第二章 雨の国の不思議な森
もう一人の少女
雨は生い茂る木々にもかまわず、森を湿らせておりました。
草木はその身に受けた雨粒を、葉から葉、枝から枝へと受け渡し、葉先をしならせ滑らせて、薄暗い森の中へ落とします。
アリサの頬を打ったのも、そんな雫の一粒でした。
「んん……」
目が覚めた後も、アリサはしばらくぼんやりとしていました。ぐっすり眠った後の気怠さで、状況の把握に時間がかかります。
見渡す限りの木々の数に、深い森の中にいるということはわかりました。頭上には枝がいくつも重なって屋根になり、アリサを雨から守っています。
「なにこれ、あったかい」
アリサが眠っていたのは、柔らかい苔の塊の上でした。ほんのりと暖かく、手のひらで撫でると滑らかな感触です。よく見ると、かすかに優しい光を発していました。
その心地良さにもう一度眠りたくなるほどでしたが、「流石にのんびり過ぎるな」と思い直します。睡魔の誘惑を断ち切って、赤ん坊みたいにうなりながら起き上がります。ただし、なるべくゆっくりと。
「さて、どうしようか」
だれに言うでもなくアリサは呟きます。改めて周囲を見回すと、森に似つかわしくないものが視界に入りました。学校のセーラー服と傘が、木にかかっていたのです。
傘は先ほど見たものに似ていましたが、きめ細やかな模様はありませんでした。まばゆいほどの輝きも失って、どこをどうみても普通の傘です。
「え、これ私のじゃん」
セーラー服はアリサ自身のものでした。丁寧にハンガーに吊るされており、靴や靴下まで側に置いてあります。不審に思いつつも制服を手に取ると、その下に一枚の貼り紙がありました。貼り紙には、銀色の文字で詩が書かれています。
ここは雨の国 女王のじょうろは
降る雨はすべてをふいにして 悔いることも不意ではなくなる
あちこちで狂う歯車の噛み合わせ 歩くなら傘は忘れずに!
「なにこれ、変なの」
詩の意味こそよくわかりませんでしたが、パジャマ姿でいるよりはよっぽどマシだと、吊るされていたセーラー服に着替えることにしました。貼り紙はなんとなく捨てられず、そっとはがしてスカートのポケットにしまいます。
身支度を整えたアリサは傘を差し、森の中をあてもなく歩きはじめました。
森に生えている植物は、どれも見たことのないものばかりです。捻れたタコみたいな木、半透明でラッパ型のサボテン、アリサの背丈の倍はある巨大なキノコ。そよぐたびに弦楽器の音を鳴らすシダ植物や、雨粒に打たれて太鼓の音を鳴らす丸い葉っぱなど、奇妙なものばかりです。
木々の隙間から降る雨粒の音を聞きながら、アリサはだんだんと不安になってきます。
——やっぱりさっきの場所にいた方が良かったかな。でも、あの詩といい、傘と制服といい、なんだか外を歩くように言われてる気がするし……。
そんなことを考えながら、アリサは同時に腹が立ってきました。なぜ自分がどこの誰ともわからない、顔も知らない人の言うことを聞かなければならないのか。だいたい、ここはどこなんだろう。どこか外国にでも誘拐されたのだろうか。だとしたら、いったいだれが、どうやって?
アリサは、まだ会ってもいない『だれか』に対する怒りを募らせていきました。あるいはそうやって感情を奮い起たせなければ、不安に押し潰されそうだったのかもしれません。
そんなふうに頭をカッカッさせて歩いていると、頭上から「ちょっと、あなた!」という甲高い声が聞こえてきました。
「ドレスの裾を踏んどいて、素通りするつもり!」
アリサを叱りつけたのは、大きなクレマチスの花でした。複雑に絡み合う
「ごめんなさい、考えごとをしていたから」
「ふん。そんな小さな頭じゃ、大したことも考えられないでしょうに」
その言い草に、アリサは少し苛立ちます。
「謝っているのに、その言い方はないんじゃないの?」
「謝ってすむのは子供のうちだけ」
あまりにもきっぱり言い返されて、アリサは少したじろいでしまいました。
「でも、そっちも大人げない……」
「あら、あなた、アタシを大人だと思うのね。あなたいくつ? アタシはまだ生えてきて十年だけど、アタシの方が年上かしら? なんでアタシを年上だと思ったの? 話し方? 見た目? まあ、人の子と比べて植物の方が賢いから、そう思うのも仕方がないけど」
クレマチスは花弁を揺らしてまくし立て、その勢いにアリサはすっかり
「……なんで植物の方が人間より頭が良いの?」
「頭が良いなんて言ってないわ。賢いと言ったのよ」
「同じじゃない」
「全然違うわよ。本当に人間は頭でっかちね」
花は得意げに胸を反らせます。
「いい? アタシ達植物はね、全身でものを考えているの。あなた達が平気で踏みつけちゃう草や、ちょんぎっちゃう花はもちろん、茎や根っこ、産毛の一つ一つに至るまで、それぞれが色んなことを考えているんだから。風の強さや虫のさざめき、土の柔らかさに太陽の高さ。それらを感じて、なにをどうすればより大きくなれるか、仲間を増やせるか、一生懸命判断してるの。アタシ達からしたら、人間なんて思考を放棄してるも同然よ。頭だけで考えるなんて、考えることをサボり過ぎ」
「でも私、話せる花なんてはじめて見たし。あなたが特別なんじゃない?」
「アタシだって人と話すのははじめてよ」
「そうなの?」
それなのにずいぶん悪く言ってくれたなと、アリサは呆れてしまいます。
「だって、この森の中を歩いてる人間なんてはじめて見たもの。あなた、なにしてるの?」
「私もわからないんだけど……知らないうちに森で眠っていて。ここはいったいどこなの? 雨の国、っていったいどこ?」
「雨の国!」
クレマチスが怒り心頭と言った具合で叫びます。
「ここは確かに雨の国って呼ばれているわ。けれどもそんなの、
「花にとっては、雨が降るのは良いことじゃないの?」
「限度ってものがあるわ! こんなにずっと降り続いたら、変なカビが生えてくるし。なにより根腐れを起こしちゃう」
アリサは昔、家で育てていた朝顔に水をかけ過ぎないよう言われたことを思い出しました。そして、同時に気がつきます。そのときの他の事柄——場所はベランダで、季節は夏で。そう、照りつける太陽と、蝉の鳴き声が聞こえてきて——そういった情景は覚えているのに、水のやり過ぎを注意してきたのがだれだったのか、まったく思い出せないのです。記憶の映像が上手くつながらず、ぽっかりと穴が空いた感覚です。
「やつが来たわ」
クレマチスの声に、アリサはハッとしました。見上げると、薄紫の花弁がいまにもしおれそうになっています。先ほどまでの尊大な態度はどこへやら、とても弱々しい様子です。
「やつって?」
「“歯抜けと赤目のバケモノ”よ。叫び声が聞こえるわ」
クレマチスは声を震わせながら、蔓のドレスをほどいていきます。
「あなたも早く隠れなさい。見つかったら命はないから。ああ、恐ろしい恐ろしい」
そんな忠告を言い残して、クレマチスは森の奥へと消えました。
それまで雨音が聞こえるだけだった森が、にわかに騒ぎはじめます。遠くからサイレンの音が聞こえてきて、その音色はいやに不安を煽られるものでした。地響きが起こり、木々や草花が揺さぶられ、茂みから蜘蛛が飛び出します。
その蜘蛛の姿を見て、アリサは思わず悲鳴を上げました。毒々しい体色をした蜘蛛の形は、どう見ても人の手そのものだったのです。
手の形の蜘蛛は次々に飛び出して、何十、何百もの群れがアリサの足元を駆け巡ります。
「ヤダ、ヤダ、ヤダ!」
アリサは真っ青になって逃げ回り、近くの木にしがみつきます。その間にもサイレンは少しずつ近づいてきて、音が大きくなるほどにアリサの不快感は強まりました。巨大ななにかが、こちらに近づいてきています。
早く逃げなければと思うアリサですが、サイレンの音を聞くとなぜだか体が動きません。
——怖い、怖い、怖い!
足がすくみ、泣きそうになるアリサ。もう駄目だ、と思ったそのときです。小さな手が、アリサの腕をつかみました。
「こっち!」
アリサの腕をつかんだのは、青いワンピースを着た栗毛の小さな女の子でした。とっさのことでしたが、アリサはもう無我夢中です。迷わずその手をとると、不思議と体に力が戻り、駆ける少女と一緒に走れるようになりました。
「隠れなきゃ。あいつに見つかっちゃう!」
少女の年齢は見たところ七、八歳くらいですが、見た目にそぐわない力強さでアリサをひっぱります。二人は辺りでも一際大きな巨木に向かい、その根元の
洞の中に入った二人はほんの少しだけ顔を出し、慎重に外の様子をうかがいます。
森の中を、くすんだ白い巨体が木々を踏み倒して進んでいました。むき出しの四角い歯はところどころ抜けており、その奥の真っ黒な口内からサイレンの吠え声が轟きます。赤く光る目玉はまるでなにかを探すかのように、辺りを照らし回っていました。
それを見たアリサはたまらなくなって、洞の奥へと引っ込みます。バケモノの姿に、眼に、声に、アリサの心はどうしようもなく掻き乱されるのです。急激に寒けがして、体の震えが止まりません。
自分でも異常な怖がり方だと思いましたが、どうすることもできません。膝を痛くなるほどに抱えながら、バケモノが通り過ぎるのをひたすらに耐えて待ちます。
やがてバケモノは遠ざかり、サイレンの吠え声も聞こえなくなりました。森は再び、雨音だけの静けさを取り戻します。
「もう行ったよ」
少女の声に、アリサは応えられません。震えこそ止まりましたが、心がいっぱいいっぱいだったのです。とうとう涙が滲んできて、スカートに顔を埋めながら嗚咽を漏らしてしまいます。
「もうやだぁ……」
一度泣き出すと、もう止められません。バケモノへの恐怖と、知らない土地にいることへの不安が、
スカートに顔を埋めて泣いていると、背中に柔らかな感触が添えられました。
「だいじょうぶだよ。だいじょうぶだから」
少女が小さな手で、アリサの背中を撫で続けます。
こんな小さな子の前で、みっともない——恥ずかしさと情けなさに、アリサはますます顔を上げられません。
けれども小さなその手の感触は、とても心地好く思えました。
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