第8話 ミツバチ飼育 ②
そういえば昨日、コウの心音や呼吸音を聞いてみるのだと渡瀬が聴診器を持って上がり込んでいただろうか。
隅の方に目を向けてみると、すぐに見つかった。
複数人で座り込んでいたことで次第に押しやられ、コウの遊び道具として床に放置されていた物品と紛れてしまったらしい。
床には常に物が転がってしまうのは猫飼いの宿命だ。
「届けに行ってあげますか。コウ、ちょっと留守番をよろしくね」
ベランダから見てすぐ目の前とも言える距離だ。さしたる労力でもない。
尻尾を揺らすだけの返事らしきものを見た後、日原は寮を出た。
昨日のラウンジ横を通り過ぎ、すぐ傍の畜舎に向かう。
獣医学科が設立してまだ十二年しか経過していないだけに観光牧場レベルの綺麗な外観だ。
畜舎は中央に入り口があり、入り口側には通路と飼い葉桶置き場が配置されていた。
建物の奥には歩き回るスペースがあり、扉を開放すれば牧場に繋がっている。
渡瀬の姿は探すまでもない。
正面入り口で上級生らしき女性と会話していた。
「――と、いうわけでここの羊の世話は特に……おっと。渡瀬ちゃんの同級生君じゃない? 続きの話はまた今度ね」
「はい。栗原先輩、ありがとうございましたっ!」
呼びかけるまでもなく、一緒にいた上級生らしき女性がこちらに気付いてくれた。
渡瀬はツナギ姿だ。
世話の作業で温まったからか、ツナギの上半身をはだけて腰で結び、Tシャツ姿である。上級生に会釈してこちらに向き直った。
「気付かなくてごめんね! それから聴診器を持ってきてくれたみたいでありがとう!」
「気にしないでいいよ。じゃあ、僕はこれで」
「あ、待って。ちょっと早めだけど、どうせならこのまま鹿島君のところに行ってミツバチの世話を見せてもらおうよ。すぐに着替えてくるからっ!」
「わかった。それなら待ってる間に連絡しておくよ」
そういえばオリエンテーションがあった日にそんな約束をしていただろうか。
手早く区切った彼女は併設された更衣室で手早く着替え、「お待たせ!」と息を切らせて戻ってくる。
こんな風に弾けそうなほどの快活さが渡瀬の特徴だ。
寮に戻って二階で別れると、彼女は朽木を文字通り引っ張ってきた。
アウトドア派とインドア派。この構図は、二人の属性がきっぱりと二分しているのをわかりやすく示している。
朽木は今日もテグーをぬいぐるみの如く抱えている。
前に見た時と同じく蛇のように絶えず舌をチロチロとさせているだけで、非常に大人しい。
「あれ。鹿島の部屋にその子も連れて行くんだ?」
「ハチの子、くれるって言うから。デュビアやコオロギ代わりになるかもって思って」
「デュビア?」
「初心者は検索しない方がいいやつ。寮だしね、飼育繁殖は控えた方がいいかなって」
コオロギと並べて言われるだけあって昆虫だろうか。
渡瀬と顔を見合わせて疑問符を浮かべていると、朽木は遠い目をする。
その仕草から日原が正体に当てをつけていたところ、渡瀬は思い立ってすぐに携帯で正体を検索したようだ。
彼女は「ひえっ!?」と叫んで目を背け、ページをスワイプして消す。
……恐らく、その正体は推測通りだろう。
「それにしても、テグーって案外大人しいんだね。もっと恐竜とかコモドオオトカゲみたいな荒い感じかと思ったよ」
興味を示してみると、朽木はふふんと得意げな表情を浮かべる。
「気を付けてねぇ。今は大人しいけど、パワフルな時はパワフル。指や耳、鼻を本気で噛まれると大惨事。愛と節度がないと飼えないよー?」
「きっ、気を付ける……!」
今までの印象から、犬猫のように気軽に撫でようと手を出すところだった。
その生態を理解しない内は迂闊だと、日原は距離を取る。
「そっ、それよりもう行こっか! 鹿島君を待たせ過ぎちゃうよね」
「そうだった。じゃ、案内するよ」
ようやくデュビアのショックから立ち直った渡瀬に同意し、鹿島の部屋まで彼女らを先導した。部屋のインターホンを鳴らすと、鹿島はすぐに出てくる。
「おう、やっと来たか。ミツバチの世話の準備は済んでいるぞ」
「それで……?」
“準備”を整えた姿の鹿島に、日原は疑問を投げかける。
彼は長袖長ズボンの格好に加え、蚊帳じみたものを麦わら帽子に被せて顔周りから首にかけて防御し、手にはゴム手袋をはめていた。
スズメバチ駆除で見る宇宙服的なものを着ると思っていたが違うらしい。
「ミツバチは刺激しない限りは大人しいからな。中には何もつけずに世話をする人だっているそうだ。まあ、高校生物でも習った通り、アナフィラキシーショックは命に関わることもある。要はミツバチの針が肌に届かない格好ならいいんだ」
違いを語る鹿島は「まあ、入れ入れ」と室内に招いてくれる。
「顔を覆っているのは面布。ミツバチの箱を開ける道具としてはヘラみたいなハイブツールと燻煙器を使うんだ」
室内で見せられるのは何の変哲もない金属ヘラと、
中には麻の切れ端が入っている。
「俺がベランダで作業するからガラス越しに見るといい」
「わかった」
残される三人としては初めて見るものなので興味津々だ。
ベランダには二種類の巣箱が置かれている。
向かって左手にはビールケースくらいの箱が一つ。
右側には縦横がその半分程度の大きさの箱がまっすぐ積み上げられている。
日光さえあればもう長袖一枚でも事足りる気温になってきているので、ミツバチの動きも活発だ。
巣箱の一番下から絶えず数匹が行きかい、空に消えていく。
鹿島は燻煙器内の麻に火をつけると、
そして大きな巣箱の天井を開ける。
中にはミツバチの巣の役割を果たす板が敷き詰められており、板同士の隙間にはミツバチがひしめき合っていた。
見るからにぎっしり詰まったそれを、鹿島は指差す。
「このミツバチの密度を維持するのが最大の仕事なんだ」
「え。ちょっと手狭そうに見えないかな?」
彼の言葉が日原は上手く飲み込めなかった。
蜂の数が多ければそれだけ巣箱内の社会も立派になるだろう。
しかし人間なら適度なスペースが欲しくなるものなので、密度の維持と言われると不思議に思えた。
これはありがちな疑問なのだろう。鹿島はわかるわかると同意して頷く。
「蜂は巣を綺麗に掃除するし、体温や羽ばたきで巣内を三十五度くらいに保って子育てに適した環境にするんだよ。ただ、スペースが広すぎると温度調節が大変だし、掃除の手間も増える。だから養蜂家は蜂の数に合わせて巣内を間仕切りしたり、産卵シーズンには餌不足にならないように花粉をやったり、女王が健在か確かめたりするわけだ」
それが主な世話らしい。
燻煙器から出た煙を嫌がってミツバチが散ると、巣箱内の板をヘラで引っ掛けて持ち上げた。
そこには蜂といえばコレと言うべきハニカム構造が規則正しく並んでいる。
まず見せられたのは最も外側の板だ。
蜜がぎっしりと詰まっており、外縁部の蜜には蓋がかかっている。
あとは黄色くべったりとした花粉もハニカム内に見えた。
「温度が低くなりがちの外側は蜜や花粉の食料庫だ。温度管理しやすい内側の板には蛹や幼虫を配置という具合に使い分けられる傾向がある」
説明がてら鹿島が見せてくれる内側の板にはハニカム内で綺麗に丸まった幼虫がいる。決まって一室に一匹と、蜂の社会性が垣間見えた。
「こうして巣枠に余剰の巣を作るくらいの余裕があるということも、ミツバチの群れの元気度を測るバロメーターになるな」
だから世話の度に余分な巣をヘラで削って落とすらしい。
彼は続いてハニカムから筒状に突き出た小指の先程度の大きさの構造を指差す。
「これは王台と言って、次世代の女王が育てられているんだがな――」
なるほど。では群れとしては死守すべき非常に大切な部位なんだろう。三人して室内から食い入るように見つめていた。
だが、それを認めた鹿島はその眼鏡を怪しく輝かせる。
「こいつは潰す」
「ぬぇっ!?」
「王女様ぁーっ!?」
「あ、もったいない……」
日原が驚愕し、渡瀬が叫び、朽木はぽつりとぼやいて、テグーは食欲を誘われたように舌なめずりをする。
悪逆非道をおこなった鹿島はその反応をうむうむと見回した。
「お前たち、誤解をするな。これも必要悪だ」
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