第1章 少々特殊なキャンパスライフ
第2話 あの時に目立っていた人たち
春を間近に控えた二月初旬、某日。
日原裕司は東京都のとある施設前で、自らが手にする受験票と大きく張り出された看板の文字を見比べていた。
「瀬戸内大学獣医学部獣医学科、入学試験会場。……よし!」
緊張で高鳴る胸を押さえ、深呼吸をする。
その日は日原にとって――いや、獣医師を志す者にとって勝負の日だ。
人間の医者は入学定員が一年で約九千五百人。
獣医は約千人と、規模は約十分の一。
入試難度もさることながら、獣医師になるためには複数の意味で狭き門を潜り抜けなければならない。
三十席ほど並べられた試験室で筆記用具や時計を準備し、運命の時を待つ。
周囲の様子は様々だった。
多くは最後の詰め込みをしているものの、全く違う行動を取っている人もいる。
「むんっ!」
日原の横では太宰府天満宮が作る鉛筆に、気合の入った祈りを捧げている男子生徒がいた。
眼鏡男子でいかにも生徒会長じみた優等生さが垣間見えるのに、やっていることは万年補修の運動部員を思わせる。
一方、最前席には真逆で机に突っ伏して寝こける女生徒がいた。
インドア派というより日陰の少女とでも言うべき独特な緩さの彼女は、この状況でもギリギリまで寝る気らしい。
その精神のタフさは尊敬に値する。
「いろいろいるものだなぁ。おっと」
人間観察をしている場合じゃない。
自分も悪あがきをしようと復習用の本を手に取る。
残り時間が限られている証拠に、試験監督と思しき男性が入室してきた。
年頃は四十代後半から五十代。親と同じ世代だ。
その人物は列の人数ごとに試験用紙の束を小分けする。
高校生時代の定期試験で見飽きた仕草のはずなのに、胸に込み上げる緊張は別種のものだ。
深呼吸をしても心臓は落ち着く気配もない。
――そんなとき、事件は起こった。
ダァンッ! と猛烈な音がしたかと思うと、試験室のドアが勢いよく開かれたのだ。
過敏な神経は銃に撃たれたかのごとく反応してしまう。
「はぁっ、はぁっ。間に合った……!」
試験会場全員の視線を集めたのは、一人の女生徒だった。
走ってきたらしい。
肩を上下させる彼女には汗で髪が張り付いている。
カバンを背負い、やたら大きなスーツケースまで押してきた彼女は、周囲に会釈しつつ日原の前の席に座った。
騒がしいやつがいたものだと周囲は顔をしかめた後、復習に戻っていく。
けれどその騒がしさにはまだ続きがあったらしい。
「あ、あれっ。消しゴム、ないっ……!?」
受験票や筆記用具を一つ一つ確認して並べた彼女は席の横に置いたカバンを掻きむしるように漁り、頭を抱えた。
日原は真後ろの席なので、横顔がよく見える。
あわわわ……と青ざめていくその表情といったらどうだ。
受験生が想定する恐怖体験の一つなので同情を禁じえない。
流石に見かねた日原は彼女の肩を叩いた。
「あの、予備があるのでよかったら使いますか?」
「……いいのっ!?」
彼女は勢いよく振り返ると、その手を消しゴムごと両手で握ってくる。
砂漠で干からびそうな旅人に水を差し出したかのような反応だ。
握られた手はその感謝の度合いを表しているのか、かなりの圧力を感じる。
「あっ、ありがとう……! 一生の恩人だよ。ありがたく使わせてもらうね!」
髪がぱさりとひっくり返るくらい深々と頭を下げてくる。
その時、日原は彼女の机に置かれた受験票が目に入った。
――約二ヶ月後の入学式で判明したことだが、彼女は後のクラスメイトだった。
定員三十名程度の大学では、嘘か本当か、受験時に記憶に残った人物が受かるという話がある。
後の仲良しメンバーはそういう場の記憶で、「あの時に目立っていた人ね!」と再会してさっさと結束が固まってしまうものだ。
日原と渡瀬、その他二人を合わせた仲間の縁は今日この時、密かに繋がったのだった。
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