第22話 飼育は日々これ勉強なり ②

 ぺらぺらとレポートをめくってみる。


 自分も受け継いだレポートと同じだ。

 これには薬理学、内科学といった知識を中心に飼い主目線の予備知識や対処法が書かれている。


 渡瀬はそれを覗き込みに来ると、しみじみ頷いた。


「たくさんあるよね。ひとまず大切だと言われたのは健康に見えるほど症状を抑えてくれている薬を欠かさずにあげることと、てんかんが起こった時の対処かな」


 彼女はそう言って携帯を取り出すと、動画を再生する。


 それはこのゴンの映像だ。

 口から唾液を流してそわそわしているところから動画が始まり、その後、のけぞるようにして倒れて犬かきをするような動作が続いた。


 一分ほどするとその行動も止まり、上半身を起こしてぼうっとしているところで動画は終わる。


「こんな風にてんかんの前兆があったりするし、通常は数分で治まって命の危険もほぼないものだから、まずは落ち着いて状況の記録を取ってほしいんだって。本当に危険なのは発作をコントロールできなくなった時。だから発生頻度とか、薬の血中濃度を確かめつつ、できるだけ薬に耐性をつけないように維持していくのが大切らしいの」


 それがてんかんの維持治療としての運びらしい。

 全く違う疾病ではあるが、そうして病気と付き合っていくところにはコウの腎不全と似たものを感じた。


 ふと思い立って、日原はレポートの最後の方までめくる。

 そこには腎不全のレポートと同じく、末期について書かれていた。


 意識が戻らないために自分で食事が取れず、定期的に痙攣を繰り返す状態。

 そこまでくると病院では注射による投薬で処置できても、自宅では処置が難しくなってくるので安楽死が検討されてくるらしい。


 そのページに視線を落とした四人はしばらく声を発せずにいた。

 教科書的な知識では治療費や状態の兼ね合いで、どこまで処置を続けるものかという記述はない。


 渡瀬が薬剤の費用について語ったように、大型犬のてんかんの治療ならば投薬を続けなければいけないという初期段階でも治療の継続について飼い主と議論をすることもあるだろう。

 動物のお医者さんとしての華々しい姿では語られない部分が想像されると、言葉に悩んでしまった。


「そういう人の機微をケアしつつ治療をしていくっていうのが俺には無理そうだからな臨床系は避けたくなるな」


 以前から動物病院志望ではなかった鹿島は、腕を組んで呟く。

 そんな言葉を聞いた朽木は対照的に首を横に振った。


「辛いとは思っても、そういう気持ちを持って治療を考えてくれる獣医がいてくれると嬉しい。だからウチは目指すかな」


 犬猫と違ってまだまだ国内では希少で、扱える獣医が少ないエキゾチックアニマルを飼う朽木だからこそ、そういう気の持ちようはしっかりしているのだろうか。


 彼女の言い分に、日原は感心した。

 答えを返せなかった渡瀬も似たような思いがあるのか、朽木を尊敬の眼差しで見つめている。


 凄いものだ。仲間はもうそんなところまで考えている。

 日原としてはまだそこには手もかかっていない。


 レポートの最後に書かれている文章のように飼い主目線でコウの今後と向き合っていくことすら、まだまだどうなるかわからなかった。


「日原君、どうかしたの……?」


 不安が顔に表れていたのか、渡瀬は問いかけてきた。


 この三人は悩むよりも行動に移していく人種だ。

 一番年下で悩みを抱きがちなのもあってか、こんな風に心配されるのももう何度目だろうか。


 口にしないで済ますのも気が引けた日原は、思うところを正直に吐露する。


「引き取った時に比べてコウの症状も若干進行しているから、どう付き合っていけばいいのかなって思って」


 教科書に載っているのは症状と機序、治療法だけで、末期に向けての付き合い方は書かれていない。

 だから正解が見えないだけに不安なのだ。


 いや――。

 付き合い方とは口にしたが、本当に知りたいのは『どう看取ればいいのか』だ。


 口にしたくはないが、それを見つめていかなければならない時期が来ているとは思う。

 終末期医療やクオリティオブライフQOLといった言葉はこの道を目指す前からも聞いてきた。


 痛みは少なく、充実した余生を。

 そんな一言に集約されるものだとは理解している。


 けれど、それはあくまで普通の倫理やテレビ作品での話だ。

 動物を飼った経験が多い彼女らなら違うのだろうか。そんな思いを持って問いかける。


「皆なら、どうやって世話をしていく?」

「今のままでもよくやっているんじゃないのか?」


 問いかけに対し、鹿島の返答は簡潔なものだった。

 その言葉に渡瀬も続く。


「そうだね。一生懸命にやってあげられていると思う。コウちゃんをしっかりと世話して、少しでも楽しめるようにして。そういうことができていたらいいんだと思うよ」


 朽木も二人の言葉に頷いていた。


 そういうものなのだろうか。

 あまり実感が掴めないまま、携帯を取り出して自室のカメラにアクセスする。

 コウはいつもの如くベランダ際の陽だまりで寝こけていた。


 今は穏やかだ。

 しかし、本当はどうなのだろう。

 自分よりももっといい答えを出せる人はいそうな気がしてならない。


 そんな気で携帯を見つめていると、渡瀬はハの字に眉を寄せた。


「うーん、まだ悩ましいか。それはわかるよ? でも、そこに正解は見えてこないんじゃないかなぁっていうのが私の正直な感想」


 彼女は少しばかり気まずそうに頬を掻いて答える。

 動物を飼った経験も豊富そうな彼女がそう言うのは、日原にとって意外なことだった。


「例えばね、今のコウちゃんでも人工透析器に頼ればもっと元気になれるかもね。海外ではドナー猫も飼うっていう契約で腎移植もできるらしいね。そういう上を知っていると、比べちゃうよ。でも最上級を達成できなければ飼い主失格っていうのはないと思う」


 それこそ同じ悩みはあったのだろう。渡瀬は思い出すようにして語っている。


「さっきの二つは費用的にも前例の数的にも現実味がない話。じゃあ、もっと別。二歳のハムスターがガンになったとか、高齢の犬猫の手術とか、リスクもリターンもある話だともっと悩ましくなるよね」

「確かにそれはどっちも選びにくいね」

「そこに正解はないよ。どうした方がよかったって言えるのはペット本人しかいないけど、人の言葉は話せないし、どんな治療法があるのかもあの子たちはわからないから。だから極論、コウちゃんを楽しませつつ、苦しまないように看取ってあげれば飼い主としては間違えずにはいれていると思う」


 飼い方として間違いはあっても、不動の正解はない。

 渡瀬の言葉はそんな意味合いも含んでいるのだろう。


 鹿島は彼女の意見に同意してこくこくと頷いている。


「手術の痛みのレベルとか、五年生存率みたいな論文を読んで勉強した獣医はそういう不安を持っている飼い主に客観的な意見を伝えるんだろうな。生化学の先輩が言っていた実技試験オスキーはその辺りの適性を見るらしいぞ。今の日原みたいな悩みをぶつけられた時、理論も感情論も語って丸く収めなきゃならん。求められるもんが多いな」

「あはは、そうだね。私たちはあと六年間でしっかり勉強しないと」


 まだまだ基礎の基礎しか学んでいない身としてはゴールが見えないので渡瀬は苦笑気味だ。

 そんな表情をした後、彼女は改めて日原を見つめてくる。


「そういうことで、できることに関しては終わり。でももし全部が終わってからも日原君の胸にもやもやが残っていたら、コウちゃんの思い出とか、そこで得た経験を大切にすればいいんじゃないかな。別れはあるけど、動物を飼って失うばかりじゃないと思うよ。特に私たちは未来の獣医さんなんだか――って、ああっ!?」


 その言葉に安堵を覚える。きっと、こんな話の技術が診療には必要とされるのだろう。日原が実感を噛みしめて目を伏せようとしたその時、渡瀬はゴンに押し倒された。


 飼い主との会話の最中、動物の突発的な動きで中断される。そんな光景もよくあるに違いない。

 未来の姿が垣間見えたのだった。

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