雨上がりの少女

もしも忘れてしまっても

 アリサは自室のベッドの上で目が覚めました。

 布団を跳ねのけて跳び起きたアリサは寝汗で全身ぐっしょりでしたが、そんなことは気にならず、真っ先にいままで見ていた夢を思い返します。とても長くて、内容の濃い、そして大切な夢でした。

 しかし、その感覚を言葉にする前に、どんどん忘れていっているのがわかります。場面ごとの心象が浮かんでは消え、具体的な記憶が失われていくのです。

——お願い、消えていかないで!

 アリサはそう願いながら、なんとか少しでも形にできないかと思いました。そして、空で姉と虹の楽器を弾いたことを思い出して、部屋の隅のピアノに慌てて向かいます。途中で机の上の本やハンガーラックを倒しましたが、構う余裕もありません。

 アリサは十年ぶりにピアノの前に座りました。蓋を開けると白と黒の鍵盤が姿を現し、十年前と変わらないまま一列に並んでいます。

 アリサは鍵盤を叩き、夢で弾いたあの曲を再現しようと試みました。しかし、どこを鳴らしても曲はおろか、音色の一つすら思い出せません。

 これじゃない、これでもない——胸の中にはあの素晴らしい旋律を聞いた感動が確かにあるのに、どうしても音そのものが思い出せないのです。やがて夢の記憶はしぼんでいって、どんな曲だったのかまったくわからなくなってしまいます。アリサは意地になり、やたらめったらに鳴らしますが、どれだけ鍵盤を叩いても、不格好なものにしかなりません。

 アリサはとうとう顔を突っ伏し、声をあげて泣き出しました。とても大切なものなのに、絶対に忘れたくないはずのに、それでも記憶から失われていくことが、悔しくてしょうがないのです。

 泣くことしかできない自分が情けなくて、どうしようもなく嗚咽が胸からこみ上げてきます。そしてそれすらもうまく吐き出せず、涙と一緒に溶けていくのを待つしかないのが、ただひたすらに歯がゆいのです。

 それでもどうにか少しだけでも、この愛おしさを残したくて、アリサは感情を追いかけます。心に深く刻むように、繰り返し想いを反芻はんすうします。

 寝間着の袖がもうすっかり濡れてしまったとき、部屋の入り口から母が声をかけてきました。

「……大丈夫?」

 夢中で弾いていたせいか、母がいつからそこにいたのか、アリサは全然気がつきませんでした。

「帰ってきたら、ピアノが聞こえてきたからびっくりしたわ。どうしたの?」

「別に、ちょっと夢を見て……」

「そう。怖い夢?」

 母の問いに、アリサは首を横に振ります。要領を得ないといった表情の母ですが、問い詰めることもありませんでした。

「けど、本当に驚いたわ。もうピアノは弾かないと思ってたから」

「……私も思ってなかった」

 アリサは目の前の、黒と白の配列を眺めます。もう二度と見ることもないだろうと思っていた鍵盤ですが、案外悪くないな、と思えたのが不思議でした。

「ご飯、これから作るから。体調は大丈夫?」

「うん。お父さんは?」

「ゴルフの店に行ってるわ。先に降ろしてもらったの」

「……あのさ」

 キッチンに行こうとする母を呼び止めると、「なに?」と言って振り返ります。

「次の休み……お墓参り行ってくるよ。今日、行けなかったから」

 表情こそ変えないものの、母は驚いているようでした。ほんの少し間を置いて、それから少し微笑みます。

「そう。それは嬉しいわ。きっとお姉ちゃんも喜ぶから」


 母がキッチンに行ってから、アリサは倒した本やハンガーラックを片付けはじめます。そして床に落ちた制服を拾ったとき、スカートのポケットになにか入っていることに気がつきました。

 心当たりがなく、不思議に思いながらポケットに手を入れます。出てきたのは、小さく折りたたまれた紙でした。

 なんだっけ、学校のプリントかな——そんなことを思いながら紙を広げると、そこには銀のインクで、詩のようなものが書かれていました。


夢の終わりと雨上がりとは同じもの

はじけた泡を舞い上げ架けた虹の橋

忘れていても消えることなく巡る巡る

あすの果てにてまた会う日までごきげんよう!


 アリサはその文字を見てなぜだかとても泣きたくなって、嬉しいような悲しいような、感情が溢れるほどに押し寄せてきました。けれども、視界がぼやけた瞬間に銀色の文字は消えてしまい、アリサ自身もどうして真っ白な紙を手に持って涙を零しているのか、すっかり忘れてしまいました。

 しばらく呆然と立っていたアリサでしたが、その紙を捨てる気にはどうしてもなれません。机の一番上の引き出しに、そっと大切にしまいました。そして、雨が上がっていることに気づき、窓を開いて外の景色を眺めます。


 厚い雲は千々にちぎれて幾重にも浮かび、光と影のコントラストを描いていました。金色に輝く夕日は光の帯をいくつも投げかけ、雨に洗われた街を照らします。

「あ、虹」

 夕焼けの空に架かる虹は冗談みたいに鮮やかで、それらはきっと、神様がくれた光景でした。


 汗ばむ身体を撫でる風は、夏草の匂いを連れてきます。

 梅雨も、もうすぐ明けそうです。

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