第8話 過去の傷跡

「お会計が1,050円です。はい、1,100円お預かりしますね。お釣りの50円です。ありがとうございました!」


 加奈は手際よくレジ打ちをこなすと、お客さんに優しく笑いながら見送る。店番初日なのに、もう仕事が板についてきた感じだ。

 俺の視線に気づいたのか、側にいる加奈がこちらに視線を向けた。


「あっ、えっと……、ど、どうかな?」


 遠慮気味な声音。きっと仕事の出来について聞いてきたのだろう。


「ちゃんと出来てたよ。もう明日から教えることがないくらい」

「へっ!? そ、そう? ちょ、ちょっと言い過ぎじゃない?」

「そんなことないって」

「ふ~ん……、そっか。そうなんだ……、ふふっ」


 加奈が片手で髪を軽く触りながら、嬉しそうに微笑んだ。すると急に上目づかいでこちらを覗き込んでくる。えっ……!? なんだ急に?


「太一くんのおかげだねっ! ありがとっ」


張りのある可愛らしい声がくすぐったかった。耳元が熱い。思わず自分の耳を軽く触ってしまった。いや俺の指が熱いのか。もうどっちか分からない。


「太一くん? どうしたの?」

「あっ、いや……!? な、なんでもない。えっとさ、仕事ができるのは、お、俺の、教え方のおかげじゃないさ。加奈がすごく出来る子だったから」

「う、ううん、そんなことない。太一くんが教え上手だったから」

「いやいや、加奈が出来る子だからだよ」

「ううん、太一くんが教え上手だからだよ」

「いや、それ絶対ないから。加奈のおかげだって」

「違う、それ絶対ないから。太一くんのおかげだって」

「「…………、あのさ」」


 トゲのある声が重なってしまった。急に静かになる店内。お、落ち着かない。

 俺はそろりと加奈に視線を向けた。

目じりが上がっていた。どこか怒っているようでドキッとする。頬も心なしか膨れていた。でもなんでだろう、俺はその表情をあまり嫌とは思わなくて。むしろ懐かしさが……、ああ……、たしか小学生の頃、校内にあるウサギの飼育小屋の前で、そんな顔を見て――、


「もうっ、なんでちょっと怒ってるのっ?」

「へっ!? お、俺!?」


 加奈の強めの問いかけに思わず声を上げてしまった。今の俺もそんな風に見えるのか?


「い、いや、怒ってないって」

「うそ。さっきから……、むきになってるし」

「いやそれは、お互い様じゃ――」

「なにか言いました?」

「うっ! いや、な、何でもないです……」

「ふんっ」


 プイッと、非常にわかりやすくそっぽを向けられた。とても不満そう。えっと……、ど、どうしたものか……。


「か、加奈?」

「…………」

「お、怒ってる?」

 

つい俺も同じことを聞いてしまった。すると加奈がこちらを向いた。強く閉じていた口元が小さく開く。


「怒っていません」


 冷たげな声音。ちょっと身震いした。それは怒ってるだろ……。何とも言えない理不尽さに襲われる。でも今はそんな場合じゃない。せっかく久しぶりにあったんだ。仲良くしたい。

 頭のなかで必死に解決の言葉を探る。でも良いのが浮かばない。はあ~……、もうあれこれ考えるより、シンプルに言った方が良いな。

 俺は恐る恐る口を開いた。


「えっと……、加奈」

「…………」

「ご、ごめん。それから……、あ、ありがと。お、教え上手って言ってくれてさ。嬉しかった」

「…………」


 無言の加奈。ど、どうしよう……。

 俺が困って、頭を軽くかいたときだった。


「くすくすっ」

「んっ?」


 小さな笑い声が加奈の口からこぼれた。表情はとても穏やかで。ふと小さく呟いた。


「もう……、ずるい。そいうとこ、昔と変わらないね」

「えっ? な、なに?」

「ふふっ。何でもないです」


 加奈がなぜか嬉しそうに笑った。う~ん……、まあ機嫌が戻ったのなら、それで良いか。


「ねぇ、太一くん」

「ん?」

「あのね、小学生の頃、こういうことあったよね。お、覚えてる?」


 加奈が少し戸惑いながら訊いてきた。

 もしかして、さっき頭によぎったことかな。


「えっと、小学校にあった、ウサギ小屋でのことか?」

「そうそう!」


 加奈が嬉しそうに俺との距離を詰めた。ち、近い! でも加奈はそんなこと気にしていない。まるで小学生のときのように。2人の仲がまだ良かったときのように、話しかけてくれる。


「すごく真っ白で綺麗なウサギがいたでしょ。その子にね、名前を付けようってなって。私達、名前を発表しあって。そしたらさ、お互いすごく褒め合って、名前をつけるの譲り合いになっちゃたよね、くすくすっ」


 加奈が可笑しそうに笑った。俺もつられて口元が緩む。


「あったな、そんなこと」

「ねっ。ちょっと可笑しいよね。自分の考えた名前じゃなくて、相手の考えた名前を必死につけようとして」


 加奈が目を細め楽しそうに微笑む。俺の頬が柔らかくなるのを感じた。きっと俺も、笑っているんだろう。


「ホイップちゃん! だよね?」

「へっ!?」


 加奈が突然、ウサギの名前を呼んだ。俺の頬が急に熱くなる。だってそれは、俺が考えた名前だったから。


「くすくすっ、太一くん、すごく可愛い名前を言うんだもん。ほんと驚いちゃったなぁ」

 

 加奈がおどけて言う。俺は慌てて口を開いた。


「いや!? あ、あれは、た、たまたまだって! なんかこう、毛並みがふわっとしてて、その……」

「くすくすっ、うんうん」


 加奈が笑いを堪えていた。ぐっ……。俺だけ恥ずかしい思いをさせられるのは非常に不本意だ。

 だから俺も、加奈がつけた名前を口にした。


「綿菓子ちゃん! だったよな?」

「へっ!?」


 加奈がビクッと両肩を震わした。こちらを恥ずかし気に見てくる。俺はニヤリと笑う。


「くくくっ、甘くて美味しそう、とか言うもんな、すごいびっくりした」

「あ、あれは例え!! それぐらい毛並みがふわふわって意味で言ってたの!! ほ、ほんとに食べたいとか思ってないからっ!!」

「くくくっ、うんうん」

「も、もう……っ!」


 加奈が少し頬を膨らました。俺はそのふわっとやわらかそうな顔を見つめる。しばらくして、どちらからともなく笑ってしまった。

 たく、俺らは何を話してるんだか。でも胸のなかがすごく心地よくて。


「ねぇ、太一くん」

「ん?」

「ウサギの名前、結局どうなったか覚えてる?」

「もちろん」


 加奈と俺は目線を合わせて、示し合わすかのように同時に口を開いた。


「「綿菓子・ホイップちゃん」」

「「…………、ぷふっ、あはははははっ!!」」


 そう、加奈と俺は、悩んだ末引っ付けたんだ。まるで名前と苗字みたいに。なんとも残念なネーミング。

 

 加奈が目じりに浮かんだ涙を拭った。


「ほんと、あの白ウサギちゃんには悪いことしちゃったなぁ~」

「そうだな。一緒に謝りに行かないとな」

「だねっ。くすくす」


 まるで、小学生のころに戻ったかのようだった。なんのしがらみもない、ただ一緒にいたかったあの頃を思い出してしまう。

 とても楽しかった。だから……、まだこの雰囲気に浸っていたくて。俺は……、加奈が知らない思い出を、つい口から滑らせてしまった。


「あの子さ、子どもを産んだんだよ」

「うそっ!? 私、それ知らないよっ!? もうっ!! なんで教えてくれなかったの!! すごく見たかったのにっ!!」

 

 無邪気に悔しがる加奈。俺の中に優越感が湧き出る。自慢したくて、俺は何のためらいもなく、を口にしてしまった。


「あははははっ、加奈があとに産んだんだよ。加奈が悪い」

「あっ……、う、うん」


 加奈の消え入りそうな声が、店内にこだました。急に身を小さくしだす加奈に、ハッとした。なんで俺、引っ越したことを口にしたんだ。慌てて口を開く。


「か、加奈! ご、ごめん。俺――」

「もう、なんで太一くんが謝るの? あははは……、そっか~、私が引っ越した後に生まれたのか~、う~む、惜しいことしましたなぁ~……」

 

 表情を明るくしながら、おどけるような声を出す加奈。でも、さっきと違い自然さが無い。明らかに作っている。

 俺は何やってんだ。せっかく、今まで楽しい時間を過ごしていたのに。それを自分から、崩すなんて。

急に静かになる店内。冷房の無機質な稼働音が、店内に嫌に響く。


「ねぇ、太一くん……」


 加奈が、か細い声で俺を呼ぶ。丸い瞳が憂いを帯びている。形の良い淡くて薄い口が、小さく開いた。


「急に引っ越しちゃって、ごめ――」

「もう! 店を閉める時間だなっ!!」

「へっ!?」

「おれ、『close』の看板かけてくるから。んでちょっと、待ってて。飲み物とか買ってくるよ」

「え!? そ、そんなの悪いよ!」

「いいって! 気にすんな!」


 俺は急いで店用のエプロンを脱ぎ、レジカウンターの机に無造作に置く。『close』と書かれた掛け看板を手に取る。


「私も一緒にっ」

「良いって! 休憩しといてくれっ」

「た、太一くん!」


 俺は加奈の呼び止める声を背に店を出た。店のドアに看板を掛け、商店街のアーケード内を駆けていく。近くのコンビニまで。

 さっきまでの楽しい時間が、蜃気楼のようにかすんでいく。くそ、くそっ! 何で、引っ越したことを口にしたんだ。そんなの言う必要はなかった。言うべきじゃなかった。

 加奈は、謝ろうとしていた。そんな必要はまったくないのに。加奈の両親の都合でしかたのないことだろ。だから俺は遮った。

 なぜ、小学校の話を続けた? 良い頃合いで切り上げて、さっさと加奈の中学や、高校の話をすれば良かった。

 小学校の思い出、加奈と仲が良かったときの過去に浸りたがった自分を、思わず責めた。


『お前らさ、付き合ってんじゃねえの』


 突然、記憶の底から黒い言葉が湧き出てきた。そして、あの言葉が鮮明に蘇る。


『わ、私は、太一くんのこと――』

『大嫌いなの!』


 ショックだった。だから、俺も言ったんだ。言ってしまったんだ。


『俺も加奈のこと――』

『大嫌いだよ』



 涙をこぼしながら、教室を出ていった加奈。

 互いに距離ができたまま、引っ越してしまった加奈。

 見送り会に出なかった俺。

 加奈からの手紙を、受け取らなかった俺……。



 コンビニのドアをくぐると、冷たい冷気が走って高ぶった体温をさらっていく。

 飲み物の棚で、選ぶふりをする。頭の中では加奈に、どんな表情を向けて店に戻れば良いのか、そればかり考えていた。

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