第20話 ニクダシと謎の儀式 ②
「ええっ!? あの、それって大丈夫ですか?」
はははと笑って済ます先輩に渡瀬は不安をぶつける。
彼女はちらちらと日原たちの顔色を窺っていた。自分が今回のことに結びつけただけに、面倒事になっては申し訳ないと責任を感じているのだろう。
だが、先輩はそんな彼女を制する。
「大丈夫、大丈夫。汚れてもいい格好で向かえば解剖や病理学の連中が適当に指示してくれるから。それを平然とできなかったら今後の授業も乗り切れないって」
「えぇ……」
産業廃棄物用のトラックの荷台に肉を運ぶので重労働。
そんな点はわかるものの、気になる物言いだ。
まさか体力がなければやっていけないという話でもあるまい。
これはまるで生理学講座の栗原先輩が動物実験について語った時のようである。
一度はそこにつまずきかけた日原としては、残る三人より気がかりだ。
「悪いな。あと実験の都合で残り時間にも限りがあるから、ささっと済ませようぜ」
先輩はそう言うと、実験工程が印刷された紙を突き出してくる。
どうやら、実験の合間に発生する一時間近い試薬反応待ちなどの時間を有効活用する予定のようだ。
ニクダシについては、授業で近いことを今後するなら逃げる意味は薄いことだろう。
いいように使われている気もするが、先輩からのレクチャーは貴重である。こうして言われる以上は粘っても答えを聞けないだろうと諦めた。
日原たちが獣医遺伝育種学を取り出すと、先輩は興味深そうな顔で手に取る。
「ほーう! コアカリキュラムになると、こんな教科書を使うのか」
「そういえばこの授業は最近できたものらしいですね。先輩の代ではどうだったんですか?」
教科書を手渡した渡瀬はついでに問いかける。
授業は全国ほぼ一律であろう高校までの感覚ではよくわからない話だ。彼女が問いかけるのも頷ける。
そもそも、授業名目が違うならレクチャーできるのかどうかも少しばかり怪しいところだ。
けれども、教科書を捲って確かめる先輩は、ははあと理解した様子で頷いていた。
「似た教科はあったな。獣医学生の授業体系は二〇一七年から五年生が受けることになった
「共用試験ですか?」
「そう。医学科とかではもっと前に導入されたんだけど、内科や外科みたいな臨床的な実習を受けるなら基礎もちゃんとしておけよって意味合いで始められた試験。簡単に例えると、路上講習を前にした車の仮免許試験みたいなもんだ」
同じく、動物病院で働くための対人コミュニケーション能力などを確かめる獣医学
獣医学は入学が最大の難関で、卒業や国家試験に関しては大多数が受かるものと聞いていたので意外な関門である。
「はっはっはー。頑張れ、一年生。お前たちの代ならしっかりと催されると思うぞー」
自分にはもう関係のないことと先輩は笑う。
日原たちは表情を曇らせずにはいられなかったが、それはそれ。
時間に限りのある先輩は時計を確認すると姿勢を正し、疑問点について教えてくれるのだった。
「――はい、というわけで実験ももう手が離せなくなるし、終わり。疑問もあらかた片付いただろう?」
先輩は参考として使っていた自分のノートを閉じ、問いかけてくる。
見やる先は死屍累々だ。鹿島と朽木は頭から煙を出して沈黙しており、渡瀬は息も絶え絶えである。
日々勉強することである程度補っていた日原でも、少しばかり知恵熱が出そうなところだった。
元気のない皆に代わり、日原は頭を下げる。
「はい、ありがとうございます。あとは僕たちで何とかなりそうです」
「おう。近い分野の獣医遺伝学の過去問をやるから頑張れ。……お。そうだ、あともう一つ。お前ら、解剖学のテストは大丈夫か?」
「うっ……!」
残る三人がよろよろとしていたところ、思わぬ追撃があった。
実のところ、解剖学に関しても問題がある。
こちらは過去問こそあるものの、出題範囲が膨大で毎年違う問題が選ばれていて類似性がないのだ。
苦い顔をしていると先輩はそうかそうかとにやつく。
彼は携帯を取り出すと、誰かに電話をかけた。
「もしもし? あのさ、一年生が解剖のテストで困っているらしいんだけど、例の儀式を教えてやってもいいか?」
ニクダシに関してもまだ疑問が残るというのにまた怪しい言葉が出る。
裏取引にカモを利用するような先輩の顔つきといい、一体何なのだろうか。
彼は二、三応答した後に携帯を耳から離した。
「一年生。解剖学のテストについて、出題範囲が広くて困っているだろう? 教授から重要単語リストをもらえる方法があるんだが、聞きたいか?」
「それはもちろんです。けど……」
何かが裏にある。それを察していると、先輩は露骨な表情で笑みを浮かべた。
「もちろん、その代わりの頼み事もある。解剖学研究室の連中はお前たちの実習に用意される牛の世話をしてもらいたいらしい。授業までのほんの数日、餌やりと床掃除をするだけだ。楽なもんだろう?」
「やっぱりですか……」
日原は予想通りの展開に腕を組む。
まあ、山が張れないテストに向けて際限のない勉強をするよりは単なる肉体労働の方が楽だろう。
それに、実習は後期から始まる。
忙しい時期でないのなら融通は利くし、自分たちの実習に関係ある牛の世話ならやって然るべきところもあるだろう。
渡瀬たちを見回してみても、拒否の動きはなかった。
「わかりました、やります。ところで儀式って何なんですか?」
交渉が成立すると先輩はふふんと表情を緩め、電話相手にそれを連絡した。
通話を終えると、ようやく答えを教えてくれる。
「解剖の教授に氷砂糖を捧げることだ」
「はい?」
氷砂糖といえば、スーパーでも見かける砂糖の塊だ。
見た覚えはあるものの、実際にその使い道を問われるとパッと思い浮かばない代物である。
揃って困り顔をしていたところ、渡瀬は使い道に覚えがあるのか口を開いた。
「おばあちゃんが梅酒作りに使っていた気はしますけど、そういうことなんですか?」
「いやいや、そうじゃないんだよ。まあ、試験の一ヶ月前くらいに行くといい。時間はそうだな、五時過ぎだったらいいはずだ。皆で予定を開けてから行くこと」
「本当に何の儀式ですか……!?」
夕方に、用途のわからない氷砂糖を捧げに行く。確かに不思議な話である。
困惑した渡瀬は問いかけるのだが、先輩は怪しく口を緩めるだけで答えてくれない。
「まあまあ、それも行ってからのお楽しみだ。こっちこそネタバレは良くない」
そのような言い分らしい。
けれども、少しばかりは同情してくれるようだ。彼は四人の顔色を見つめると、苦笑を浮かべる。
「先輩にいいように使われて面倒に思っているだろうが、これも経験だって。それに悪いことばかりじゃない。ちゃんといいこともあるぞ?」
「いいこと?」
さっぱり想像がつかなかったのでオウム返しにすると、先輩は鷹揚に頷く。
「獣医学科生が代々働く店のバイトや、期間限定の超高収入バイトなんかも斡旋できる。先輩にこき使われていたら、いずれ甘い蜜も吸えるさ」
彼自身、そのような記憶があるのだろう。うむうむと深く頷いている。
「例えばどんなのがあるんですか?」
「大学二次試験の試験監督が実質労働五時間で一万円ちょっととか、名産作物の収穫で時給数千円とかそんな感じだな。あとは個人契約の家庭教師とかも割がいい」
どれも普通に働く場合に比べて二倍以上は美味しいバイトになるらしい。
先輩が指折りに挙げていくと、鹿島は眼鏡を光らせる。
彼の場合、そういうものを学年で統括するリーダーにでもなりそうだ。
楽もあれば苦もある。
そんなことを知りながら、日原たちはテスト対策の特別講義を終えるのだった。
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