第40話 実習の意味

 日原はぱちりと目を開ける。

 最初に抱いた感想が、ここはどこだろう? だった。


 見慣れない天井で、自分はベッドに寝ている。

 情報を集めるために見渡そうにも、カーテンがぐるりとベッド周りを囲んでいた。

 再び天井に視線を戻すと、両隣にも同じようにカーテンを走らせるためのレールが見えることに気付く。


 両隣にも同じベッドがあるらしい。

 ベッドがそんなにあり、こうしてカーテンで視界を遮る場所といえば病院や保健室しか思いつかない。


「保健室……。ああ、春の身体測定で来た保健センターかな?」


 風邪になった時に寄れば薬をくれるとか、健康相談ができるとか聞いた覚えがある。

 覚えている限りでは、その内装に近いはずだ。


 では、どうしてそんな場所にいるのだろうか。

 疑問は頭の違和感に触れてみると解決した。


 ぐるりと包帯が巻かれており、側頭部はたんこぶでもできたように痛んでいる。

 その事実のおかげで記憶を失う前にどうしていたかはすぐに思い起こせた。


「そうか。僕は解剖実習で貧血になったんだ……」


 徐々に意識が鮮明になり、その瞬間を思い出す。


 命をもらうくらいに重要な学びの機会だから無駄にはすまい。

 そう意気込んでいたというのに、解剖の生々しさに目を奪われ、貧血を起こしてしまったのだ。


 カーテンを開けてみると、外は茜色となっていた。

 実習が始まったのは午後一番。つまり自分は数時間も寝てしまっていたらしい。


「何をやっているんだろうな、僕は……」


 溜息を吐く。


 情けない。

 周囲を見渡す限り、他に体調不良の生徒は見えなかった。


 クラスメイトは男女がほぼ半々。

 内気な女子もいたというのに、貧血を起こして倒れたのは自分一人だったようだ。


 コウの死に際して獣医師になろうという決意を強く抱き、ようやく皆と同じスタートラインに立ったと思った。そうしたいと、強く思った。

 ――けれど、この結果は何だろうか。


 事前に抱いた意気込みが全て空回りしてこの様とは滑稽にもほどがある。

 大切と思ったものを何一つ学び取れずに終わってしまった。それを思う程に胸がずきんと痛む。

 コウを失って抜け落ちた胸の空白を埋めていた意気込みが、毒に変わってしまったかのようだ。


 そうして歯噛みしている時、こつこつと歩いてくる音がした。

 カーテンを開けると、解剖の加藤教授が歩いてきたところだった。


「おお、よかった。目を覚ましていたか。心配したよ」

「心配をかけてすみません……」

「いや、謝らなくてもいいんだがね」


 教授は無事で何よりと頷いている。

 もしかすると担任の武智教授が言っていたようにこうして貧血を起こしたり、悩みを抱いて実習に出られなくなったりした生徒は今までにもいたのかもしれない。


 咎められる事態ではないにしろ、日原としては気休めにならなかった。


「あの、教授。一つ質問をしてもいいですか?」

「ん、なにかね?」

「実習でわざわざ生きている動物を殺す必要って、あるんでしょうか……?」


 我ながら、なんて質問をしたものだろうかと胸が苛まれる。


 世間で言われるように実験動物なんて無くすためにとことん教材を頼って段階を踏んでいっていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。

 ――そんな風に自分の失態を別の何かに擦り付ける質問をしてしまった。


 ふうむと教授が考えている間、日原は胸を痛めながら待つ。


「まあ、ないわけがない。どこまで行こうと教材は教材。本物ではない。平均より解剖学の成績がよかった君でも実物を見たらショックを受けただろう? いずれ培養肉やら、3Dプリンターで本物相当の作り物もできるかもしれないけれどね、今はまだ本物でなければ学び取れないことは多いよ」

「そう、ですよね……」


 それはそうだ。

 代替品で補えることであれば、解剖された牛たちが浮かばれないではないか。


 項垂れていたところ、教授は続けて語り始める。


「これは解剖学の教授だからこその意見だが、例えば体の構造に関する生物種差は有名だし、授業でもやったね。その他にも授業では教えていないが、血管の走り方などには個体差がある。目で見てわかる肉眼解剖学と呼ばれる学問は希少動物を除き、もう調べ尽くされた学問だけどね、個体差に関しては血管に樹脂を入れたりしてまだ調べている論文がある。というか、血統が違えば傾向も変わってくるしね。いたちごっこだ。それに栄養状態の良し悪し、若い若くないなどからくる違いも教材では学べないよ」


 それを学び取れなかった自分が不適格だった。そう言う他にない。

 じくりじくりと痛む胸の痛みを堪える。


 教授としては正直に答えただけだったのだろう。

 彼は失言だったことに気付いたのか、また唸った。


「君のように貧血を起こす生徒はいるよ。女の子より、むしろ男の子の方が多いかもしれない。まあ、そんな性差はともかくだね、落ち込み過ぎるのは感心しない。貴重な勉強の機会ではあるが、取り返せないものではないからね。実習の休み過ぎはいかんよ。教員も落としにはかからないが、こればかりは座学と違って即留年の危機になる」

「はい……」


 今日の解剖実習は長丁場になるかもしれないとの噂は渡瀬も口にしていた。まだ皆が勉強をしているのなら、こんなところで寝ているのは時間の無駄だろう。

 そう思ってすぐにベッドから降りようとしたところ、教授は腕を掴み止めてきた。


「いやいや、頭を打ってすぐにまた立ちっぱなしに戻るというのも不安だ。今日はもう休んでおきなさい。同じ筋肉の確認なら、来週の実習で剝皮した時にすればいいからね」

「――っ。で、でも……」


 剝皮と耳にして、解剖の様子が脳裏を過った。

 何かをしておかねば気が済まない。そう思うのとは裏腹に、命が勉強の糧になっているのがどうにも受け入れ難かった。


 本当に、時期が悪かったのだろう。

 ざっくりと言ってしまえば、コウとの関わりで命の大切さを学んだ。しかしこれはその事実と相反するものに思えてしまうのだ。


 それをはっきりと違うものだと学び取る間が足りていなかった。

 どちらにも踏み切れずにいたところ、教授は結論を出してくる。


「今回は早退扱いとしよう。今後の授業に全部出れば、成績に障ることもない。その代わり、一つ課題を出そう」

「……何をすれば遅れを取り戻せますか?」


 ここで脱落させず、次に繋げるためのものだろうか。

 同じスタートラインにようやく追いついたと思ったのに、この結果だったのだ。日原は教授が語るそれに耳を傾ける。


「単に血が苦手なら実習に出ていれば次第に慣れる。ただし実習自体への悩みかもしれない。その解決に繋がりそうな課題だよ」


 生体実習が必要かと問いかけただけに、血が苦手なだけとは教授も思っていないのだろう。

 この気持ちを解きほぐすのに役立つ課題とは一体どういうものなのだろうか。


「解剖に使っている牛は廃用――つまり形式上は産業廃棄物とされる。無論、文字通りの意味ではないよ。重要な意味があって、私たちは学ばせてもらっている。けれど、適切に学び取れなければ文字通りの産業廃棄物となってしまうかもしれない」


 産業廃棄物という言葉を耳にして、日原は息を飲んだ。


 あの牛たちは、コウとは違う。

 彼らとの間には思い出がないし、痛みや苦痛を和らげてやる世話もほとんどできていない。


 朝、解剖牛の世話をしている際にそれについては鹿島と話した。

 彼らの疾病からデータを取ったり、自分たちの糧として学び取ったりすること。

 そうして自分たちが彼らから何かを得ていくことが、彼らの生に意味を与えることに繋がったはずだろう。


 それができなかったと考えてしまう今の日原には、教授の言葉が深く突き刺さる。

 深刻な顔をしていたところ、肩を叩かれた。


「だからね、彼らをただの産業廃棄物にしないためにも、君は彼らがどうして大学にやって来たのか来週までに調べてきなさい。君はニクダシも見ていたろう? 彼らにはあの解剖から行く末まで意味があるんだよ。その命の価値は私たち次第で変わってくる。それがどういうものか知ってみるといい。生徒も初めての解剖刀で剝皮にやたら時間がかかっているし、今日はそれを語る時間がなさそうでね。いい機会だろう。わかったかい?」

「は、はい。わかりました」


 日原は教授からの問いに、小さく返答したのだった。

 


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