ⅩⅢ 幻影の森(2)

 最初、彼の目には自分の猟犬三匹が、あの忌々しい人狼の腕や脚に果敢に噛みつき、引きづり倒そうとしているように見えた……しかし、よくよく見れば、その人狼はなぜか鹿の背に乗っかっており、そこで不審に思ってさらによく目を凝らしてみたところ、人狼だと思っていたそれは、なんと、藁でできた等身大の人形だったのである!


「ガウ! ワウ! ガウゥ…!」


「ケェェェーン…!」


 ヴァンジャックが唖然とそれを見つめている内にも、犬達に噛みつかれた藁人形は鹿の背から乱暴に引きずり落とされ、鹿は一声響かせると一目散に逃げて行ってしまう……どうやらその人形は、そうして鹿の背に縄で縛り着けられていたものらしい。


「クソっ! 身代わりダミーか……どうりで撃たれても平気なわけだぜ……」


 その藁でできた素朴な人狼形を犬達から取り上げ、胴体部に弾の貫通したような穴を確認したヴァンジャックは、いたく得心がいったという様子で独り呟く。


「だが、妙だな……魔弾も、それに犬どももこの藁人形に反応していた……ハッ! これも魔女の魔術ってわけか!? 作りこそ雑だが、人の目も犬の鼻も、それに魔弾・・すらも騙せる身代わりダミーを創りやがったな!?」


 そして、感じたその疑問に考えを巡らせると、これも魔女の仕業であるという結論に彼は達した――。




 しかし、その推理は半分当たっていたものの、もう半分は間違っていた……その身代わりダミーを創り出した張本人は魔女ジョルディーヌではなく、魔導書の魔術師マルクだったのだ。


「――どうやらいい感じみたいだね……ジョルディーヌの使い魔・・・達もうまく動いてくれてるようだ……」


 例の〝ソロモン王の魔法円〟の上に立つマルクの前には、深緑の円を内包する三角形の上に、老若男女、たくさんの頭を持った異形の半透明をした人間が、その手に分厚い書物を持って浮かんでいる。


 その明らかにこの世のものではない存在は、彼が呼び出したソロモン王の72柱の悪魔・序列71番〝異相の公爵ダンタリオン〟だ。


 ダンタリオンは幻影を創り出し、あらゆる場所へ送り込む力を持っているのだが、たとえ悪魔の力といえど、世のことわりに反する願いをかなえるのは大変困難であるし、無理にそれをなそうとすれば相当な対価を必要とするのが魔術の決まり事だ。


 そこで、箒の材料として小屋にあった藁を使い、マルクは急いでジョルディーヌにリュカの身代わりダミー人形を作ってもらった。そして、それを彼女の使い魔である森の動物達の背に括り付け、その動く人形を依代よりしろにダンタリオンの生み出した幻影を宿し、実際にリュカの気配を持つ本物同然・・・・身代わりダミーを顕現させたのである。


 その上、加えてジョルディーヌの魔女術によって濃い霧の煙幕を張り、視界を奪うことで人形のクオリティーの拙さを補うというきめ細かい配慮である――。




「――なんで〝ジュオーディンの怪物〟にそこまで肩入れするのか知らねえが……やっぱり、狼だけに・・・・魔女の使い魔かなんかだったってことか……」


「ヒャヒャヒャ!  俺が使い魔ってのは大ハズレだが、ま、だいたいはそんなとこだ。さあて、それでは問題です。本物の俺はどれでしょう?」


 凡そのカラクリを理解し、再度、火薬と銃弾を装填しながら呟くヴァンジャックの耳に、どこからともなくまたしても人狼の声が聞こえる……。


 と、次の瞬間、周囲を取り巻く霧の中からガサガサ草木の騒めく音が湧き起こり、白い背景のあちこちに人狼の人影シルエットが幾つも同時に浮かんで見えた。


「なっ……!?」


 霧の海を縦横無尽に跳び回る複数体の人狼に、さすがのヴァンジャックも呆然と口を半開きにしたまま固まる。


 そう……マルクが創り出したリュカの身代わりダミー人形は一体ではなかった……。


 そうして魔弾をも騙す・・・・・〝偽物〟を幾体も創り出し、深い霧の中、それを乗せた鹿や猪、狐や熊などの使い魔を走らせることで狩人ハンターの眼を翻弄する……それこそが、マルクの考えた対魔弾用の作戦だったのである。


「ワン! ワン! ワン…!」


「ワン! …ワン! ワン…!」


 猟犬達もその臭いをたどって獲物に吠えかかっているが、その方向はてんでバラバラで、やはり本物と偽物の区別がつかないようだ。


「さあさあ、早く本物を撃ち殺さねえと、てめえの方が俺に狩られちまうぜえ?」


 太い首を前後左右に忙しなく回し、駆け巡る人狼の影を追うヴァンジャックに再び挑発の声が投げかけられる。


「チッ……クソっ!」


 だが、挑発を受けてもヴァンジャックは、これまで通り安易に魔弾を撃つことができない……。


 〝魔弾〟は悪魔バルバトスの力で、多少狙いを外しても自ら軌道を修正して獲物を確実に撃ち抜いてくれる……。


 しかし、マスケット銃はご存知の通り、一度発つと次の発射までに多少の時間がかかってしまう……的確に本物を一発で仕留めなければ、今度は敵に致命的な攻撃の機会を与えてしまうのである。


「ワオォォーン…!」


 その時、一つの人影シルエットが遠吠えをあげながら、ヴァンジャックの方へ側面から飛びかかってきた。


「そいつかっ!」


 咄嗟に彼はそちらへ銃口を向けると、すぐさまパーン…! と引金を引く。


「何っ!?」


 だが、霧のベールを抜け、魔弾の貫いたその影が見える所まで接近すると、それはやはり人狼形の藁人形だった。


「ガルルル…」


 ただし、今度のその人形は一匹の狼の背に括り付けられており、発砲の音と光に驚くと、唸り声を残して霧の中へ戻って行ってしまう。


 今の遠吠えは、人狼ではなくそののものであったらしい……。


「フン……なるほど。そういう手か……だが、甘かったな……」


 しかし、本物を撃ち漏らしたにも関わらず、ヴァンジャックは口元に不敵な笑みを浮かべる。


「こういう時は、背後からの奇襲がセオリーだからなあっ!」


 そして、マスケット銃を手放すと腰のベルトに吊るされた短銃を素早く引き抜き、背後を振り返るのと同時にそれを躊躇いなく放った。


 パァァァーン…! と再び森に響き渡る発砲音……案の定、そこには人狼が立っており、その額を短銃に込められていた魔弾が見事に貫いていた。


 百戦錬磨の狩人ハンターは、その経験則からリュカの陽動作戦を読んでいたのだ。


「惜しい。あともう一歩だったな。もしもの時用にこの奥の手を残しておいてよかったぜ……」


 頭を撃ち抜かれ、立ったまま即死した人狼を愉快げに間近で見つめながら、銃口から細い煙の立ち上る短銃もそのままにヴァンジャックは嘯く。


「…………いや、違う……こいつも、身代わりダミーか……」


 だが、わずかの後、それまで人狼に見えていた目の前のその死骸は、みるみる頭部の破損した藁の人形へと変化してゆく……。


「残念。正解は足下でしたあ!」


 続いて聞こえた人狼の声に視線を下へ向ければ、その藁人形は案山子かかしのような造りになっており、木の棒でできたその一本足を包帯姿の人狼がしゃがんで支えていた。


「しまっ…うぐっ!」


 驚くヴァンジャックは慌てて腰のハンティングソードへと手を伸ばす…が、その瞬間、勢いよく立ち上がったリュカの左手の爪は、彼の腹部を貫いてそのまま高々と持ち上げていた。


「……ば、バカな……ゴハァッ…!」


 腹を串刺しにされたまま宙に浮くヴァンジャックは、その言葉を最後に大量の血を口から吐き出して絶命する……それは、あたかも昨晩の彼らと真逆の構図である。


「どうやら、俺の方が少しばかり狩りの腕がよかったようだな。昨夜の借り、きっちり返させてもらったぜ……」


 目を見開いたまま事切れる頭上の狩人ハンターを見上げ、その血を浴びた狼の顔をドス黒い赤の色に染めたリュカは、そう言うと左腕を大きく振るい 、うなだれたその死骸を足下の地面にぽいっと放り投げた。


「…ワン! …ワン! ワン…!」


 すると、忠義深くも彼の猟犬達はその骸の前に壁を作り、主人を守るようにしてリュカに激しく吠えかかる。


「チッ…うるせえ忠犬どもだな。いい加減、てめーらも狼みてえに独立心を持ちやがれ。でねえとほんとに食っちまうぞ! ガルルル…!」


 そんな耳障りな声に顔をしかめると、リュカは牙を剥いて威嚇の唸り声をあげる。


「キャウ…キャウウン……」


 その二本足で立ちはだかる巨大な狼の恫喝にはさすがの猟犬達も恐怖を禁じ得ず、なんとも情けない声を漏らしながら、脱兎の如く霧の中へそれぞれに散っていった。


「フゥ……さて、野郎の死骸はどうすっかな? ……ま、放っときゃ狼達の餌にでもなるからいいか……」


 逃げた猟犬達を見送り、一息吐いたリュカは、残されたヴァンジャックの遺体に再び視線を向けるが、今やただのと化したそれにはなんら感慨も湧かず、面倒くさいのでそのまま放置することにする。


「おおーい! 終わったぞ〜っ! もう魔術は大丈夫だぞ〜っ!」


 そして、狼ではなく人の声を張り上げると、霧に隠された仲間達に自分達の勝利を告げた――。

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