第32話 とうとう訪れるもの ③

「おぉ、君たちか。何だかいろいろと上級生がすまないね。また海外出張があったらお土産でも買ってくるよ」

「ぜひ! どんな分野まで研究できるのか聞きたいです!」


 真っ先に返答するのは朽木だ。

 彼女は紹興酒を交えた思い出話でも随分楽しそうだった。もしかすると、早くも三年後の研究室を決めにかかっているのかもしれない。


 バックしてくるトラックは荷台に檻が乗っていると表現するのが相応しい造りだ。

 跳ね橋と同様に荷台の背面を塞いだアオリのロックが外され、地面に降ろされていく。

 随分と頑丈で重そうだと思ったら、どうやらこのアオリ自体が動物の上り下りにおけるスロープの役割を果たすらしい。


 中には四頭の子牛が繋がれていた。

 子牛といっても大きい二頭は大型犬を上回るサイズだ。体高が人の胸より少し低いくらいで、体重は大人と同等かそれ以上はあるだろうか。

 牛は体調に大きな差があり、立ってこちらを向いていたり、座り込んで重い咳をしたりしている。


 先輩は荷台に乗り込むと牛を繋ぐロープを外しながら声をかけてきた。


「とりあえず下ろすところはこっちでするから、世話の仕方だけ聞いて帰ってくれ」

「はい、わかりました」


 日原たちは頷き、邪魔にならないように下がった。

 先輩は牛を立たせると、ロープを引いて牛を誘導しようとする。


 けれど牛というものは見慣れない境があると跨ぎたがらないものらしい。

 荷台のスロープの前で踏ん張り、次は解剖室前の牛舎との境で踏ん張ると抵抗を見せていた。


 トラックから降りてきた教授は日原たちと一緒になって上級生が動く様を見ている。彼は上級生がロープを引いても牛が抵抗する様を指差した。


「苦戦しているだろう? あれはね、農場から大学という見知らぬ土地に連れて来られて興奮しているのもあるけれど、アオリがいわゆるテキサスゲートと同じように見えてしまうから牛が怖がるんだね。商業トラックみたく、もっと大きくてスロープの角度も低くできればいいんだけどねえ」


 教授は悩ましそうに腕を組む。


 商業トラックといえば、高速道路などで見かける二トンや、四トンのトラックだろうか。教授が運転していたのは軽トラックよりひと回り大きい普通車である。

 比較すれば確かに屋根の高さやスロープの長さには大きな差ができることだろう。


 その一方でテキサスゲートとやらには聞き覚えがない。

 揃って疑問に思っていると、渡瀬が何かに思い至ったのか「ああ!」と手を叩いた。


「放牧地とかにある網や柵を地面に埋めたような境ですよね? 車輪や人の足では落ちない隙間だけど、牛や豚みたいな蹄を持った動物だと踏み外しそうだから警戒して渡らないとかって聞きます」

「そうそう。他にも一部の果樹園だとかも導入していたりするね」


 元からバイク乗りで旅好きである上に、畜産への興味が強い彼女だ。その手の知識も多いようである。


 それはともかく、日原は先程の会話で教授が「農場から」と零した点が気にかかった。

 実験動物を育てる専用の施設から連れてきたというにしては、少しばかり様子が違うようにも思える。


 ふと、この牛の出所が気になった日原は問いかけた。


「教授。この牛たちはどこから来たんですか?」

「うん? それは近隣の畜産農家からだよ」

「えっ。実験動物ではないんですか?」


 カエルや魚の解剖ならばともかく、動物の解剖である。

 いろいろと法律や倫理的な問題が絡み、専用の動物が用いられる――なんて思い浮かべたのだが違ったらしい。


 教授は「それは違うね」とはっきり否定していた。


「子牛一頭五十万円前後はするご時世だよ? 流石にこんな数を賄えるお金はないよ。見てわかるのもいるが、この牛たちは全部廃用の牛でね」


 『廃用』。それは読んで字の如く、廃棄予定の牛という意味だ。

 産業で用いられそうなその二文字にどきりとしたのも束の間のこと。牛を牛房に繋ぐ作業を終えたらしく、上級生の一人が近づいてきた。


 何故、廃用になっているのか詳しく聞きたいところだったが、教授は「話、いいっすか」と切り出してきた先輩に場を譲ってしまう。

 先輩は四人の前に立つと、牛を指差した。


「とりあえずお前たちにやってもらいたいのは朝夕の餌やりと床掃除だ。鎖肛、末期の肺炎、ハイエナ病、あと少し大きめなのが若いながらも牛白血病になってる。鎖肛のやつは食べても出口がないから、あげるミルクも少なめにした方がいいかな」


 とんとんとんと、あっという間に陳列された病名に鹿島や朽木は顔を背けた。

 渡瀬も明らかに理解できていない。縋るような目で日原を見つめてくる。


 勉強をしているとはいえ、流石に上級生が学ぶ範囲まではカバーしていない。

 日原は引きつった表情を浮かべながらも、先輩と目を合わせる。


「うっ……。すみません。僕たちはまだ牛の病気についてはまだわからなくて……」


 一頭一頭を指差しながら言う先輩に対し、日原は申し訳なく思う。


 出口がない鎖肛――つまりは肛門がないのだろうか。

 肺炎はわかる。

 ハイエナ病については全くわからず、牛白血病は白血病と何が違うのだろうかと疑問に思うばかりだ。


 そんな困惑を表情にしていると、教授が息を吐いた。


「これこれ。一年生にそんなことを言ってもわからんだろうに」

「あ、すんません」


 大きな体を屈めて頭を下げる先輩に、教授は呆れ顔を向ける。


 獣医の卵ならそれくらい勉強しておけとお叱りがなくて何よりだ。

 ほっと胸を撫で下ろしていると、教授は授業のように解説をしてくれる。

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