Ⅰ 村のはみ出し者 (2)

 だが、数日の後のこと……。


 あの時は冗談半分に言った戯事であったが、なんという天の采配か、その冗談は現実のものとなってしまった……。


 アンヌの様態が、急変したのだ、


「――コホッ、コホッ……お兄ちゃん……苦しいよお……」


「待ってろ、アンヌ! 兄ちゃんが今助けてやるからな!」


 咳き込みながら、消え入るような声で助けを求める妹を背負い、夕闇に染まる村の田舎道をリュカは教会へと走る。


 その背で三つ編みに結った茶色の髪を激しく上下に揺らしているアンヌは、元来、キラキラと輝くつぶらな目をした、たいへん可愛らしい少女であったが、今はその瞳も生気を失い、蒼褪めた両の頬もすっかり痩せこけてしまっている。


 彼女の患っている肺病は、そのようにして生命力を徐々に奪い去り、やがては〝死〟へと到らしめる恐ろしい病なのだ。


 それでも以前、村人から博打で巻き上げた有り金をはたき、街にいる医者にアンヌを見せに行ったことがあったが、効くかどうかも怪しい高額の薬を飲ませ続ける以外、為す術はないと匙を投げられてしまった。

無論、貧しい農夫であるリュカその薬を飲ませることもかなわなかったが、もし飲ませていたとしても、結果はおそらく同じであったろう。


「神父さまっ! 助けてくれっ! アンヌが……アンヌが大変なんだよ!」


 ガタン! …と乱暴に聖堂の扉を開け、転がるようにして中へ飛び込むと、祭壇に飾られる黄金色をした神の象徴――大きな一つ眼から放射状に降り注ぐ光を表した〝神の眼差し〟を仰ぎ見る神父にリュカは声を張り上げる。


「……リュカ? そんなに慌てて如何したのじゃ?」


 燭台の仄明るい光に照らされた大きな堂宇の中、その声に振り向いたジャンポール神父は怪訝な顔をして細めた目をリュカに対して向ける。


 彼の手には黒表紙の大きく厚い本――〝はじまりの預言者〟イェホシア・ガリールの教えが説かれたプロフェシア教の根本経典〝聖典ビーブル〟が抱えられており、これより夕方の祈祷を捧げるところだったようである。


「アンヌが! アンヌの具合が急に悪くなったんだ! 熱もあるし、頭も朦朧としてるみてえで、声をかけても返事もろくにできねえんだよ!」


 尋ねる神父に、リュカは息吐く暇もなく改めてその状況を叫ぶように伝える。


「この前言ってた魔法修士ってやつを紹介してくれ! そいつに頼んで、魔導書の魔術でなんとかアンヌを助けてもらうんだ! どうせ医者は街に行かなきゃいねえし、その医者も見放したような病だ。もう魔導書の力で治してもらうしかねえんだよ! なあ! 頼むから教えてくれよ! どこに行けば魔法修士に会えるんだよ!?」


「アンヌが? ……そうか。魔法修士はこのジュオーディンの司教座があるメンデの修道院へ行けばおるが、行ったところで追い返されるだけじゃ。先日も話したように、個人的な理由で魔導書を使う許可はそう簡単に下りるものではない。それに、遠くメンデの街まで行くには時間がかかりすぎるしの」


 懸命なリュカの訴えを聞き、その背中に負われたアンヌの顔を凝視した神父はすべてを理解するが、相変わらずの厳しい表情を作ったまま、その首をゆっくりと横に振る。


「悪いことは言わん。そのように無謀な行いをするよりも神の御業を頼るのじゃ。少しでもアンヌが楽になるよう、そこの長椅子に寝かせるとよい。ちょうど今から夕刻の祈祷を行うところ。わしとともに病気の平癒を心より神に祈ろう。すべては神の御はからい、まだ天に召されるその時でなければ、きっとアンヌの病も癒されはようぞ」


 そして、まるで説教をするかのようにして、リュカをそう説得するのだった。


「神に、祈れ……だと? ……アンヌがこんな状態だってのにか!? 俺だって、何度も何度も神様に祈ったさ! でも、その神様とやらは一向にアンヌの病を治しちゃあくれなかった! なのに、今さら祈って何になるってんだよ!」


 だが、神父のその言葉を耳にしたリュカはひどい絶望感を味わうとともに、強い怒りが沸々と込み上げてきて大声で激昂する。


「…コホ、コホ……お兄ちゃん……なんだかここ…コホ……コホ……とっても寒いよう……早く、おうち……コホ、コホ……帰ろう……」


 そんなリュカの悲壮感に満たされた心をさらに追い込むかのようにして、異様に熱い体温を感じさせている背中のアンヌが、咳き込みながらもか細い声でまたも譫言のように呟いた。


「アンヌ! 大丈夫か? もう少しの辛抱だぞ? すぐに家帰れるからな」


 ……クツっ! 悔しいが、確かにメンデまでなんて行ってたら、アンヌの体がもつかわからねえ……行っても頼みを聞いてくれる保証はねえし、ここはヤブでも隣町の医者んとこ連れて行くしかねえか……。


 顔を少しだけ後へ向け、瀕死の妹を元気づけるように声をかけながら、リュカは最善の道を必死で考える。


 ……医者か……そうだ。医者っていやあ、森の中にもう一人・・・・似たようなのがいたな……しかも、密かに囁かれてる噂じゃあ、街のヤブ医者なんかよりすこぶる評判もいい……。


 すると、彼の脳裏に、やはり先日、ジャンポール神父か口にしていたあの〝森の魔女〟のことが不意に浮かんできた。


「ヘン! もう、てめえら役立たずの神や坊主になんか頼らねえ! そんなに祈りてえなら、てめだえだけでいつまでも無駄に祈っていやがれ!」


 その考えに思い至るや、リュカはそんな悪態を神父に言い放ち、早々に踵を返すと教会を後にしてゆく。


「……あ、これ! またなんと罰当たりなことを! そのような冒涜的なことを口にしては治る病も治らなくなってしまうぞーっ!」


 赤黒い色をした夕闇がよりいっそう深まる中、相変わらずの神父の怒号にその背中を見送られながら、教会から続く村の一本道をアンヌとともにリュカは駆け抜けた。

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