第7話 ミツバチ飼育 ①

 

 コウを飼ってから数日が経過した。

 

 老猫は一日に二十時間ほど睡眠に時間を費やすそうだが、コウも同じらしい。

 サークルの見学や日用品の購入などで夕方五時辺りに帰宅し、仲間内でご飯を一緒にしたり、勉強したりしても残った時間に控えめな遊びに付き合ってやれば十四歳のコウとしては十分なようだった。

 

 そして明け方に起きては一匹で少々遊んだ後、胸に乗っかって起こしに来る。


「ぐぇっ……」


 寝る直前と、朝の二回はこうしてくるのがお決まりだ。

 日原は胸で香箱座りをするコウを撫でつつも、目覚まし時計を確認する。


「午前八時半か……。まだ眠いけど……」


 上半身を起こしたところ、コウはさっさとベッドから降りてリビングに向かった。

 ご飯皿に向かっていったのだ。


 こうしてご飯を催促してくれる元気があるのはいいことである。

 折角、食欲を持ってくれているのだから応えないわけにはいかない。

 日原はしょぼつく目を擦り、療法食をお湯でふやかす準備をする。


 そんな時、かっかっと嘔吐をする音がした。

 見ればコウは少量の胃液を吐いていた。これは何も今日のみのことではない。腎不全で起こる尿毒症は体の倦怠感や吐き気も起こすという。その影響だ。


「腎不全だもんね……。食欲があるのはいいとして、やっぱり気持ち悪さもあるか」


 “急性”腎不全は、単なる怪我と似ている。

 それを引き起こした薬物など、原因さえ体が排除しきれば回復の見込みがある。


 だが、“慢性”腎不全は肝硬変と同様に臓器が頑張り続けた結果、とうとう回復力が尽きて出るとでも言える症状だ。

 残った腎機能も徐々に落ちて死に至る。


 現在の処置はあくまで『症状はあるものの、生活レベルをできるだけ落とさずに延命をしてやる』ためのもの。

 治す方法は腎移植で新品の腎臓を与えるしかない。

 もっとも、動物では腎移植がほぼ行われていないし、行っても免疫抑制剤をずっと飲み続けることとなる。費用的に現実的な選択肢とは言えなかった。


「コウ。辛くはない……?」


 ふやかしたフードを与えると、コウはそれをぺろりと平らげる。

 たまにご褒美としてあげるウェットフードやゼリー系の嗜好食もよく食べてくれた。


 よく食べ、たまに遊ぶ。

 そんな余生がコウにとっての幸せに繋がるだろうか?


「答えはわからないけど、できることをしてあげるしかないよね」


 動物は喋ってくれない。

 けれど、態度である程度は伝わってくる。


 フードを食べた後のコウは尻尾を立て、日原の足に体をこすりつけてきた。

 自らこうしてくれることこそ、ある程度はこの生活を認めてくれている証だろう。

 コウを抱き上げた日原はケージに入れ、点滴のセットを準備した。


「チクッとするけど、もう一つだけ我慢をしてね」


 投薬にプラスして水分摂取量を維持するための自宅点滴だ。

 これについてはコウを引き取った当日に上級生からレクチャーを受けている。


 点滴パックに輸液セットのチューブを差し込み、カーテンレールにかけたフックに吊るす。

 輸液セットに翼状針も付けたら点滴筒を押してチューブ内に輸液を引き入れ、クレンメと呼ばれる輸液ストッパーを外して液を流す。

 空気を追い出せば準備完了だ。


 コウの背の皮を三本指で摘まみ、テント状に引き上げられた皮膚に翼状針を刺して皮下点滴する。

 皮下に輸液を溜めるだけなので速度はかなり早めだ。

 二分もしないうちに百ミリリットルほど入ったので処置は終了した。


 この輸液は半日から一日かけ、毛細血管からゆっくりと吸収されてなくなる。


「お疲れ様。頑張ったね」


 器具をしまってコウを撫でると、のそのそと動き出す。

 南向きのベランダ前で日光浴しながら毛づくろいを始めた。


 リビングには無線接続されたカメラが置いてある。

 コウは日がな一日、このガラス戸の前で寝て、気紛れでフードや水を口にし、遊び道具をちょいちょい突つくというのが一日の過ごし方のようだ。


 しばらくわしわしと撫でた後、日原はベランダから外に目を向けた。

 犬がパートナーの生徒が散歩に出ている姿はもちろん、大動物畜舎も見える。

 共同飼育を希望した生徒は朝早くから活動し、餌やりや畜舎の掃除をおこなっていた。


 渡瀬もそこで作業中だ。

 彼女が担当する羊はどうも餌の乾草を畜舎に引き込んでばらまき、気が向けばそれを食べるという困った性格をしているので、交換すべき床敷が増えがちらしい。

 その分、彼女は堆肥場まで手押し車で何往復もしていた。


 そちらが終われば今度は畜舎周りに消石灰を撒いて消毒をするなど、実に忙しない。

 だが、やる気と元気が満ちたその顔はとても充実しているように見える。


「僕はああいう姿を見習わなきゃな」


 この学科に入る生徒は獣医になることを切望した生徒ばかりだ。

 だからこそ、方向性は違っても向上心のある生徒が多い。


 それに比べると、日原は意識が低い方だ。

 進学にしても両親が馬に金を使っていたので学費は自分で稼ぐ必要があった。

 予備校が必要な浪人も、私立も金銭的に厳しいために偏差値の高い大学に挑むのは無理だろうと思い続けていたのである。


 動物は嫌いではないし、獣医に夢を持った時期もあったが縁はないと思い続けていた。

 けれど受験シーズンを前にした時、両親は獣医ならば学費は工面しようと突然言い出したのだ。

 ならば物は試しと一念発起し――模試判定を上回る勝負強さで現在に至る。


 では、今も状況に流されるだけだろうか?

 それは違う。

 こうして老猫の命も預かり、触れ合う機会のなかった動物も前にする。そんな刺激によって、獣医師という職業に強い興味を持ち始めたのは事実だ。


 奮闘するクラスメイトを凄いなぁと眺めるだけなんて、この環境ではもったいない。

 切磋琢磨し、知らない世界を新たに開拓していく日々が心地よく思える。


「よし、頑張ろう!」


 日原は頬を叩いて気合を入れる。

 何を興奮しているのとコウには奇特な目で見られてしまった。


 始まりが遅れていたからこそ、追い上げるのが楽しみだ。

 図書館で借りた組織学の教科書から、腎不全で起こる症状の仕組みを理解し直すのもいい。専門科目の授業をおさらいするのもいいだろう。


「さて、どれからしたものかな……ん?」


 リビングのこたつテーブル上に広げた教科書に目を向けた時、ふと携帯に新着メッセージを示す光が点滅していることに気が付いた。

 それはたった今見ていた渡瀬からである。


『日原君の部屋に先輩から借りた聴診器を忘れちゃったんだけど、もし朝気付いたら畜舎に持ってきてくれない?』


 とのことらしい。

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