Ⅺ 悪魔の治療

「――いやあ、さすが魔女の家! ここならもともと聖別されてるし、ハーブの匂いも染みついてるから儀式にはもってこいだよ」


 死にかけたリュカの魔術による治療を頼まれた少年は、さっそくジョルディーヌの小屋の中で悪魔召喚の儀式を取り行う準備を始めた。何かと好都合なため、彼女の小屋を借りて儀式を執り行うことにしたのだ。


 部屋の中を簡単に片付け、広い空間を作った少年は、自身のパンパンに膨らんだ肩掛け鞄から一枚の布を取り出し、それを床の上に広げる……。


 その布の表には、とぐろを巻く蛇の線で描かれた同心円と、五芒星ペンタグラム六芒星ヘキサグラムを組み合わせた複雑な図形、そしてその前方に深緑の円を内包する三角形がカラフルな色使いで描かれている……そう。ピエーラが使っていたのと同じ〝ソロモン王の魔法円〟である。


「それじゃあ、急いでるからいろいろ省略していくよ……霊よ、我は汝を召喚する! 神の呼び名の中でも最も力あるエルの名によって! 我は汝に強く命じ、絶え間なく強制する! アドナイ、ツァバオト、エロイム…様々な神の名によって! ソロモン王が72柱の悪魔の内序列5番、地獄の大総裁マルバス!」


 その円の中央に立った少年は、右手で腰のベルトに下げていたカットラス(※船乗り用の幅広のサーベル)を引き抜き、それで空を斬りつけながら、〝さらに強力な召喚呪〟、〝極めて強力な召喚呪〟と呼ばれる呪文を立て続けに唱える。


 よく見れば、その剣の刀身はカットラスの割に妙に短く、ナイフ程度の長さしかない……じつはそれ、カットラスに見せかけた儀式に用いる魔術武器〝短剣ダガー〟なのだ。


 また、左手には奇妙な文様の描かれた小振りな金属円盤を掲げているが、それは先程、同じような円盤が72枚紐で連ねられたものから一枚選び出したものである。


 さらにマントの左胸には金の五芒星ペンタグラム、その下に着たシュミーズ(※シャツ)の右裾に仔牛の革製の六芒星ヘキサグラム円盤を着け、その服装もまた、魔導書の記載に準じた悪魔召喚儀式のための装いなのだ。


「…我は汝に強く命じ、絶え間なく強制する! アドナイ、ツァバオト、エロイム…様々な神の名によって!」


「ガオォォオォン…!」


 そのような呪文を繰り返すこと幾度かの後、足下の布に描かれた魔法円の前方――深緑の円を内包する三角形の上に、モクモクと真っ黒な煙が俄かに立ち昇ったかと思いきや、その煙の中からは腹に響く重低音の咆哮をあげながら、口元を真っ赤な鮮血に濡らし、黒い鬣を持った一頭の大きな獅子ライオンが姿を現す。


「初っ端から〝極めて強力な召喚呪〟と短剣ダガーで呼び出すアホウがいるかと思えば、なんだ貴様か、マルク・デ・スファラニア」


 さらにその獅子ライオンは、金色の肌に黒髪をツンツン逆立てた偉丈夫な男の姿に変化すると、野太い威嚇するような声でそう呟いた。


 一見、人間のように見えなくもないが、その足の先は割れたひづめになっており、それが悪魔であることは一目瞭然である。


「やあ、マルバス。久しぶり。ごめんよ、急を要する頼みなんでね。いろいろ省略させてもらったよ」


 だが、そんな異形の姿をした悪魔にも、少年は恐れ慄くことなく、いやむしろ古い友人を相手にするかのように親しげに言葉を返している。


 じつは彼、こう見えて幼き頃より魔術の手解きを受けていた筋金入りの魔術師であり、幾度となく修練のために悪魔召喚を行っているため、よほど高位の悪魔でない限り顔見知りだったりするのだ。特に医者もやってる関係から、医術や薬学に関係する悪魔となればなおさら馴染み深い。


「急を要する? ……というと?」


「そこのベッドに寝てる人狼の傷を治してほしいんだ。瀕死の状態でね。助けるには君の治癒能力が必要だ」


 悪魔の方もなんら違和感なく気さくに尋ね返すと、マルクはベッドに横たえられたリュカの方を視線で指し示す。


「ほお、人狼の治癒の依頼とは珍しいな。どこでこんなもの拾った?」


「僕もついさっき会ったばかりさ。マルバス、君も人を獣に変える力を持っていたよね? もしかして、君がやったんじゃないよね?」


 つられるようにネコ科の眼を同じくリュカに向け、興味深げに尋ねる悪魔にマルクの方も訊き返す。


「いや、俺ではない。たぶん、ヴァレフォールの仕業だな。で、怪我だが……ふーむ。これは〝銀の弾丸〟でやられた傷だな。存じての通り、〝銀〟でできた武器は魔性の物を滅ぼす。少しでも魔に属しておれば、その霊体にも深い傷を負うてしまう。このままでは確かに死ぬな」


 その問いに推測で答えると、マルバスは音もなく宙を滑るようにしてリュカへと近づき、血止めの薬草と血だらけの包帯の施されたその傷口の上へ手をかざしながら、そんな診断結果を淡々とした口調でマルクに告げた。


「銀の弾丸かあ……そりゃあ、まさに人狼を狩るための狩人ハンターって感じだな……で、どうなの? 治せそう?」


「まあ、幸い弾は体から抜けてるし、人狼の生命力は人間の比ではないからな。それにこの薬草の調合と血止めの処置も適切だ……これは、そこにいる魔女の手によるものか?」


 場違いにも感心したように呟き、あまり切迫感のない声で改めてマルクが確認すると、悪魔はそんな判断を下しつつ、黙って部屋の隅に立っていたジョルディーヌの方へその視線を向ける。


「悪魔に褒められるのは初めてだな……マルバス殿と言うたか? 治癒を司る悪魔よ、我からもその者のこと、お頼み申す!」


 獰猛な獅子ライオンの眼で凝視しながらも、意外や褒め称えてくれるその悪魔に、さすが魔女ジョルディーヌも臆することなく、自らもリュカの治療を凛とした声で頼み込む。


「うむ。よかろう。ただし、そのためには対価がいる。その願いをかなえたくば汝の魂を…」


「渡さないよ。僕もジョルディーヌさんも」


 彼女達の願いに首を縦に振るも、お決まり・・・・の〝悪魔との契約〟交渉を始めようとするマルバスに、悪魔が話終わらない内にもマルクはきっぱりとその条件を拒否する。


「返事が早すぎる! もう、軽い悪魔的ジョークであろう? 言われずともわかっておるわ。治癒できる状況は整っておるし、そこまでの対価を要するような無理難題でもないしな……」


 だが、どうやら本気ではなかったらしく、マルバスはそう言葉を返すと眉間に皺を寄せ、つまらなそうに渋い顔をしてみせた。


「ハハハ…まあ、そんな顔するなって。ただでとは言わないよ。代わりにこの塩漬けの猪肉のブロックをあげよう」


 そうした悪魔に、マルクは魔法円の傍らに置いてあった骨付きの塩漬け肉をひょいと持ち上げ、高々と掲げながらそんな代換案を口にする。


「我が丹精込めて作ったとっておきじゃ。自慢ではないが、名店の高級生ハムにも負けぬ味じゃぞ?」


 また、その猪ハムのブロックに対して、製造者のジョルディーヌもそんな解説を傍から加える。


「ジビエの生ハム! ……ジュルリ…よし。いいだろう。その人狼の怪我の治癒、しかと引き受けた……」


 すると、やはり獅子ライオンなだけあって肉には目がないのか? その供物がずいぶんと功を奏したらしく、悪魔マルバスは涎を垂らして舌舐めずりをすると、先を急ぐかのように即答して姿を掻き消した。


「ワオォォーンっ…!」


 と、次の瞬間、ベッドに横たわっていたリュカが一声、大きな狼の遠吠えをあげたかと思いきや、それを機にそれまでの人狼の姿から人間の彼へと段々に戻ってゆく……やがて、完全に人の形となった彼を覗えば、なんとも穏やかな顔つきで、静かな寝息を立てながら心地良さそうに眠っていた。


「お~お! 人の姿になった! ほんとにもとは人間だったんだ! いやあ、こいつはおもしろい……あ、てか、どうやらもう大丈夫そうだね」


 好奇心の方が先に立ち、その変化に興味津々な様子で目を輝かせているマルクは、遅れて本来の目的を思い出すとジョルディーヌの方を振り返って言う。


「うむ。稀少な猪のハムを使った甲斐があったようじゃな。薬も塗ったし、あとはぐっすり眠れば元気になるじゃろう」


 ジョルディーヌもリュカの健やかな寝顔を目にすると、わずかにその表情を綻ばせながら、そんな言葉をマルクに返した。


 ふと魔法円の方へ視線を移せば、リュカの遠吠えに放り出した猪肉の塩漬けが、いつの間にやら何処いづこかへと消え失せている……無論、マルバスが持って行ったのだろう。


「マルク殿、そなたにも世話になったな。この礼は必ずいたそう……あ、そうじゃ! 要り用ならば我のとっておき、精力ギンギンになる魔女秘蔵の黒ヤモリ酒を飲ませてやってもよいぞ?」


 続けて、ジョルディーヌは不意に姿勢を正すと、いまだ儀式用の格好をしたままのその若い魔術師に、深々と頭を下げてから秘蔵の精力剤を振舞おうとする。


「い、いやあ、そういうのはまだ必要ない…かな? ……ま、まあ、気にしないでよ。こんなの朝飯前だし、僕もおもしろいものが見れたしね」


 だが、マルクは顔を引きつらせて苦笑いを浮かべると、彼女の謝意と、そのちょっとありがた迷惑な謝礼の品を丁重にお断りする。


「ふぁ~あ……さて、その銀の弾使うっていう猟師が気になるところだけど、彼が起きないと話も聞けないしね。僕らも朝までひと眠りさせてもらおう」


 そして、大あくびとともに大きな伸びをすると、そう言って魔女を促しながら、左胸の五芒星ペンタグラムをマントから取り外した。





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