第26話 消毒によって生まれる病気 ②
「うーん、もうひと声! それが何故消毒になるのかって点が重要なのよ。消石灰はね、比較的安価だし、水に触れると熱を生じるし、強いアルカリ性を持つから殺菌、殺ウイルス能力が高いの。逆性石鹸、ヨウ素系、塩素系……消毒薬にはいろいろ種類とその特徴があるから、衛生学を習う頃には頑張って覚えてね」
先輩は口を押え、意味深な含み笑いを浮かべていた。
「ただし消毒といっても、野外だと数度の雨で効果が減退するし、土がいくらでも吸い込んじゃう。だから消毒し続ける手法としては微妙なの。何より、アルカリ性土壌になることこそ、今回の銅欠乏症を招く要因になるしね」
その証拠とばかりに先輩はいくつかの論文を提示してくる。
その概要をざっと読む限り、羊や山羊を飼育する農場で銅欠乏症が起こった症例のようだ。
「土壌がアルカリ性になると、植物はモリブデンっていう金属を溜めやすくなるんだけど、これは動物の銅排出に関わっている元素なの」
「それで銅が排出されやすくなったから、血中濃度が低下したってことですか?」
話を理解した渡瀬が問いかけると、先輩は頷いた。
「例えば草刈りやペット目的で飼う小規模農家だと主に草しか食べさせないから、消石灰の消毒でこういう結果になることがあるね。牧草地に関しては酸性土壌の改善が上手くいかずになったりとか。そういう理屈で発生する事例なのよ」
「そうだったんですか……」
真面目に取り組んできただけに、渡瀬は落ち込んだ様子だ。
日原としても自分がおこなった努力が裏目に出れば落ち込みもする。その気持ちはよくわかるものだった。
しかし彼女は持ち直しが早い。
すぐに顔を上げ、次を見つめ始めた。
「じゃあ、えっと……消毒の頻度はなるべく減らすのがいいんですよね?」
「そうだね。あと、今からの時期だと線虫っていう消化管寄生虫へのコントロール戦略と、腰麻痺対策が重要になってくるかな。ここから必要になるのは、渡瀬ちゃんのパワーだっ!」
「へっ!?」
獣医師らしく、消毒作法の見直しや薬の投与期間の繊細な見極めといったことが話題に上がるかと日原も思っていた。
予想の斜め上を行く指名に、目を丸くしてしまう。
「ほら、世界的にも薬剤耐性菌って話題になっているでしょう? 抗生物質はね、歴史を見るに様々な命を助けて人命救助と畜産業発展に物凄く貢献したんだけど、多用しすぎて耐性菌が生き残り、それが増えるって状況になっているの。寄生虫の駆虫薬に関しても同じ状況が言えるんだよね。これは先進国の会議でも取り扱っているし、公務員獣医師は実状調査をしている身近な問題」
そう言われて、日原は鹿島を見つめた。
流石にそんなことまでは親から聞いていないのか、彼は肩を竦める。
けれども、農場での抗生物質の多用は聞き覚えがある話だ。
ではどんな対策のために渡瀬の力がいるのだろうか。十分な引きを作り、その答えを語ろうとする先輩に注目する。
「要は病原体を薬で全滅させるんじゃなく適度に付き合えって話。消毒しきれない土と、好き勝手に落とされる糞のせいで放牧と寄生虫はもう切り離せないんだよ。病原体の根絶は不可能。どうしても感染する。なら、害の少ないやつに感染させよう! そういう考えで、わざと一部の個体を駆虫しないことで薬が効く寄生虫を生き残らせるの。皮膚や腸の常在菌がいるからこそ、害が大きなものが入り込む隙間が減るってのと似ているね。こういう対処法は局地的な生き残りって意味の環境用語からもじって、レフュージアって名付けられているんだって。つまり――」
にぃっと先輩は小悪魔的な笑みを浮かべる。
彼女は渡瀬の肩をがしりと掴み、真っ直ぐに見つめた。
「必要なのは今より広い土地。渡瀬ちゃんのコミュ力と可愛さで教授陣を唆して、周囲や牛用の土地を巻き上げて羊の領域を増やせばいいわけ。愛らしいし、ヘルシーだし。これからは羊の時代だよっ……!」
「なるほどっ!」
「いいのかなぁ、それ……」
栗原先輩が自分の二号を作るように渡瀬を洗脳する様を見て、日原は頭を悩ませる。
しかし大学は研究の場だ。
将来性がある羊に新しい飼育法を絡めていけば開拓の可能性はあるのかもしれない。そういった意味でも、行動力があるほどいいのだろう。
ともあれ、半ば冗談だったのか、先輩は最後に笑ってごまかした。
「ああ、それとさっき言った腰麻痺。あれも注目のしどころだよ。あれは
「ぬっ……!?」
指名を受けたのは鹿島だ。エセ優等生たる彼は表情を引きつらせる。
まあ、これも寄生虫に関する話でまだ習ってはいない。
とはいえ、犬を飼っている人なら一度や二度は聞く話だ。獣医学生ならばなおさら知っていてもおかしくない。
「蚊が原因で犬の心臓に寄生するということだけは……。日原、パス」
それ以上を答えられない彼は肩に手を置いてくる。
子犬の去勢に際して一年間の疾病予防について調べていたので、それについては何とか知るところだ。
日原は思い起こしながら答える。
「蚊にフィラリアの子虫がいて、吸血すると犬に感染するんですよね。それで、一ヶ月くらいかけて成長してから血管内を流れ始めるから、月一度の薬で予防する。最後の一掃をしないと年を跨いで大きく成長しちゃうから、十一月から十二月に投薬するのを忘れちゃいけないって話だったと思います」
「そう。あれは犬糸状虫って言うんだけど、指状糸状虫はそれに似たものね。体内を流れた末に羊の神経に行き着くことがあるから麻痺の原因になるの。本来は牛に寄生するもので腹腔内の臓器にそのままくっついていたり、あえなく死んで結合組織に埋没しつつ、徐々に分解されていく痕跡が見えたりするから解剖実習で探してみるといいよ」
先輩はそう言って腰に手を当て、この放牧地を見回す。
「ここは牛の傍で飼っているからね、発生については要注意。本当はそれが終わるまで世話をしたいところだけど、私はもう六年生。夏には卒論に集中して、それが終われば二月まで国家試験対策。そしてそのまま卒業。うーん、楽しかったぁ! いい大学生生活だった。……それで私の青春も終わりだ」
多くの思い出が詰まっているのだろう。先輩は感慨深そうに呟く。
そして、空気をしんみりさせてしまったことに気付いたのだろう。
表情を変えると、日原たちの肩をそれぞれ叩いてきた。
「一年生、大学六年間はあっという間のモラトリアムだからね。卒業後にはもう――あ、院生になれば四年間追加できるんだけどさ。とにかく、恋に、勉強に、経験に。取り残しはないように過ごすといいよ」
濃密な経験だっただけに、それが終わるとなると寂しくもあるのだろう。
先輩の表情の意味を、日原たちは未熟ながらに想像する。
覚えること多き六年間は忙殺されてあっと言う間か、それとも濃密な経験故に長く感じるか。
真逆のことではあるが、どちらもありそうに思える。
ひとまず夏休みまではあと一ヶ月。
その間には生化学の先輩から聞いたニクダシと、テストが待つだけだ。
そして十月には新学期が始まると共に解剖実習がおこなわれる。
そういえば、解剖の先輩から頼まれた牛の世話についてもその時にあっただろうか。
知識の使いどころとイベントはほんの数か月を見ても盛りだくさんのようだった。
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