Ⅱ 森の魔女(1)

 教会を飛び出したリュカの向かった先は、無論、村はずれにある森のさらに奥深く……そこに棲むという〝魔女〟のもとだった。


 生い茂る森の手前で田舎道が途切れても、そこから続く村人が狩りやキノコ採集などのために使っている小道を使い、リュカはそのままの勢いで樹々の狭間へと躊躇いもなく突入する。


 もうとっくに日も沈み、真っ暗な夜の闇が森全体を覆ってはいるものの、幸いにも十夜の明るい月が頭上で煌々と輝いているため、木漏れ日の如く差し込む月光で辺りはぼんやりと蒼白く浮かんで見える。


 これなら夜だとて、足場の悪い森の中を突き進むことができるが、とはいえ夜の森は狼などの獰猛な獣が跋扈する非常に恐ろしい場所である。


「待ってろよ、アンヌ。もう少しの辛抱だからな……」


 しかし、今のリュカとしてはそんなことかまってはいられない。野獣に襲われる危険性など頭の片隅にすらなく、下草の薄い、辛うじて人が歩いた痕跡と思われる獣道をたどると、森のさらに奥深く目指して一心不乱にひた走った。


「……!? あれは……」


 すると、やがて彼の目に月明かりとは違う、一際明るい橙色オレンジの光が前方の闇の中に映る……足は止めぬまま、よくよく眼を凝らして見れば、それは一棟の小さな家のようだった。


「あれか! アンヌ、がんばれ! もうすぐ着くからな!」


 それが魔女の棲家であると判断したリュカは、残る力を振り絞ってさらに足を加速させる。


「やっぱり家だ。こんな森の奥深くに棲んでるなんて、魔女以外に考えられねえ……」


 近づいて、月影によく見えるようになると、それは確かに家だった……いや、小屋といった方が正解か? 土壁は斜めに傾き、板葺きの屋根は苔生した朽ちかけの小屋ではあるが、その丸い窓からは先刻来見えていた、人の営みを感じさせる灯の光が暖かく零れ出している。


「…ハァ……ハァ……魔女は! 魔女の婆さんはいるか!?」


 そのひしゃげた壁の一隅にこれまたボロい木の扉を見つけると、リュカはそれに飛びつき、ノックも忘れて乱暴にそれを開いた。


「魔女の婆さん、頼みが…………」


 だが、肩で荒い息をしながら大声で叫んだリュカは、その口を開けたまま思わず固まってしまう。


 竈に灯した橙色オレンジの光に満たされる、その小さな部屋の中に彼が見たものは、老婆ではなく妙齢の美しい女性だった。


 透き通るような白い肌に長く麗しい黒髪、その髪と同じような真っ黒い長衣ドレスを着て、涼やかなハシバミ色の目でこちらをぼんやりと見つめている。年齢は不詳だが、明らかに老婆ではなく、美女の類に入るだろう整った顔立ちだ。


 また、その手には長い木の棒を持ち、夕食の支度でもしていたのか? それで竈にかけた鍋を掻き混ぜている最中だったようだ。


 そういえば、ハーブでも入れているのか? 室内にはなんとも独特な草臭い香りが立ち込めている。


「…………ん? 誰じゃそなたは?」


 突然、怒鳴り込むように現れたリュカにもさして驚いている様子はなく、訝しげに涼やかな眼を向けたまま、小首を傾げてその美女は問い質す。


「ば、ババアじゃねえ!? あ、あんた、魔女じゃねえのか!?」


 その想像していたのとは異なる人物像に驚いたリュカは、彼女の問いに答えることなく、逆に目を見開いて訊き返す。


「ババアとは失礼じゃな。だが、魔女であることに間違いはないので安心しろ」


 すると、その無礼にもほどがある物言いに顔をしかめたものの、さほど怒ることもなく律義にもその質問に答えてくれる。


「魔女って婆さんじゃなかったのか……いや、婆さんでも美女でもこの際どうでもいい! 頼む! アンヌを助けてくれ! 患ってる肺病が悪化したんだよ!」


「今、美女と申したか? そなた、さらっと失礼なことも言うが、うれしい言葉も口にするの……ん? 病人か? ずいぶん様態が悪いようじゃの。どれ、こっちに来て見せてみよ」


 だいぶイメージとは違っていた魔女に唖然とするも、気を取り直してアンヌの治療をリュカが頼むと、その魔女も彼の背にいる小さな女の子に気づいて家の中へと招き入れる。


「あ、ああ、頼む……アンヌ、大丈夫か? 今、お医者さんに診てもらえるかなら!」


 その言葉に早々小屋へ足を踏み入れたリュカは、竈の明かりが届く範囲まで行って、アンヌの顔がよく見えるようにしてやる。


 相変わらず痩せ細った体に熱を帯びたアンヌは、今や譫言を言うことも咳をすることもなく、ただただぐったりと兄の背に覆いかぶさっているだけだ。


「だいぶ熱が高い。意識もないようじゃな……これは急がないと命が危ういぞ」


 橙色オレンジの光に照らし出されたアンヌの生気のない顔を見つめ、汗ばむ額に手を当てて診察した魔女は、細く美しい眉を寄せて深刻な面持ちでそう呟く。


「そんな……おい! 頼む! なんとかしてくれよ! 金なら盗んでも何してでもこしらえるからよ! だから、なんとかアンヌを助けてやってくれよ!」


 予断を許さぬその診断に、リュカはいつになく顔面蒼白になると、藁にもすがるような心持ちで必死に魔女へ助けを乞う。


「盗みはよくないが、うむ。できるだけのことはしてみよう……その子をそこのベッドに寝かせよ。まずは熱に効く薬草を煎じる。そなたも薪くべを手伝ってくれ」


「た、助けてくれるのか!? アンヌ、よかったな! もう少しがんばるんだぞ!? よし、薪だな! 手伝えることがあったらなんでも言ってくれ! アンヌが治るんならなんでもするぜ!」


 神父や街の医者とは違い、意外なほどあっさりと魔女はその願いを聞き入れてくれ、すぐさま治療を始めようとする彼女に、小屋の隅にあるベッドにアンヌを寝かせると、リュカもよろこんで手伝いを申し出た――。

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