第11話 コレジャナイ感のある授業 ①

 テキストを購入してから数日が経過した。

 ついに大学の授業は開始され、獣医学生としての日々が本格的にスタートする。


 最初の講義時間に合わせて起床し、キャンパス内ではラフな格好からモデルもかくやという人とすれ違って講義室に向かう。

 ――となるはずだろうが、日原の場合はまず出だしからして異なる。

 起床時間からして猫様次第だ。


 朝は胸に乗ってくるし、ご飯の用意や皮下点滴もあるので仕方ない。

 こういうこともあるので一部の猫飼いは主人ではなく、猫の奴隷となっていると喜んで自称する。

 気ままな彼らに合わせると、わからないでもない冗談だった。


 本日の起床時刻は午前六時。

 一コマ目の授業に向けて動き出すにはもちろん早すぎるが、授業範囲を軽く予習するくらいならちょうどいい。


 そうして日原がしばらく勉強し、時刻は午前七時。

 来客のインターホンが鳴った。


 誰だろうか?

 鹿島という線はない。


 大動物の世話は朝早いが、蜂の世話は巣内温度を下げると病気の発生に繋がるとのことで、彼はもっぱら気温が上がりきった昼休憩に世話をする。

 恐らくは今日もギリギリまで寝ていることだろう。


 疑問に思いながら玄関の戸を開けたところ、すでに手を合わせて頭を下げ、拝み倒している姿の渡瀬がいた。

 よく見る姿なので驚きはしない。謝罪、お願いのどちらだろうか。


「私、土日は瀬戸内で風になっていました! 日原君、お願いします。教養科目のレポートを見せてくださいっ!」


 土日にほぼ姿を見ないと思ったら、そんなことになっていたそうだ。


 彼女は趣味でバイクに乗っている。

 なんでも、ツーリングスポットであるしまなみ海道や石鎚山スカイラインが彼女を呼んでいたらしい。


 大動物の世話は毎日朝夕に力仕事となる。

 平日はそちらと授業に体力を取られ、土日は彼女曰く風になってしまった。


 なるほど。手を出せなかった理由はわかった。


「それはいいんだけど、部屋が近い朽木は頼らなかったの?」

「私は早寝早起きだけど、クッチーは遅寝だし朝が弱いから……」

「あはは。本人含めて変温動物じみてるもんね。良いよ、好きに参考にして」


 休日だと朽木は昼近くになって気温が上がるまで活動しない。平日でも授業ギリギリまで寝ている彼女の姿は、日原としてもすぐに思い浮かぶレベルだ。

 無碍にするのも気が引ける。日原はとりあえず彼女を部屋に入れた。


「あっ。コウちゃーん、コウちゃーん、元気かな? もう皮下点滴したんだねっ! 背中がポッコリだ」


 リビングに入った彼女はベランダ前で寝転がるコウに這って近づいた。


 コウは素っ気なく、尻尾をぱたんぱたんと揺らして応答したのみである。

 どうもコウは接触を抑えに抑えた日原や、動きの少ない朽木のような静かなタイプの方がお好みらしい。

 けれどその素っ気なさも愛おしいらしく、渡瀬は顔が緩みっぱなしだった。


 ともあれ、時間は限られる。

 一、二年生は授業が多く、朝から夕方までコマが埋まっているのだ。

 こたつ用テーブルを引っ張り出し、彼女が希望するレポートを渡す。


「ありがとー! ……はぁ。それにしても大学に入ったら獣医っぽい授業と実習に専念できると思ったんだけど、そうでもなかったんだね。私、ショックだよ……」


 レポートを見つめ、まず一文字目からつまずいている彼女はため息を吐く。


「確かに。生物、化学、物理と英語は学部学科関係なく一年生全体に教える感じだし、教養科目の第二外国語とか社会科系の教科は高校とあまり変わらない感じだもんね」

「そう。新鮮味に欠けるんです……」


 コレジャナイ感に項垂れた渡瀬はそのままテーブルに突っ伏した。


 獣医は完全なる理系。

 その内容的に生物、物理、英語はこれからも必要だが、他の分野については勉強することもない――かと思いきや、そんなことはなかった。


 一、二年は教養科目という名目で高校生時代の復習や延長と言える授業が続くらしい。その一部は入学試験を乗り切った者からすると今さらこんな授業をしなくてもと思えてやる気が出ないのだ。


「今は悩ましいけど、あの四万円越えの鈍器を買う頃にはきっとそれらしくなっているんじゃないかな?」

「そうだね。まだ基礎部分だから仕方ないよねー。ハイ、我慢します。堪えます」


 日原が冗談めかして言うと、渡瀬はつられて笑った。

 そうして筆の進みの悪い彼女のレポート完成まで付き合い、一コマ目の授業に向かおうと鹿島、朽木の両名にSNSで呼びかけた。


 合流すると、彼らは案の定それぞれ大あくびをして眠さを引きずっている。


「おはよう。あー、一コマ目は解剖学だな。起きていられる自信がないんだが……」


 鹿島は教科書の入ったカバンを重そうに背負っている。

 その姿を見る立場としては、彼の寝落ちが容易に想像できた。日原は一応、今日の授業範囲だけでも彼に伝えておく。


「一年生としては一番獣医らしい科目だけど、授業は淡々としているもんね。シラバス的に、今日は前肢の筋肉の生物種差だったよ」

「うわっ、まさか予習をしてきたのか!? この優等生めっ!」

「コウが起こしてくるし、そのついでとかもあって」


 講義室に向かう最中、鹿島の言葉に苦笑を返していると渡瀬の背がびくっと跳ねた。まだ寝ぼけ半分の朽木を引っ張って歩く彼女はぺこぺこと頭を下げてくる。

 鹿島は疑問顔だが、わざわざ理由を明らかにする必要もないだろう。


 寮からしばらく歩き、講義室に到着した。

 獣医の専門科目なので、受講するのは獣医学科の一年生のみだ。

 退官間近と思われる年齢の加藤教授が用意するのは非常にあっさりとしたスライドである。そのあっさり加減が複数の意味で罠となった九十分授業が、ここに始まる。

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