Ⅶ 悲劇のち惨劇(2)

「……アンヌ……いったい、どうして……」


 飛びつくようにしてその蒼白い頬に触れると、彼女の身体は氷の如く冷たくなっている。


「この前、おまえが村へ戻って来た翌日からじゃ。恐ろしい体験をしたせいか、また肺の病が再発してな。あれよあれよという間に悪くなって、医者の薬も飲ませたが助らなんだ。残念じゃったが、これがアンヌの天命と思って受け入れるしかあるまい……」


 棺にしがみつき、アンヌの亡骸をじっと見つめるリュカの背中へ、その呟きに答えるようにして神父が説明する。


「……薬草は……アンヌが持ってた魔女の薬草は飲ませてなかったのか……」


 その言葉に振り向きもせず、じっとその場で固まったまま、リュカは震える声で神父に尋ねる。


「それが許されぬことは、おまえも身に染みてわかっているはずじゃろう? 異教の神を奉じる魔女の術に頼ることは、断じて許されぬことなのじゃ」


「許されねえだと? ……なんでだよ!? あの薬草を煎じて飲んでいさえすりゃあなあ、アンヌはこんなことにならなかったんだ! 人の命と神様の教えと、どっちが大切だと思ってやがんだ!?」


 その言葉にカチンときたリュカは、不意に勢いよく振り返ると声を荒げて神父を問い質した。


 見開かれたその瞳は真っ赤に充血し、血のような涙で潤んでいる。


「無論、それは神の教えじゃ。我ら人は神への信仰を通してのみ、真の生を歩むことができる。人にとって、信仰こそが何をおいても守らねばならぬ最も大切なもの。神の教えを前にすれば、人の生き死になど些末な問題にすぎん」


 だが、ジャンポール神父は説教でもするかのように、リュカの予想だにしなかったような答えを平然と口にした。


「……些末な……問題だと……」


 その回答に、リュカは心底、愕然とする……これが、いつも慈愛を説いている神父の言葉なのか?


「……たとえ頑固ジジイでも、そこは人間ができてると思ってたってのに、てめーもやっぱり同じ穴のムジナか……病気は治さねえくせして、くだねえことには魔導書使うあの異端審判士といい……そんなにその信仰とやらが大事だっていうのかよ!?」


 わなわなと体を震わせながら、怒りを露わにして叫ぶリュカであったが。


「当たり前であろう、この異端者め! それよりもなぜおまえがここにいる? おまえは狼刑に処されて村を追放されたはずだ! そのような者の肉親のために葬儀をしてやっているだけでもありがたく思え!」


 居並ぶ村人達の最前列にいたジャッコフが、話に割って入るとさらに逆撫でするような台詞を口走る。


 それが、ずっとリュカの抑え込んでいた怒りを一瞬にして爆発させた。


 アンヌを失った今、人間でなくなろうが狼になろうが、そんなことはもうどうだっていい……彼を人の世に留めておくための枷は、最早、何も残ってはいないのだ。


「……許さねえ……アンヌを死に追いやったてめえらは、絶対に許さねえ……」


 沸々と湧き上がってくる怒りにリュカの心が支配されたその時、彼の身にも変化が起き始める……。


 その手脚の筋肉は大きく肥大し、鋭い刃物のように五指の爪が伸びると、皮膚は獣の如く銀色の毛に覆われてゆく……。


 また、その鼻面は伸び、長く突き出した口には尖った牙が生え揃い、耳も大きく三角形に形を変えてゆく……。


 そして、鋭角に釣り上がった眼窩の中で琥珀色アンバーの瞳を爛々と輝かせたリュカは、人ではなく一体の人狼・・へと姿を変えていた。


「き…キャアァァァーッ!」


 その恐ろしい姿を見た村人達は、悲鳴をあげて騒然とし始める。


「あ、悪魔だ……やはり悪魔に魂を売り渡していたのか!? この汚らわしいケダモノめっ!」


 その中にあって、狂気をその顔に浮かべたジャッコフは、恐怖を感じながらもなおもリュカを罵倒する。


「うるせえ! このクソ野郎がっ!」


「うぎゃあああっ…!」


 次の瞬間、怒りに任せて振るったリュカの手は、その鋭利な爪でジャッコフの体を引き裂いていた。


 断末魔の悲鳴とともに、真っ赤な血飛沫を高い天井まで吹き上げた彼は、そのまま事切れて床に崩れ落ちる。


「や、りやがった……あいつ、ほんとにジャッコフを殺りやがったぞ!」


「た、助けてくれえぇぇーっ!」


 それを見て、村人達は我先にとその場を逃げ出し、入口の扉へと殺到する。


「なんということを……なぜか人間の姿に戻っていると思えば……リュカよ、本当に悪魔に成り果てしまったか……神よ! この悪魔を退けたまえ!」


 一方、その凶行を目にしたジャンポール神父は、祭壇に置かれたプロフェシア教のシンボルーー〝神の眼差し〟を手に取ると、それをリュカに突きつけてやはり悪魔呼ばわりをする。


「黙れジジイっ! こんな姿にしたのはてめえらだろうがっ! いいぜ、お望み通り悪魔にでもなんでもなってやろうじゃねえかっ!」


「うぐっ! ……ゴハッ! ……か、神…よ……」


 その神への祈りの言葉も、抑え切れぬリュカの怒りをさらに増大させた……刹那、彼の爪は神父の腹に突き立てられ、純白の祭服を真っ赤に染めた彼は、口からも大量の血を吐くと呆気なく天に召されてしまう。


「し、神父さまもやられた! チキショウ、この悪魔め!」


「お、男達は勇気を持って闘え! 村と我々の信仰を守るのだ!」


 また、神父もリュカに殺されたことを知ると、多くの村人達が転がるようにして逃げ出す中、勇敢で信仰心篤い一部の者達は、椅子を投げつけたり、金属製の燭台を振りかざしたりして彼に挑みかかってくる。


「ハン! いいぜ、相手してやらあ……ただし、今の俺はそうとう虫の居所が悪ぃんだ。誰だろうが容赦しねえから覚悟してきな……」


 だが、投げつけられた椅子も難なく爪の一閃で粉砕し、燭台で殴りかかってくる者も躊躇いなく残忍に切り刻む。


「う、うわぁああ! ……ウギャアァァ!」


「ひ、ひいぃぃ……ギェエェェっ!」


 わずかの間に、その場は阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた……。


「――はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」


 立ち向かってきた者達は死に絶え、他の村人達が蜘蛛の子を散らすように逃げおおせると、怒りの収まったリュカの身体は自然と人間のものに戻ってゆく……。


「ずいぶんと待たせちまったなぁ、アンヌ……兄ちゃんが迎えに来てやったぞ……」


 すっかり人の姿に戻ったリュカは、そんな言葉を優しく投げかけながら、棺の中のアンヌの亡骸をそっと抱きかかえる。


「さ、こんなクソみてえな村はとっととおさらばだ。これからは森が俺達の新しい棲家だ……」


 そして、真っ赤な鮮血に彩られた教会の床をゆっくりと踏みしめ、冷たくなった妹を連れたリュカは独り村を後にした……。

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