第39話 学友たち
日原が倒れた直後から、事態は慌ただしかった。
授業どころではなさそうと一年生全体はざわつき、実習は一時中断される。
「日原君、大丈夫……!?」
手で衝撃を和らげることもなく倒れ込んだ彼を渡瀬は慌てて抱き起こした。
幸い、排水溝の金網には直撃していないので皮膚が切れた様子はない。
けれども呼びかけても返答はなかった。
解剖実習に向けて不安を抱いていたことは知っていた。
自分としても、言葉を失う光景ではあったがまさかこんなことになるとは考えもしなかった。
「ねえ、打ち方は酷くなかった!? 私が誰かわかる……!?」
うっと呻き一つでもあればよかったものを、日原の意識は途絶えたままだ。
焦った渡瀬は、ともすれば揺さぶって覚醒を促そうとしそうになる。
それをいち早く察したのだろうか。
加藤教授は足早に近づくと腕を掴み止めてきた。
やめなさいなどとの指摘はない。
しかし教授の目を見ると共に、頭を打った人を無理に動かしてはいけないという話を思い出した。
「おうい、研究室生。保健センターに連絡して指示を仰いで」
この事態に少しは驚いた様子ながらも教授の対応は至って冷静だ。
過去に例はあることなのだろう。
研究室生は言われた通りにすぐ動き、准教授は一年生全体を一歩下がらせて落ち着くように指示している。
「あ、あの、教授! 保健センターに連れて行くんだったら私も……!」
「おっと、待ってください。それなら俺たちも」
「凄い倒れ方だった。大丈夫……?」
少しは我を取り戻した渡瀬が教授に訴えかけていると、人の垣根を分けて鹿島と朽木も近づいてきた。
それを目にした教授は目を丸め、しばらくしてから首を横に振る。
「いやいや、君たちも授業があるからね。こういう時のサポートのために研究室生がいるんだよ。貧血で倒れたにせよ、今日は大事を取ってもう早退させることにはなると思う。流石に四人もまとめて授業を抜けるというのはよくないね」
「そ、それは……」
ダメと言われれば押し通すことはできなかった。
どうしたものかと渡瀬が口ごもっているうちに保健センターと連絡をつけた研究室生が「揺らさないように運んできてくれだそうです」と報告し、抱える役目を代わろうとしてくる。
「今言ったように彼は休ませるよ。付き添わせたところで仲の良い四人全員が休むことになって実習の復習でも困るかもしれないし、目を覚ました彼が勉強の機会を奪ってしまったことで余計に気を病むかもしれないからね」
「……う、ぅぅ」
教授の意見に返す言葉がない。渡瀬が眉を寄せて縮こまると、研究生は日原を抱えて運び出した。
それを見送った加藤教授は改めて残る三人を見つめる。
「なんだかんだで君たちの仲は知っている。多少の性格もね。だから言わせてもらうが、目を覚ました時のことはこちらに任せてほしい。今までにも経験があることだからね」
それに関しては武智教授も言っていた。
お見舞いなどで知人が付き添ってくれれば心温まりもするが、この状況であれば教授が言うように迷惑をかけたと気を遣ってしまうこともあるかもしれない。
反論の余地がないと身に染みて感じた渡瀬は口を噤んでいた。
すると、加藤教授はわざとらしく咳払いを一つ挟んでくる。
顔を上げると、彼は穏やかな表情を向けてきた。
「友達の君たちにはね、後のフォローをしてもらう方が重要だと思うんだよ。ただの貧血ならともかく、実習に悩みを抱えた時はなかなか心の整理をしにくいからね。今日の授業で説明したかったことを教えてあげるから、終わった後で彼を気遣ってあげてほしいんだ。いいかい?」
教授はそう言うと、渡瀬、鹿島、朽木の三名を順々に見つめる。
言われるまでもない。放っておけと言われる方が苦しいくらいだ。
できることはしてあげたいと思っていたところである。何をすればいいのかとアドバイスがあるなら心強い。
「私はね、この後に彼の様子を確かめに行った時は気持ちの問題についても聞こうと思う。貧血でなければ、この実習の意義が気になっていると思うんだよ。だからね――」
加藤教授はそう言って、解剖実習と解剖牛の背景を語り始めるのだった。
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