紳士のオーレ
「……助けてくれてありがとう。ごめんね、みっともなくて」
しばらくして落ち着いたアリサが礼を言うと、少女は「ううん」と言って小さく首を振りました。長くふわふわとした髪の毛が左右に揺れます。
「私、アリサって言うの。あなたの名前は?」
アリサが尋ねると、少女は再び首を振りました。
「……わからないの」
「わからない?」
「気がついたら森にいたの。それで、名前も、おうちも、ぜんぶわすれちゃったの。こわくて、雨がふってるからじっとしていたんだけど、さっきのバケモノがやってきて……にげていたら、お姉ちゃんを見つけたの」
「記憶喪失、ってこと?」
アリサは困惑しましたが、思い当たることもありました。先ほどのクレマチスとの会話の最中、自分もなにか、大切なことを忘れてしまった気がしたのです。
気つけば、少女の眼は涙で潤んでいました。自分のことがなにもわからないなんて、どれほどの不安だろう——アリサは努めて明るく、少女のことを元気づけます。
「とにかく、この森を出ようよ。そうすればきっとなにか思い出すから。思い出せなくても、私がなんとかする。さっきのお礼に。約束する!」
なんの根拠もありませんでしたが、アリサにはそう言うしかありません。みっともないところを見せたとはいえ、歳上の自分がしっかりしなくてはと考えたのです。
「ほら、指切り」
「……うん」
小指を差し出す少女の顔は、少しだけ明るくなりました。
「でも、これからどうしようか」
二人は洞を出て、バケモノが通った跡に立っていました。木々が踏み倒され、大きな道となっています。見通しが良くなった分、雨も直接降り注いでその勢いを増しています。
メモを書いた人物を探す、という考えもありましたが、手がかりはなにもありません。闇雲に森の中を歩くだけで見つかるだろうかと、アリサは不安に思います。
「ねえ、あそこ」
悩むアリサの隣で、少女が遠くを指差します。
「……だれかいる?」
少女が指差した先には、森から突き出てそびえ立つ岩山がありました。その頂上に、黒い傘を差して背中を向ける人影が立っていたのです。
人影はまるでアリサ達の視線に気づいたかのように、傘を後ろに下げました。真っ黒な傘地をアリサ達に向けながら、くるくると回しはじめます。その様子に、アリサ達はなぜだか目が離せません。
傘の動きに見入るアリサの視界が歪み出し、そのまますべての風景が後ろへと走りはじめました。同時にアリサの体を浮遊感が襲い、そのまま一直線に人影へと吸い寄せられます。「ぶつかる!」と思った瞬間、気がつくと岩山の頂上、黒い傘の真後ろに立っていました。
「きゃっ」
一瞬の出来事に驚いたアリサと少女は、その場で尻餅をついてしまいます。
「おや」
悲鳴に気づいて振り返った傘の主は、落ち着いた雰囲気の男性でした。あごには整えられた髭をたくわえており、ハットとスーツ、そして深緑色のコートをまとうその姿は、昔の西洋の紳士然としています。
「これは失敬、どうやら驚かせてしまったね。お嬢さん方、怪我はないかい?」
紳士は手慣れた所作で手を差し出し、二人が立ち上がるのを手伝いました。
「背中に視線を感じて痒かったのだが、思わず引き寄せてしまったらしい」
紳士は笑いながら、アリサが落とした傘を拾い上げます。
「傘は忘れずに差しなさい。この雨は身体に毒だから」
傘を差し出す紳士を見て、アリサはなぜか懐かしい気持ちになりました。その紳士の顔を、どこかで見た気がしたのです。
「あの……おじさん、どこかで会ったことはないですか?」
少女もまた、不思議なものを見ているといった表情で紳士に問いかけました。
「……いや、今日がはじめてさ。こんな素敵なお嬢さん方と知り合っていたなら、忘れるはずはないからね」
紳士はおどけてウィンクします。気取った振る舞いも様になっていて、嫌みを感じさせません。
「それに僕はおじさんじゃない。けれども、自分をお兄さんと言うほど図々しくもないからね。気軽に“オーレ”と呼んでくれたまえ。それより君達、見たところこの国に来たばかりだろう。先ほどのお詫びと歓迎の意を込めて、僕からガムをプレゼントしよう」
オーレが空中で手を振るい、拳を握ります。開かれた手には手品の如くチューインガムが乗っており、二人にそれを手渡しました。
「なんでガムなの?」
「ウェルカム、ってことさ」
アリサは内心呆れ、少女は意味がわからずポカンとしています。オーレは少し気まずそうに、わざとらしく咳払いしてごまかしました。
「それで君達、森の中でなにをしていたんだい? この森は女の子だけのお散歩には、いささか危ないんだがね。“シレナジタート”もうろついてるし」
「シレナジタート?」
アリサは耳慣れない言葉に聞き返します。
「出くわさなかったかい? 赤目と歯抜けのバケモノさ。あいつは年中、雨の国で暴れ回っていてね。いまはこの森を通る時期なのさ」
アリサは先ほどの光景を思い出して、再び身体が震えてきました。得も言われぬ不安感が、心に沸き上がってきます。
「お姉ちゃん」
少女の呼びかけに、アリサは我に返りました。不安そうに見上げる少女の頭を、アリサは優しく撫でます。
「ありがとう。大丈夫」
「……まあ、雨の国は広いからね。会おうと思って会いに行かなければ、会わないさ」
アリサの異様な怯え方を見てか、オーレも言葉を付け加えます。
「シレナジタートがあそこまで大きくなったのも、すべてこの雨が原因だ。この国は雨の国と呼ばれているけれど、本当はもっと明るくて楽しい場所のはずなんだ。けれども、もう十年以上、都の女王が雨を降らせ続けている」
「なんで雨をふらせているんですか?」
少女の問いに、オーレは「わからない」と返します。
「なにか事情があるのかもしれないけれど、女王は城から出てこないんだ。だから、その胸の内はだれも知らない」
オーレは森の向こう、遥か遠くに視線を移しました。しかし、どこまで見渡しても灰色の光景しかありません。
「そうだ」
アリサはポケットから、銀文字の詩が書かれた紙を取り出します。
「私達、いつの間にかこの森にいて……このメモだけが手がかりなんだけど、なにか知らない?」
オーレは紙を広げて、あご髭を撫でながら「フム、フム、フム」と呟きます。
「残念ながら、心当たりはないね。ただ、この詩は中々に面白い。この国のことを良く言い表しているよ」
「本当に、なにも知らない?」
念押しするアリサに、オーレは苦笑します。
「疑り深いな。本当だよ……メモについては知らないけど、この国から出る方法は知ってるよ」
「方法って?」
「都に行って、女王に
その言葉に、アリサは希望よりも不安の方が強くなりました。こんな雨を降らせ続けているという女王が、まともな人のはずがないと思ったからです。
それでも、なんのあてもない中でたった一つの情報です。アリサは続けて「都まではどうやって行けば良い?」と尋ねます。
「道なき道を、心の赴くままに行くのさ」
「……ふざけてるの?」
アリサはオーレを睨みつけますが、当の本人は平気な顔です。
「ふざけてなんかないさ。けれど……確かに目的地は見えていた方が良いかもね。現状だと」
オーレは一人で納得して、岩山の先端へと歩きます。崖の縁に足をかけると、傘を開いたまま脇に構えて、果てしなく広がる雲海を見据えました。
「お嬢さん方、危ないから離れておいで。この国の本当の姿を、少しだけお見せしよう」
言うや否や、オーレは構えていた傘を振り抜きました。傘がひっくり返ると同時に、強烈な突風が岩山の上に吹き荒れます。アリサは突然のことに驚きながらも、吹き飛ばされそうになった少女を慌てて抱き留めました。
「さあご覧、これがこの国の本当の姿だ!」
灰色の雲は突風に切り裂かれ、真っ二つになりました。雲が作る巨大な谷間に青空が一直線に伸びていて、陽光で照らされた草原は青々と輝きながら風の
あそこが女王のいる都だ——アリサは直感で理解します。
「この晴れ間は一瞬だ。女王に会ったら、雨を止めるように伝えておくれ!」
オーレは叫びながら飛び立ちました。傘を使って風に乗り、遥か遠くへと消え去ります。オーレが見えなくなる頃には雲の割れ目も元に戻り、再び一面、灰色の光景になっていました。
その後、アリサと少女は岩山を降りて森へ戻りました。「勝手に引き寄せといて、放置ってどういうこと」などとアリサが不平を漏らす一方、少女は黙々としています。
シレナジタートが通った跡の道に戻り、アリサは今後の方針を話します。
「この道を辿れば、森を出られると思うんだよね」
先ほどオーレが言った、シレナジタートは国中を荒らし回っているという話が本当ならば、その跡を辿れば都にも行けると考えたのです。わずかな情報しかない現状では、これが最善だと思われました。
「また会いたくないから、行くのは逆方向だけど。とりあえずそれで良いでしょ?」
アリサは同意を得るために問いかけますが、少女は別のことが気になるようです。森の奥、木々の向こうをじっと見つめて動きません。
「どうしたの?」
「あっちから、なにか聞こえるよ」
少女に言われ、アリサも耳を澄まします。確かに茂みの奥から、かすかになにか聞こえてきます。はっきりとはわかりませんが、少なくともシレナジタートのサイレンにあった不快感はありません。
少女の様子に、アリサは悩みました。またなにか変なものに出会う可能性を考えれば、
しかし、オーレの言葉が、ふと脳裏をよぎります。
——道なき道を、心の赴くままに。
アリサは小さく笑いました。
「よし、行ってみようか」
「いいの?」
少女が少し驚いた表情でアリサを見ます。
「気になるんでしょ? じゃあしょうがないじゃん。っていうか、私も気になるし」
「……うん!」
少女は嬉しそうに、茂みの中に入ろうとします。そのためらいのなさはいかにも子供らしく、危なっかしく見えました。
「ほら、気をつけて——」
少女を呼び止めようとするアリサでしたが、一瞬、言葉に詰まりました。
「どうしたの?」
不思議そうな目で見る少女に、アリサはためらいながらも呟きます。
「……ハレ」
「ハレ?」
「そう、ハレ。あなたの名前。っていうかあだ名? ほら、名前がわからないと不便じゃん。ここ、雨ばっかだし、さっきの見て思いついたんだけど……」
安直過ぎたかな、とアリサは思いましたが、少女は満面の笑みを浮かべます。
「ハレ。うん、いい名前。わたし、ハレ!」
ハレは飛び跳ねながら、新しい名前をなんども繰り返し口にしました。思っていたよりも気に入ってもらえて、アリサも内心、悪い気はしません。
「それじゃあ、行こうか。ハレ」
「うん!」
二人は手を繋ぎ、一本の傘の下で寄り添うように歩きます。
アリサとハレの冒険は、はじまったばかりです。
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