メメント座
その映画館の壁には窓が一つもなく、タイルが隙間なく敷き詰められていました。代わりに扉は透明なガラス製で、そこからはオレンジ色の淡い明かりが漏れています。
アリサが扉を開けると、その先はとても小さなエントランスでした。床は赤張りの絨毯で、木造の壁にはおびただしい数の映画のポスターが張られています。
正面のカウンターに、赤毛の女性が座っていました。アリサが入ってきても、新聞を読みながら身じろぎ一つありません。つり上がった目や表情もなんだか不機嫌そうで、アリサは恐る恐る声をかけました。
「あの、ここの人ですか?」
カウンターの女性は聞こえないのか、なんの反応も返ってきません。新聞をめくる動きで、どうやら人形ではないとわかるくらいです。
「あの、私、女の子を探しているんですけど。ハレっていう小さい……」
尚も女性の反応がないので、アリサもつい声が小さくなっていきました。居心地の悪い時間が数瞬過ぎた後、女性はようやく「ちっ」と舌打ちを鳴らします。
「おい、てめぇの客だろ。黙ってないでなんとかしろよ」
女性は乱暴な言い方で、エントランスから横に伸びる廊下に声を投げかけました。その先には、アリサも見知った紳士が立っています。
「オーレ。どうしてここに」
アリサが駆け寄ると、オーレは険しい顔をしています。突然、アリサの肩をつかんで詰め寄りました。
「な、なに?」
アリサの声に、戸惑いと気恥ずかしさが入り混じります。
「アリサ、君のご両親の名前は言えるかい?」
オーレの問いにアリサはどきりとしました。
「……ううん」
「仲の良い友達は? 学校の名前は? 好きな芸能人は?」
オーレの矢継ぎ早の質問に、アリサは首を横に振り続けました。一通り聞き終わったオーレは通路のソファに腰かけて、うなだれながらため息をつきます。
「すまない。僕のせいだ」
オーレの謝罪が、なにを意味するのかアリサにはわかりません。
「ねぇ、全然わからないんだけど」
「夢の見過ぎだ。現実がぼやけてきてる」
さっぱり意味のわからないアリサでしたが、それでも感じるものがありました。
「ねぇ、やっぱりあのメモを残したのはオーレなんでしょう? 私をここに連れてきたのもオーレで、それに関係する話でしょ?」
オーレはばつが悪そうにしながら、しばらく沈黙を続けます。そして、観念したように口を開いて「そうだよ」と答えました。
「君を雨の国に連れてきたのは、僕だ」
オーレは認めましたが、当然、それだけではアリサの気は収まりません。
「なんでそんなことをするのよ。私を雨の国に連れてきた理由は? ハレはどこに行ったの? どうやったら帰れるの?」
今度はアリサが質問を投げつけます。オーレは再び立ち上がり、まっすぐにアリサを見つめました。
「その質問に答える前に、君は思い出さなければいけない」
「なにを?」
「なにもかもさ。トゥーフィー、頼む」
トゥーフィーと呼ばれた赤毛の女性は、面倒くさそうに新聞から顔を上げました。
「最初っから、ウチでやってりゃ良かったんじゃねぇか?」
「……最初からやってしまえば越権行為だ。」
「いまさらだと思うがね」
「いまだからさ」
トゥーフィーは「まぁ、別に良いけどよ」と言いながら立ち上がり、カウンターから出てきました。
「おら、こっち来な」
「私?」
手招きされたアリサはおずおずとトゥーフィーに歩み寄ります。
「後ろ向け」
アリサが言われた通りにすると、いきなり後頭部に衝撃が走りました。あまりの力の強さに、アリサは思わず前につんのめります。
「ちょっと、なんで殴るのよ!」
「殴ったんじゃねぇ、抜き取ったんだ」
見ると、トゥーフィーの手には映画で使うようなフィルムが握られていました。たんこぶができていないかと頭をさするアリサをよそに、彼女はフィルムを検査します。
「ひでぇなこりゃ。これじゃ完璧にはかけられねぇぜ」
「できる範囲で良いさ。それとも無理かい?」
「……まあ、きっかけには充分だろ。さっさと座ってな」
トゥーフィーはフィルムを持って、『関係者以外立チ入リ禁止』と書かれた部屋に入っていきました。
「さぁ、僕らはこっちだ」
アリサはオーレに促されるまま、上映室へと入っていきます。
上映室は小ぢんまりとしておりましたが、ところどころにある装飾やスクリーン回りの幕が上品な雰囲気を作り出し、ここが歴史ある映画館だということがうかがえました。
アリサとオーレは、エントランスの床と同じ赤張りの客席に座ります。
「これから君に観てもらうのは、君の記憶だ。この国で……いや、それ以前から失くしていた記憶だよ」
「私の記憶?」
「この国で、なにかを忘れたような感覚はなかったかい? 僕がさっき聞いたのとは別のことで」
アリサはこれまでの旅でときおり感じた、不思議な違和感を思い出しました。
「あったわ。なにかを忘れてしまったような感覚が。心に穴が開いたみたいな感覚が」
「実際には、それは忘れたんじゃない。忘れていたことを思い出していたんだ」
「どういうこと?」
「本当は、そのまますべてを思い出せれば良かったんだけど。でも、僕が思っていた以上に、君は心を閉ざしていたんだね」
「ねぇ、さっきからなにを言っているの?」
「しっ、はじまるよ」
やがて客席の明かりは落ちて、室内は真っ暗になりました。そして正面のスクリーンに、かすれた映像が映し出されます。アリサは質問するのをあきらめて、大人しくスクリーンの方に向き直りました。
古びて掠れたその映像は、どこか懐かしい感じがしました。
■□■□■□■□■
昔々、あるところに二人の姉妹がおりました。
姉妹はとても仲が良く、妹はいつも姉の後ろについて回ります。姉が外で駆け回れば妹もそれを追いかけ泥だらけ。姉が海でカモメに餌をやればおっかなびっくり手を伸ばす。姉が朝顔の世話をしていれば同じように水をやりたいとせがみます。そんな妹を、姉はいつも笑顔で引っ張っておりました。
姉はピアノを習っており、母親は熱心に練習をさせておりました。姉もピアノが大好きでしたので、あっという間に上達していきます。姉妹の家には、毎日ピアノの美しい音が流れます。
当然、妹もピアノを弾きたいとせがみます。しかしまだ小さかったので、姉の練習を優先したい母親はいつも言います。
「あなたは大きくなってから」
妹がどれほど泣いてねだろうが、母親はピアノに触らせてくれません。泣きつかれて不貞腐れるのが、妹の日課になりました。
ある日、母親が外に出かけているときです。姉が妹に手招きします。
「こっちにおいで。一緒にピアノ弾こうよ」
妹は喜んで駆け寄りました。姉はこっそり持ち出した鍵を差し込み、ピアノの蓋を開きます。規則的に並ぶ白と黒の鍵盤が、妹には色鉛筆と同じくらい魅力的に見えました。
二人は仲良くピアノを弾きます。指の小さな妹はただ音を一つずつ鳴らすだけでしたが、それでも姉妹にはとても楽しい時間でした。
「もう少し大きくなったら、二人で一緒に演奏しようね」
姉妹は指切りをして約束します。妹はその日が来ることを、とても楽しみに思いました。
しばらくして、姉がピアノの発表会に出ることになりました。姉は毎日たくさん練習をして、いよいよその日を迎えます。
妹は母親と一緒に、客席で演奏を聴いていました。おろしたての青いドレスを着て、栗色の髪を揺らし、姉はピアノに向かいます。ステージの中央で演奏する姉の姿はとても美しく、見惚れるほどでありました。
——いつか自分もあんなふうに、姉と同じステージで。
妹はそんなことを夢見ながら、お辞儀をする姉に拍手を送ります。
それが最後に見た、姉の生きている姿でした。
なぜそうなったかはわかりません。あれは事故だったと言われた気がしますし、後からだれかに詳しく聞くことも出来たはずです。しかし、そんなことはどうでも良いことでした。
確かなのは、雨の中を走り去る救急車を見たことと、その日を境に姉がいなくなったことだけでした。
それから妹の生活にも変化がありました。母親が、今度は妹にピアノを習わせるようになったのです。
母親の指導はとても厳しいものでした。妹はついていくのもやっとで、楽しむ余裕もありません。
——姉も一緒だったなら。
そんなことを考えながら、毎日言われた通りにピアノに向かって練習します。
毎日、毎日、毎日、毎日。積まれる楽譜。響く不協和音。
あんなに憧れていた鍵盤は、白と黒の羅列にしか見えません。
思い通りに弾けないことに苛立つ妹と、思い通りに弾かないことに苛立つ母親。親子の関係は気づかぬうちに噛み合わなくなっていきました。
ある日妹は、とうとう練習を投げ出します。叱る母親に、妹は泣きながら言いました。
「私はお姉ちゃんの代わりじゃない!」
その言葉を聞いたときの母親は、ただ一言、「そう」と言うだけでした。更に叱られると思っていた妹は拍子抜けでしたが、それ以来母親がピアノについてなにかを言うことはなくなりました。
ピアノはいまでも部屋の隅に置いてあります。けれどもその蓋が開かれることは二度とありませんでした。やがて長い時間の中で、妹は色んなことを忘れていきます。
ピアノの弾き方も、そして姉との約束も——
■□■□■□■□■
「……なんなのよ、これ」
明かりが灯る客席に最初に響いたのは、アリサの苛立ちが込められた声でした。
「たしかにこれは私の記憶よ。だけど――」
アリサは、隣のオーレの肩を力なく叩きます。
「なんで、こんなことを思い出させるのよ……」
オーレはアリサの問いに答えず、立ち上がってスクリーン前のステージまで歩きます。ステージの上に立ったオーレは、まるで厳格な教師のようにアリサを正面から見据えました。
「この映像に出ていた、君のお姉さんの名前を言えるかい」
アリサはなにを当たり前のことを、とますます苛立ちました——答えられるに決まってる。だって、ずっと一緒にいたんだから。
「ハレよ。オーレも知っているでしょう」
アリサは確信を持って答えましたが、オーレは首を横に振りました。
「それは君がつけた名前だ。雨の国で出会った少女に」
「だから、それは……」
反論をしようとするアリサでしたが、しかし言葉が出ませんでした。自分の記憶と、オーレの言葉と、いま見せられた映像が、それぞれ噛み合わないのです。あの子の名前はハレ。栗色の髪と青い服の少女。雨の国で出会った私の姉で、記憶喪失で……。
「いまから十年前、この国には雨が降るようになった」
困惑するアリサに構わず、オーレは言葉を続けます。
「君のお姉さんが亡くなってからだ。そのときの君ははじめて触れた死を理解できずに、またする間もなく、やがて君はそれを忘れた」
「……別に、忘れてなんかないし」
「出来事を事実としては覚えていただろう。けれども忘れていたのは気持ちの方だ。悲しみや恐怖などの感情をまとめて、君は無自覚に圧し殺した。そして、それこそが雨の原因だ」
オーレが指を鳴らすと、アリサは一瞬でステージの上に移動していました。
「忘却に追いやられた感情は、しかし消えることはなかった。向き合わなかった感情は雨を降らし、心を腐らせ荒れさせる。そうならないために僕は君を連れて来たんだ」
舞台役者さながらにオーレはアリサの周りを歩いて語ります。未だ戸惑いの中にいたアリサでしたが、それでもだんだんとオーレの話を理解していきました。
——でもその話が本当なら。雨の国は、女王の正体は。
「……だからって、どうすれば良いの? 女王に直接会ったって、なにも変わらなかったじゃない」
「すべての鍵は、お姉さんの名前にある。それこそが君の悲しみの象徴だ。君はそれを取り戻してから、もう一度会うんだ。塔の上で一人ぼっちの、もう一人の君自身に。それができるのは……いや、それをすべきなのは、君しかいない」
オーレはアリサの前でひざまずき、臣下のように礼をします。
「女王よ。どうかこの国を。あなたの半身をお救いください」
アリサの思考は目まぐるしく流れていきました。これまで雨の国で出会った人達が次々と浮かんでは消え、ハレのことも思い浮かべ、そして――
そして、どこか懐かしい、じょうろをもった少女を想います。
聞こえるはずのない雨音が、アリサの中で聞こえました。
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