Ⅴ 獣の暮らし(3)

 ――淋しい思いさせちまってごめんな。兄ちゃん、すぐに行くからな……。


 深い森を抜け、久方ぶりにサンマルジュ村へ帰って来た頃には、すでに日が傾き始めていた。


 橙色オレンジと紫が奇妙に混ざり合った空の下、夕日に染まる村の一本道をリュカは風のように駆け抜ける……なんがか、あのアンヌを背負って走った日を思い出すようだ。


 ……神父のジジイが嘘吐いてなきゃあ、アンヌは教会にいるはずだな……。


 勢いよく四つの脚で大地を蹴り、彼方に見える教会をリュカは真っ直ぐに目指す……。


 ジャンポール神父はアンヌの面倒をみてくれると言っていたので、その約束通りならば、今は教会に引き取られているはずである。


 ……すぐに見つかりゃあいいんだが……教会に入って探さなきゃいけねえとなると厄介だな……。


 やがて、そんな心配をしながら駆けていたリュカは、教会の目と鼻の先にまで近づいた。


 …………いた!


 すると、運良くも教会の裏手にある井戸の傍に、アンヌの小さな姿を見つけることができた。


 夕飯の準備の手伝いか? 彼女は井戸から汲んだ水を木のバケツで一生懸命運ぼうとしている。


 ……アンヌのやつ、まだ完全に病が治ってのに……あのクソジジイ、アンヌにこんな無理させやがって……やっぱり、一緒に連れて村を出るしかねえな……。


 アンヌーっ! 待たせてごめんなぁー! 兄ちゃん迎えに来たぞぉー!


 妹の姿を目にするや、リュカは大声で叫びながら、矢のような速さでそちらへと駆け寄る。


 アンヌ! 体の具合はどうだ?  一人にしちまってごめんな。兄ちゃんもうどこにも行かねえからな。村を出て、どっか違う場所で新しい暮らしをはじめよう!


 そして、久しぶりに見る妹の顔を見つめながら、息吐く暇もなく興奮気味に話しかけるのだったが……。


「キャアァァァァーっ!」


 アンヌは、予想外の反応を示した。


 小刻みに震えるハシバミ色の瞳を大きく見開き、絹を切り裂くような甲高い悲鳴を夕闇に響かせたのである。


 アンヌ? どうしたんだいきなり? 何か怖い目にでもあったのか?


 驚いたリュカは、慌ててアンヌに詰め寄ると心配して彼女を問い質す。


 しかし、その声は彼女の耳に


「ワォオオオオーン…!」


 という狼の咆哮にしか聞こえなかった。


「い、イヤぁーっ! こ、こっち来ないでぇぇぇーっ!」


 激しく吠えながら今にも飛びかかろうとしている狼に、アンヌは後退りしながら涙目でさらなる悲鳴をあげる。


 アンヌ? ……ああ、そうか。そういや俺、狼の姿になってたんだっけか……落ち着けアンヌ! 俺だ! 兄ちゃんだ! リュカ兄ちゃんがおまえを迎えに戻って来たんだよ!


 そこで、妹への心配からすっかり忘れていた己の容姿のことを思い出したリュカは、彼女を安心させるために一生懸命、自分が兄であることをわからせようとする……。


 だが、それはアンヌを含めた人間にとって、さらに激しくガウガウ…と狼が吠えかかっているようにしか聞こえない。


「だ、誰かぁぁぁぁーっ! お、お兄ちゃぁあああーん!」


「ワォオ! ワォオオーン…!(アンヌ、だから俺だって! 兄ちゃんはここにいるぞ!)」


 自分だとわからせようと懸命に吠えるリュカであるが、それはますます逆効果である。


「いったいなんの騒ぎ…ひっ! お、狼だあっ! 狼がでたぞおぉぉぉーっ!」


「……キャァァァーっ! 狼よお! 狼がアンヌを襲ってるわっ!」


 そうこうする内に、教会の中からは騒ぎを聞きつけた村人達がわらわらと顔を出し、巨大な狼の姿を見てやはり大きな悲鳴をあげる。


 聖人の日か何かなのか? どうやら小規模な祭礼があり、信心深い幾人かの村人達は夕刻の祈祷に参加するため、教会に集まっていたらしい。


「悪魔だ! きっと悪魔が姿を変えて信仰を邪魔しに来たに違いない!」


 その中には当然のことながらあのジャッコフもいて、いつもながらに狂気じみた台詞を叫んでいる。


「皆、どうしたんじゃ? ……あっ、おまえは!」


 また、村人達の後から遅れてジャンポール神父も現れ、その狼を見て驚きの表情を見せる。


 ただし、唯一彼だけはそれがリュカであることにすぐ気づいたが、それを口に出すことはあえてしなかった。


 他の村人に知られることは特に問題ない…というか、ピエーラが言っていたようによい異端者への見せしめとなるであろうが、まだ幼いアンヌに兄が狼になってしまったなどと真実を伝えることは大変酷である。


「あ、アンヌから離れろ!」


「どっか行け! この狼めっ!」


 狼に襲われている幼い女の子を前に、善良な村人達は恐怖に震えながらも近くの石を拾い、男も女も関係なく、アンヌを助けようとそれをリュカの方へ向かって投げつける。


 ……チっ…邪魔すんじゃねえ! てめえら、調子乗ってると噛み殺すぞ!


「ガルル……」


 だが、狼の驚異的な身体能力を得ているリュカはその石もなんなく飛び跳ねて避け、涎塗れの鋭い牙を見せつけると、村人達の方へ向けて威嚇の唸り声をあげる。


 アンヌ、こっちへ来い! 兄ちゃんと一緒にこんな村出よう! あっ! アンヌ……?


 そして、また「ワォオオン!」としか聞こえない声でアンヌに語りかけるが、石を避けるためにわずか離れた隙に、彼女は慌てて駆け出して、神父の背後に隠れてしまった。


 アンヌ……俺が兄ちゃんだってわからないのか……?


 神父の腰にぎゅっと抱きつき、その背後から恐怖に怯えた眼差しを向ける青褪めた妹の顔を見た時、リュカは初めて愕然とした……。


 そして、今さらながらではあるが、自分が狼になってしまったことの意味を本当に理解した。


 この姿では、妹にも誰にも自分が自分であるとわかってもらえないし、もうアンヌと一緒に暮らすことはかなわないのだ……。


 ……痛っ!


 そのショックに思わず立ち尽くしてしまったリュカの頭に、村人の投げた石が偶然、当たった。


「ひ、怯んだぞ! み、みんなもっと石を投げろ!」


 ……痛っ! く、クソっ! やめろ! てめえら!


 それを見て、勇気づけられた村人達はさらに石を投げ続け、その一つがまたしてもリュカに当たり、堪らず彼は後退りをはじめる。


 ……クソっ! 悔しいが、このまんまじゃ埒があかねえ……一旦出直しだ……アンヌ、もうしばらく待っていてくれ。兄ちゃん、ぜったい人間の姿に戻って帰ってくるからな!


「グルルル……ワォオオオオーン…!」


 なおも降り続く石飛礫いしつぶてに距離をとったリュカは、恐怖に震え上がる妹を琥珀色アンバーの瞳でじっと見つめ、悲壮感漂う遠吠えを残すと踵を返してその場を走り去った。


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