第3章 志の原点
第30話 とうとう訪れるもの ①
授業が終盤を迎えると、教えることがなくなったので実質、半分休講といった流れも多くなる。
授業への慣れもあって七月末から八月まではすぐに経過した。
「よっし、合格だ!」
「セーフ。よかった」
前期試験が終了してから一週間後、日原は獣医学部棟に張り出された再試験合否通知を前に鹿島と朽木がそれぞれ喜びを噛み締める様を見た。
その他学友もこの結果張り出しで一喜一憂している。
渡瀬は朽木と両手を打ち合わせると、そのまま手を握り合って飛び跳ねた。
「これで気兼ねなく遊べるねっ!」
「辛かった。勉強の詰め込みは当分いらない……!」
もう少し解剖学以外にも力を割いていれば楽をできただろうにとは言わないでおくのが華だろう。
朽木のやる気によって、残る三名の解剖学への意欲が高められたのもまた事実なのだ。
二人のはしゃぎっぷりを目に収めつつ、日原は携帯電話の予定表を見る。
「じゃあ、九月の空いてくるシーズンにいろいろと計画していかないとね」
渡瀬はギリギリ難を逃れ、日原は余裕をもって合格していた。
その一方、鹿島と朽木はいくつかの教科で再試となっていたのである。
六割程度は取らないと再テストという大学のハードルに、つい引っかかってしまったらしい。
とはいえ、彼らも夏休みを一週間ほど犠牲にして合格にこぎ着けていた。
その他の学友も数度の試験を繰り返して受け、一年生は全員合格。再履修の生徒は出ていない。
しかし今後、授業日程の兼ね合いから再履修となれば受講できない授業があるそうだ。実質的に留年をかけた戦いとなる教科もある。
受験戦争を越えたとはいえ、やはり大学でも最低限の成績というものは必要になってくるらしい。
まあ、それももう終わったことである。
再試験に際しては落ちた二人に勉強を教えていたこともあって、日原もこれで安心して遊びの予定を組んでいくことができる。
そうして待ちに待った夏休みだというのに、過ぎ去るのはあっという間だ。
上級生との合宿が催されたり、自動車免許を取ったり、帰省したり、仲間と交代しながら車を運転して地方一周旅行をしたり――。
あとはそれらを実行に移すためのアルバイトなどを予定表に書き記せばすぐに隙間がなくなった。
カレンダーを見れば、八、九月が消し飛んでしまったのも当然だろう。
予定が各所に書き込まれた一枚を破り取って、十月。
授業にも新しい風が吹き込んでくる後期となった。
新学期もやはり、授業を見据えたテキスト購入から始まる。
新学期に備えてまた四人で大学生協に行ったところ、鹿島は安堵の息を吐いた。
「また教科書購入ラッシュかと思ったけど、そうでもないんだな」
ネットや道の駅での蜂蜜販売で地味に利益を上げている彼はまだいい。
両親からの仕送りはほぼない日原からすると、より一層感じることだ。
「専門教科は一年間で前後編って分かれ方をしてくれたおかげで、新しい教科は二つくらいに収まったね。あの分厚さを実質四ヶ月で勉強なんて、暗記的にも費用的にもちょっと無理があるからよかったよ」
通帳の預金残高に不安を覚えていたところである。
極貧生活で何とか凌ぐなんてことにはならないで済みそうなので、日原はほっと胸を撫で下ろした。
「解剖学や生理学はⅠとⅡで前後編。上級生が学ぶ病理学や外科学は総論や各論。そんなでもって、ある程度学んだところで実習も始まっていくわけか」
鹿島は自分の解釈を口にしながら頷く。
春は大学のシステムに順応するのに精一杯だったが、ようやく大まかな流れが見えてきた。あとは学年が進むごとに全学部共通の授業も減り、専門的な学習に集中できるらしい。
「解剖学実習かぁ……」
男二人で話していたところ、不安げな渡瀬の声がした。
彼女は朽木と一緒になって授業に必要なテキスト一覧に目を通している。
「私はカエルの解剖くらいしかやったことがないし、その上に、解剖学の暗記を思うと不安になっちゃうよー……」
渡瀬は後々の光景を思い描き、ぎこちない表情で項垂れる。
一方、別の教科では再試となりつつも解剖学については学年最高点を叩き出した朽木は「ふふ。楽しみ……!」と、不敵に笑っていた。
このやる気は見習いたいものだ。
そう思って目を向けていたところ、朽木はすっと携帯電話を取り出してカレンダーを示してくる。そこには『解剖牛搬入』と書かれていた。
「それより実習用の牛の世話は今日から始まる。急ごう?」
そう、実習が始まる前にこれがある。
新学期と共に開始される解剖学実習は楽しみだ。より一層獣医らしい授業となるし、ひたすら暗記となる授業よりは期待感があった。
しかしその実習に関して忘れてはいけないことが一つ。
それは頼まれごとだ。試験に備えて生化学を教えてもらった際、解剖学研究室の先輩から投げかけられた交換条件である。
自分たち四人は解剖学期末テストの重要単語を教授にもらうための儀式――その内容を聞く代わりに実習用の牛の世話を仰せつかっていたのだ。
新学期になったので実習も数日後に迫っている。
それに合わせて牛が連れて来られるらしいとの連絡が入っていたので、これから解剖室に向かう予定だった。
日原たちは購入した教科書を置くため、寮に戻る。
「えーと。実習用に買ったツナギを持って集合だったっけ?」
日原が確認したところ、先輩とのやり取りをよく請け負ってくれる渡瀬が肯定してくれた。
「白衣でも問題ないらしいけど、その方が汚れないで済むと思うよ。薄手のラテックスグローブと長靴とかはあっちが用意してくれるみたい」
羊の世話を日頃からしている渡瀬が言うには大動物が服をむしゃむしゃしてきたり、傍で糞尿をされたり、飛び散ったりすることもあるらしい。
「俺たちにとってはツナギの初出番だな」
「ツナギは凄いんだよー? 割と動きやすいし、汚れも落ちやすいし。その割に水はある程度弾いてくれるし。あの厚手の生地だっていうのに乾きやすいし、機能性バッチリ!」
ヘビーユーザーの渡瀬としては嫌いになるどころか一押しの商品なのだろうか。
彼女の活発さからすると武骨なツナギという要素もまたファッションに見えてくるから不思議だ。
「じゃあ、僕らも機能を実感できるいい機会だね」
日原は笑って頷き、三人と二階で別れた。
事前に用意していたツナギを取りに自室のリビングに向かう。
――ここに、少しの変化があった。
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