幽明境を跨ぐ者

死神のオーレ

「……話は終わったか?」

 アリサが一人で上映室を出ると、扉の前でトゥーフィーが待っていました。

「オーレはどうした?」

「後はトゥーフィーに聞け、って」

「ったく、相変わらず回りくどいやつ……」

 トゥーフィーは悪態をつきながら、「こっちだ」と言って歩き出します。『関係者以外立チ入リ禁止』と書かれた扉をくぐると、正面に伸びる通路と、上に向かう階段があります。

「上は映写室だ。お前はこっち。足元に気をつけろよ」

 通路には機材らしきものが雑然と置かれてあり、薄暗さも相まって歩きづらくなっています。トゥーフィーは慣れた様子で先へ進むのに対し、アリサはついていくのに必死です。

「ねぇ、聞いて良い?」

「なんだよ」

「オーレって、何者なの?」

 トゥーフィーはちらりとアリサを振り返ります。

「妖精だよ。眠りの妖精」

「妖精?」

 思いのほか可愛らしい響きの単語に、アリサは思わず聞き返しました。

「子供に夢を見せる妖精さ。良い子には楽しい夢を見せるっていう、ただのお節介野郎だよ」

「じゃあ、ここも私の夢の世界ってこと?」

「そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるな」

 アリサは意味がわからず、「どういうこと?」と聞き返します。

「世界は絶えず、重なったり繋がったりしてるんだ。夢も、あの世も、物語や空想もな。いまお前が見ているものは、有機的な多重世界からお前に関わるところだけを切り抜いたものなのさ」

「ますますわかんないんだけど……」

「……だよなぁ。私もぶっちゃけ良くわからん」

 アリサは茶化されているのかと思って怪訝な顔をしましたが、一方のトゥーフィーは少しはにかんでいるようでした。

「私もただの受け売りだからな」

 これまでの不愛想なものとは違った柔らかい表情を見たアリサは、この人は思っていたより怖い人ではないのかも、と思いました。

「まあ、いまのお前はそんなこと気にする必要ないってこった。自分のするべきことだけ考えな」

 そんなことを話していると、二人は扉の前に着きました。そこはメメント座の裏口にあたるらしく、トゥーフィーが扉を開けた先にはぽっかり沼が広がっています。

「さっきのオーレの話だけど、続きがあってな」

「続き?」

「良い子には良い夢を見せる。じゃあ悪い子にはなにを見せると思う?」

 アリサは少し考えてから、「悪夢とか?」と答えました。

「私も最初はそう思ったけどな。正解は『なにも見せない』だ」

「なにも見せない、って?」

「そのままの意味さ。夢どころか自分の意識もなにもない、死んでいるのと同じ真っ暗闇の状態だ。ちょうどこの沼みたいにな」

「でも、夢を見ない日だって普通にあるでしょう」

「それは忘れているだけさ。忘れることと、なにもないことは別物だ」

 目の前のぽっかり沼は相変わらず塗り潰したような暗闇で、今度は外灯もなにもなく、奥行きも上下左右もつかめません。

 アリサはぽっかり沼に来て最初、自分の意識が沈んでいく感覚に襲われたのを思い出しました。心も身体も熱が失われて、冷たくなっていく感覚。確かにあのとき、『死』というものが身近に感じられた気がします。

「お前はこれからまっすぐ行って、この沼の奥深くへと進まなきゃならない。私が取り出せないほど固く閉ざした、心の底にな。だけど、そういうところは色んなことがあいまいなんだ。世界が混じり合っていて、なにがあるかわからない。戻って来れない可能性だってある」

 トゥーフィーは一瞬の間をおいて、アリサを試すように「それでも行くか?」と問います。

「心配してくれるんだ」

「……ばぁか、確認だよ」

 アリサは思わず笑って、それから「うん、行くよ」と答えました。

「大丈夫。私がそうしたいと思ったから」

「……なら、その傘は絶対に手離すな」

 トゥーフィーはアリサの持つ虹色の傘を指差しました。

「その傘はオーレの傘だ。夢を見せるときにその傘を使うんだ。それがあれば、暗闇に囚われることはない」

「わかった。ありがとう」

 アリサは傘を広げ、再び暗闇へと踏み出します。


 なにも見えない真っ暗闇を、アリサはまっすぐ進みます。

 まっすぐと言っても、実際には目印もなにもないので『まっすぐのつもり』にすぎません。しかし、アリサには確信めいたものがありました。あるいは間違っているかどうかという考えそのものが、意味のないものだと思えたのです。

 それでも、沼の歩きづらさとまとわりつく湿気は煩わしいものでした。傘に向かって打ちつける感触が少しずつ重くなり、押し潰されるよう気分です。

 そう、まるで押し潰されるような——それこそが、自分が雨を嫌いな理由だとアリサははじめて自覚しました。無遠慮に、こちらの都合なんて関係なく降り注ぎ、頭を押さえつけてくる。息苦しくなっていく。人にはどうしようもないことで、不都合を強いられる。

 世の中ってそんなものかもしれないけれど、それでも——そうやって割り切れるほど、アリサはまだ大人ではありませんでした。

 ふと、アリサは気がつきました。なにも見えない暗闇の中で、自分の持っている傘だけがこの目に映っていることに。ともすれば自分すら見失ってしまいそうなこの沼において、オーレの虹色の傘だけが確かにそこにあったのです。それに気がついたとき、アリサは不思議と踏み出す足に力がみなぎるのを感じました。

 しかし、その勇気もすぐにくじけそうになります。ほんの幽かに、サイレンの音が聞こえたのです。その小さな音で、アリサの肩は震え出し、背筋の凍る寒気がします。

——シレナジタートだ。

 深い闇の向こう側に、赤い光が浮かびました。

 アリサは自分の鼓動の音が、一瞬で激しくなるのを感じました。脈動で全身が揺れて、いまにも倒れそうなほどです。けれども震える手に力を込めて、傘を握りしめました。

——大丈夫。この傘が守ってくれる。

 アリサは徐々に近づいて来る赤い目玉を、しっかりと見据えました。辺りはシレナジタートのサイレンに満ち満ちて、赤いサーチライトが暗闇を切り裂きます。

 やがて、山と見紛うほどの白い巨体が、大口を開けて迫ってきました。それでも、アリサはその場を動きません。不安、緊張、恐怖、忌避、あらゆる負の感情が足元から湧き上がり全身を駆け抜けましたが、それでも足を動かしません。

 歯抜けの口が、轟音とともにアリサの身体を飲み込みました。


 シレナジタートの腹の中は、宇宙と繋がっていました。

 暗闇も光もどちらも引き伸ばされて、アリサの周囲を走り抜けます。そして、その光線の一つ一つが記憶の欠片であることが、映る網膜にも判然としています。

 緑の光は鮮やかな夏の山の木々を照らして、この身体にはしめやかに絡みつきます。枯れ草の音の跳ねる先にはゴムボールがコンクリートに打ち据えられ、それは目玉でしたので隣のお姫様は壁紙の染みにつまらないと笑っていました。テトラポッドを聞きながらセミの脱け殻は鴎の上で蛙を食べて、教科書に載っていた写真はきっと平安の時代にも見上げた月の景色を愛でているのでしょう。ケーキが帰ってくると楽しみにしていた炬燵の上で、赤い林檎が転がる様を母親の指と見ています。林檎は影法師、シャワーの背後で不意に触れる気配が古ぼけた給水塔の屋根に差しかかり、夕闇に入学式の花束がくすんだ色で踊っていました。そう、赤い影法師、灼熱のアスファルトから芝生へと、走る五線譜がついてきて、母の指が追いかけて、地面がくぼんで足を捕らわれます。黒と白との階段に、赤い赤い影法師。雨と一緒に排水溝に流れて消えて――

 ほんの一瞬でした。視界の上と下と右と左と、景色のあらゆる端っこに、ハレの走る後ろ姿が万華鏡のように映ったのです。記憶の奔流に我を失っていたアリサは、その姿を捉えた瞬間、思わず叫んで手を伸ばします。

「待って、置いていかないで!」

 その直後、アリサは薄暗い洋館の中にいました。


 だだっ広い室内に人の気配はなく、均等に並んだ窓枠が外の景色を切り取っています。アリサが窓に近づこうと歩くと、古い床板が音を立てて軋みました。

 外はやはり雨が降っています。濡れたガラス越しに外を覗くと、灰色の空と雨模様の中で、黒い喪服を着た沢山の人々が道の左右に並んでいました。どうやらそこに並んでいるのは、葬儀の列であるようです。顔はぼやけてはっきりしませんが、背格好から老若男女、様々な人がいるとわかります。

 アリサは部屋の隅にある扉から外に出て、葬儀の列に並びました。虹色の傘が葬儀の中で浮いてしまわないかと気になりましたが、周囲の人々はアリサの存在自体を認識していないようです。

 顔はぼやけていましたが、だれもかれもがとても悲しんでいることは雰囲気からわかりました。うつむく人、涙を拭く人、嗚咽を漏らす人、それぞれの悲しむ様子が見て取れます。

 やがて長蛇の列の間を、棺桶を担いで進む一団がやってきました。その一団も非常に奇怪で、先導役は人の大きさほどある巨大な蛞蝓ナメクジでした。後ろに続く棺の担ぎ手達も同じくらい大きな蝸牛カタツムリで、彼らの殻が渦を巻いて棺と繋がっています。

 アリサにはそれが異様な光景に見えましたが、参列の人々にとってはなんの違和感もないようでした。人々の泣き濡らした声と、蛞蝓達の這い歩く音が重なって聞こえ、アリサはじっとりと粘ついた汗が自分の身体に流れるのを感じます。

 葬送の一団がアリサの近くまで寄って来たとき、担ぎ手の蛞蝓と目が合った気がしました。次の瞬間、その蛞蝓は、目のついている角をゆっくりと、そして驚くほど長く伸ばします。さらには辺りを探るかのように鎌首をもたげ、その顔をアリサの目と鼻の先まで近づけてきました。

 ぬめりけを帯びた顔が眼前に迫り、粘液に覆われた口が音を立てて動きます。アリサは直視しないように、顔を伏せて必死に声を押さえました。

 しばらくして、蛞蝓はアリサの額すれすれにあった顔を戻します。そして何事もなかったかのように、その場を去っていきました。

 アリサは心臓がバクバクと鳴っているのをどうにか落ち着けます。蛞蝓達の後ろ姿に目をやると、棺の一団の最後尾にいたのは蛞蝓ではなく、人間の男女でした。そしてその後ろ姿は、どこか見覚えのあるものでした。

——お父さんとお母さんだ。

 直感でそう判断したアリサは、同時にもう一つの考えに至ります。父と母がいるのなら、あの棺の中身は、きっと姉だと。

 アリサは慌てて駆け出しましたが、棺の一団はそのときちょうど角を曲がるところでした。見失わないように急いで同じ角を曲がります。しかし棺の一団はすでに去った後で、辺りのどこにも見当たりません。

 蛞蝓って、そんなに早く動けるものか——そう思いながらアリサは、もう当てずっぽうでと辺りを探し回るしかありまんでした。しかしどれだけ走っても、棺も蛞蝓も父も母も、影も形もありません。

 アリサが途方に暮れていると、やがて庭園の入り口らしきところに行き着きます。その庭園は良く手入れされた生け垣に囲まれており、青い紫陽花が見事に咲き誇っています。

 その庭園をなにげなく覗いたアリサでしたが、視界の端でまたも見覚えのある姿がちらつきました。今度は馬に乗った女の子と男性が、庭園の奥へ消えていったのです。

 ほんの一瞬だけでしたが、見紛うはずがありません。馬に乗っていたその姿は、確かにオーレとハレでした。

「待って!」

 アリサは二人を追いかけて、庭園へと入っていきました。

 

 アリサは懸命に走りますが、どうしても二人に追いつけません。一つ角を曲がると馬はすでに次の角を曲がっており、アリサがそれを追いかけてまた角を曲がると、その次の角へ消えていく。そんなことを延々と繰り返して、距離の縮まる様子が一向にありませんでした。

 やがて道は入り組んだ迷路のようになっていきます。左右を背の高い生垣で囲まれ、ただただ道をなぞるように進むしかありません。青い紫陽花は進むにつれてその数を増し、もはや狂い咲きとも言えそうなほどにアリサの視界を埋めています。

——苦しい、肺が千切れそう。

 苦悶の表情を浮かべながら、それでもアリサは走ります。傘が紫陽花に引っかかり花弁を散らしてしまっても、かまう余裕すらありません。

 水溜まりに浮かぶ花びらを踏みつけて、水が跳ねる音がしました。アリサは紫陽花が囲む円形の広場に出て、そこでとうとう、馬とその騎手に追いつきます。

「待ってよ、オーレ!」

 息を切らしながらアリサが叫ぶと、騎手は馬を止めてこちらの方を振り向きました。馬上から見下ろすその顔はやはりオーレのものでした。しかしその表情は、まるではじめて会ったかのようにいぶかしげなものでした。

「だれだ、お前」

「だれって、私だよ。アリサ」

「知らないな」

 じろじろとアリサを見回す様子は、確かにアリサの知る紳士とはどこか雰囲気が違って見えました。服装も銀刺繍入りの軍服に黒マントといういかめしいものでしたし、口調や表情もどこか刺々しく感じます。

「その傘」

 オーレらしき人はアリサの持つ傘を見とがめました。

「どこで手に入れた」

「借りてるの、オーレに。あなた本当にオーレじゃないの?」

「……俺もオーレだ」

 アリサはますますわけがわからなくなりました。

「やっぱりオーレなんじゃん」

「お前が言ってるのは、俺の兄貴だな」

「兄貴?」

 アリサは驚いて素っ頓狂な声を上げます。

「双子なんだよ。名前もおなじで、俺は弟のオーレ」

「なんでおなじ名前なのよ、紛らわしい」

「そういうものだからな」

 答えになってない答えでしたが、アリサにとってそれも些末な問題でした。

「ねぇ、もう一人馬に乗っていたでしょう? 青い服に栗毛の女の子」

「……知らんな。見間違いじゃないか?」

「嘘。絶対いたわよ!」

 アリサは少し怒ったように言いますが、オーレは気に止める様子もありません。

「知らんものは知らん。仮にいたとして、それがなんだって言うんだ」

「私の……姉さんなの。私は姉の名前を思い出さないといけないの」

 アリサの言葉を聞いて、オーレはため息をつきました。

「あ、言っとくけどふざけたりしてないから。本当だからね」

「いや、事情はだいたいわかった。このため息は呆れただけだ」

「呆れた、って?」

「兄貴の不始末にだよ」

 オーレは広場から広がるいくつもの道の中から、一つを指差しました。

「お前はこの向こうに行くべきだ。この先にいる怪しい風体の男に会えば、お前の知りたいことも知れるだろう」

「あっちにはなにがあるの?」

 雨に煙る道を見てアリサは尋ねます。

「境目さ。こちらとあちらを隔てるもの」

「あちらとこちら、ってなに?」

「あの世とこの世さ」

 アリサはトゥーフィーの言葉を思い出します。世界は絶えず、重なりあっている。

「あの世って本当にあるんだね」

「ある、ということにはなっているな」

「なんだか含みのある言い方」

「だれも見たことがないんだから、しょうがない」

 オーレの言葉を、アリサはいまいち理解できません。

「じゃあなんであなたは『ある』って言うの?」

「俺がいるからな」

 アリサは疑問を示すために少し首をかしげました。

「死者をあの世に連れていくのが俺の仕事なんだ。だから、きっとあるんだろう」

「死神みたいな感じ?」

「まあ、そんなものだ」

「なにそれ。じゃあ『きっと』じゃなくて、絶対にあるんじゃん」

 オーレのもったいぶった話し方に、アリサは口を尖らせます。

「俺は連れていくだけだからな。連れて行ったその先になにがあるのか、それが『天国』とか『地獄』とか呼ばれるものと同じなのか、俺は知らない。送り出した先になにがあるかを、自分で確認したわけじゃないんだよ」

「結局、なにもわからないってことね」

「いや、一つだけ確かなことはある」

 オーレの青い瞳は透き通ったガラス玉のようで、その目に見据えられたとき、アリサはすべてを見透かされているという感覚に陥りました。

「『あちら』に渡ったら、二度と帰ってくることはない。だれであろうと、絶対にだ」

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