそうなモルタルか何かの床材で、周囲には排水溝や床用水切りも壁に立てかけられているのが見えた。
「こちらは大動物用のCTね。レントゲンと同じくX線で体内を透かして見る技術。産業動物だと、費用対効果的に高額医療はほぼ実用性がないのだけど、病気を生前にきちんと診断して身体検査や病態の解明に利用するという分野では開拓する意義のあることなの。大学ならではの研究になるかしら」
社会に出ればできないこと。そんな言葉に日原たちはほほうと関心を寄せる。
「放射線学は物理学と解剖学を元にした分野だからね。ちょっと取っつきにくくはあるけれど、動物の高度医療に興味があれば楽しい講座かもしれないわ。さて、ちょっと早いけど機器も動かせないから他に見せられるものもないし、この辺りで終えましょうか。何か質問はありますか?」
想像通りの部分を確認し、意外な面も耳にしたところだ。渡瀬にももう質問はないらしく、話はここで終わりとなった。
部屋から退室しながら先輩は世間話として問いかけてくる。
「研究室見学なら、この後は外科あたりかしら?」
代表例なのでそれを逃すことはないだろうと確信した様子で問いかけてくる。
予約を担当してくれた鹿島はそれに対して首を横に振って返した。
「いいえ。実は土曜日にクラスメイトの保護犬と保護猫がちょうど不妊去勢手術をする予定になっていまして。見学申し込みが多い外科と内科はそこで全体説明だそうです」
「なるほど。あちらも忙しいものね。そうやった方が確かに効率もいいかも」
流石に花形は違うと先輩共々笑い、本日の見学は終了となるのだった。
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