第一章 雨の日の少女

霧の底へ真っ逆さま

 雨音は、無機質に世界を覆っておりました。


 アリサはベッドの上に寝転がり、外の雨を眺めながらスマホをいじっておりました。朝食もとっくに済ませているのに、未だにパジャマ姿のままです。今日はもう一日、とことん怠けてやろうと、アリサは心に決めたのです。

——髪ははねるし、頭もボーッとするし、やっぱり雨の日は嫌いだ。

 このようにアリサはただでさえ雨が苦手でしたが、それに加えて今日は特別、年に一度の憂鬱な日です。

「アリサ、入るわよ」

 母の声とノックの音に、アリサは慌ててスマホを隠しました。見つかってまずいということもありませんが、なるべく辛そうに見せたかったのです。

「具合はどう?」

「……頭が痛い」

 嘘は言っていません。寝込むほどではないけれど、という言葉は呑み込みましたけど。

「やっぱり、病院に行く?」

「寝たら大丈夫だから」

 ほんの一瞬、気まずい沈黙が生まれました。母の視線が、布団越しにちくちくと刺さります。

「……お昼は帰ってきてからになるから、お腹がすいたら昨日の残りを食べなさい。ご飯も冷凍のが残ってるから。それから——」

「わかったから早く行きなって。お父さん、下で待ってるんでしょ」

 アリサは少し苛立ちながら、語気を強めて答えました。

「ちゃんと休みなさいよ。スマホばかり見てたら駄目だからね」

「だから、わかったってば!」

 アリサは母の言葉を遮るように、布団に潜り込みました。

「なにかあったら電話しなさいよ」


 ちょっと強く言い過ぎたかもしれない——母が出かけてからアリサは少し後悔しました。ベッドから這い出て、窓から外を見下ろします。

 降る雨は街を灰色に染めて、静けさで満たしていました。しばらくすると、駐車場から父の車が出てきます。

 車が仄暗い街を走り去るまで、アリサはじっと見送りました。それから鼻を鳴らしてベッドに身を投げ、部屋の隅にあるピアノを眺めます。

 アリサには、幼い頃に亡くなった姉がいました。ちょうど梅雨の季節に亡くなったので、アリサの家では毎年この時期、雨の中を墓参りに行くのが恒例なのです。

——動物だって雨の日は巣に引きこもるんだから、人間だって同じだよ。

 巣の中で身を寄せ合う動物達を想像して、アリサは一人で笑います。

——濡れるし冷えるし、雨の日にわざわざ出かけたくないから。

 アリサはこの梅雨、はじめて墓参りをさぼりました。そもそもアリサは、姉との思い出もおぼろげなのです。ですから毎年の墓参りも、両親に付き合って仕方なく、という感覚でした。

 とはいえ嘘をつくというのは、やはり気分が悪いものです。アリサはその罪悪感を押し潰そうと、布団を顔までかぶります。また、意味もなくうなったり、寝返りを打ってみたりもしましたが、それでも気は紛れません。再びスマホを取り出しますが、インスタもツイッターもティックトックもユーチューブも、目新しいものはなに一つありません。友達に送ったラインも、既読すらついていませんでした。

——退屈、退屈、退屈!

 やがてスマホも投げ出して、ぼんやりと雨空を眺めます。

「天気が良ければ外に遊びに行くのにな」とか「晴れてたらお墓参りの方に行ってるか」とか「やっぱり雨の日はつまらないな!」など、とりとめのないことを考えます。しかし、そんな考えの種もやがて尽きて、アリサは再びまどろみへと落ちていきました。


 ふと、アリサの頬に冷たい風が当たります。気のせいかとも思いましたが、雨が降ったときのあの濡れた土草の匂いも一緒に薫りましたので、母が扉を閉め忘れたのかもしれないと考えました。

 確かめに行こうと立ち上がると、視界がふらつく奇妙な感覚に襲われます。立ちくらみにも似た感覚で、足元もおぼつきません。

 本当に風邪を引いちゃったかな——そんなことを考えながら、なんとか玄関まで辿り着きます。思った通り扉は開いていて、風もそこから吹き込んでいました。

——危ないなぁ、お母さんたら。いつも自分が怒るくせに。

 呆れながら扉を閉めようとするアリサですが、その先に広がる光景が視界に入ったとき、思わず手を止めてしまいました。マンション中が、見たこともないほど真っ白な霧に包まれていたのです。

「なにこれ……」

 玄関を出て、辺りを見渡しますと、通路はすっかり霧に埋め尽くされていました。数メートル先ですら、もう完全に見えません。

 アリサは通路の端に寄って、マンションの中央にある吹き抜けを見下ろしました。下の方は霧が一層濃くなって、ときおり銀色の光が小さく瞬くのが見えました。まるでマンション全体が、純銀製の糸を織り込んだ雲の中にいるようです。

 幻想的な光景に見入ってしまったアリサの前に、さらに不思議なことが起こりました。吹き抜けの上の方から、一本の傘が降ってきたのです。

 傘は開かれた状態で、風に揺られてゆっくりと落ちてきました。傘地には美しくきめ細やかな模様が描かれており、まばゆいばかりに鮮やかな虹の光を放っています。

 銀に瞬く真っ白な霧と、虹の傘。この光景に見惚れてしまったアリサは、ほんの少しだけ身を乗り出します。

 けれども、手すりに手をかけた瞬間でした。柵が頼りなく折れ曲がり、大きくひしゃげてしまいます。

「え」

 吹き抜けに投げ出されるアリサですが、予想外の出来事に成す術もありません。


 アリサは宙を落ちながら、心臓がぎゅっと縮まるのを感じました。落下速度よりも更に速く、様々なことが頭の中で駆け抜けます。

 家族のこと、友達のこと、進路のこと。気になる漫画の続きに、夏休みの旅行の予定など。


 アリサは深い霧の底へ、まっ逆さまに落ちていきます。

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