巨大な影
海の中は海上よりもさらに暗く、ほんの数メートル先の様子もわからない灰色の世界でした。
アリサ達の入った風船は激しい海流に翻弄され、上も下もわからなくなるほどです。ユキナ達を助けるどころか、まともな姿勢もとれません。
「こんなの、どうすればいいのよ!」
なんとか安定させようとするアリサでしたが、風船は流されるがままにぐるぐると回り続けます。このままじゃ頭が掻き回されて、吐いちゃうかも——。そう思ったところで、ふいに風船がその場で止まり、海流の影響を受けなくなりました。
風船の底に尻もちをついたアリサが見上げると、ハレが風船の中心に浮いています。
「空をとぶイメージでやると、うまくいくよ」
ハレのアドバイスにアリサは半信半疑でしたが、試しに無重力の空間にいるつもりで身体を動かしてみると、宙に浮く感覚でハレの隣に来られました。
「……ほんとだ」
どういう理屈なのか、気になることが多過ぎましたが、とにかく体勢を整えた二人は海の中を進みます。
「でも、どうしよう。これじゃ二人がどこかわからないよ」
ハレの言う通り、なんの手がかりもなくユキナ達を探すのは不可能に思われました。自由に海中を進めるようにはなりましたが、視界は相変わらず悪いままです。海流をものともせず突き進む魚や、流れに身を任せて漂うクラゲがそばを通り過ぎますが、それ以外はなにもありません。
アリサが焦っていると、正面から小さな魚が集団でやってきました。魚群はそのウロコに小さな光を反射させながら、アリサ達の足元を通り過ぎます。
それを見ていたアリサは、魚群が通り過ぎたところに光が一つだけ留まっていることに気がつきました。いいえ、その光は良く見ると魚群のものではなく、もっと深い海の奥で小さく点滅しています。
「キハチの皿だ!」
その光に向かって、アリサ達は全速力で進みます。海の流れを無視して猛然と泳ぐガム風船は、あっという間にユキナを抱えるキハチのところへ辿り着きました。
アリサとハレは自分達のときと同じく、風船を押しつけてユキナとキハチを中に入れました。ユキナはぐったりとしておりましたが、どうやら息はあるようです。
「おいおい、なんだこりゃ」
「風船ガムだよ」
ハレの説明にキハチは要領を得ないといった表情でしたが、「なんにせよ助かった」と無理やり納得していました。
「とにかく、いったん海面に出よう」
アリサが風船を上昇させようとしたところ、うずくまっていたユキナが顔を上げました。
「待って。あのクジラのところに行ってください」
「ユキナさん、もういいじゃないですか。せっかくアリサ達が助けに来たのに」
「それに、クジラにのみこまれたらもどれないよ。ずっとさまようことになる、って」
キハチとハレが説得しますが、ユキナは頑として聞き入れません。
「近くまで行ったら、私だけ外に出してください。そうすればみなさんは助かります」
「そんな、馬鹿なことを——」
キハチが言い切る前に、風船の中に破裂音が響きました。アリサがユキナの頬を叩いたのです。
「良い加減にしてよ! キハチがどんな気持ちであなたを追いかけたのかわからないの?」
人を殴ったのはアリサにとってはじめてのことです。激しい痺れが右手を襲い、手のひらが熱くなります。
「そうやってウジウジして、悲しいのは全部自分だけみたいな顔してさ。周りにいる人達がどんなふうにあなたを見ているかわかってるの? いまあなたのそばにいる人のことを、どうしてちゃんと見れないのよ!」
アリサの言葉を、ユキナは目を伏せながら聞いていました。一同に沈黙が流れます。
「……それでも」
ユキナが、か細い声で呟きます。
「それでも、それが私のすべてです。あの人が迎えに来たのなら、私は行くしかありません」
「——バッカじゃないの!」
アリサがユキナにつかみかかろうとした、そのときです。潮の流れが変わり、風船が大きく傾きました。
先ほどまでの海流は、海上の嵐をそのまま持ち込んだかのような乱暴なものでした。しかし、いまアリサ達を巻き込んでいるものは違います。もっと静かで、有無を言わさぬ、星の引力にも似た圧倒的なものでした。
灰色の海を彷徨う、巨大な影がやってきます。
「お姉ちゃん」
ハレが、アリサの服をつかんできました。ハレだけではなく、アリサも、普段から海に住むキハチでさえも、恐怖で身動きが取れません。蛙の親分の視線が射すくめるものならば、これは決して逃れ得ぬ、押し潰されるほどの重圧です。
しかし、ユキナだけは違いました。ユキナにとってその光景は、暗闇にようやく現れた、一筋の光に見えたのかもしれません。
「待っていました。ずっと、ずっと」
眼前に迫った幽霊鯨は、その青みがかった黒い瞳だけで、アリサ達の風船と同じくらいの大きさです。ユキナはその深く暗い瞳に向かって、細く白い手を伸ばします。
「連れて行ってください。今度こそ、あなたと一緒に……」
また自分は見ているだけなのか——アリサがそう思った瞬間でした。ユキナの指先があちらとこちらの境界に触れる寸前に、幽霊鯨がその巨体をひるがえしたのです。
「え……」
ユキナは呆然として、風船の壁に手をつきます。
「待ってください。どうして……どうして、行ってしまうのですか! お願いです、連れて行って!」
ユキナの叫びも空しく、鯨は決してこちらを振り向きません。海の中はゆっくりと、元の流れを取り戻していきました。
「……クジラの声だ」
不思議な音色の響きだけが、海の中を満たします。
アリサ達が岬に戻ったとき、そこにオーレの姿はありませんでした。嵐は幾分弱まって、海も少しだけ落ち着いています。
ユキナは
「……あの鯨は、確かにあの人でした」
青くなった唇で、ユキナは呟きます。
「連れていってくれると思ったんです。これからはずっと一緒だと。けれど……ほんとうに、いつもいつも……私がっ、どんな気持ちで……」
涙を流すユキナを見て、アリサは言葉が出ませんでした。雨の中に泣き崩れるユキナを、ただ見ることしかできません。
すると、キハチがユキナの側に来てしゃがみこみます。
「ユキナさん、恋人はきっと、お別れに……いや、きちんと終わらせに来たんですよ」
「……終わらせに?」
か細い声で、ユキナが聞き返します。ほんの少しだけ顔を上げて見えるその表情が、アリサにはどこか幼く見えました。
「おいらは海で暮らしてるから……海に住んでるやつらは、ある日突然いなくなることなんて、ざらにあります。食われたり、捕まったり、潮に流されたり……それが当たり前なんです」
キハチは一言ずつ、言葉を慎重に選びながらゆっくりと話しています。
「だから、最初にあんたを見たとき……なんて変な人だろうと思った。海に生きるやつは、きっと大なり小なり、そういうことは覚悟してるから。だから、最初は物珍しさからちょっかいを出しただけなのに、だんだん……恋人を羨ましくもなった。ずっと帰りを待っている人がいることに」
キハチはゴツゴツとした手で、ユキナの冷えて青白い手を優しく包みます。
「いますぐじゃなくても良いし、忘れろとも言わない。ただ、あんた自身の整理がついたら……ちゃんと“今”を生きてくれ。未来に歩き出してくれ。きちんとお別れをできたのなら、後は自分次第だから。そんで、おいらは待ってるから……その、友人として」
少しの間、風と波の音だけがその場に響きました。
「……手」
「て?」
ユキナが小さく呟いた言葉に、キハチは最初、意味がわからないようでした。
「キハチさんの手って、温かいんですね」
キハチは少し照れ臭そうに、「そ、そうですか?」と答えます。
「私、勝手に冷たいんだと思ってました。河童は水の中に暮らしているから」
「……そうですね。人間と同じですよ、河童も」
「……私、なにも知りませんでした。本当に、なに一つ」
ユキナが、俯いていた顏を上げます。その表情は、ユキナがこれまでに見せたどの表情よりも、柔らかいと感じました。
「これから知っていきます。すぐには無理でも……色んなことを、少しずつ」
汽笛の音がホームに響き渡りました。列車は間もなく発車するようです。
アリサ達は座席に座り、見送りに来てくれたキハチと別れの挨拶を交わします。
「いろいろ迷惑かけたな。ありがとよ」
「別に、私達なにもしてないし……っていうか、ユキナさんのこと叩いちゃったし。冷静に考えて、私めちゃくちゃ失礼なことしたんじゃ……」
キハチは「大丈夫、大丈夫」と笑いました。
「みんなが遠慮して言えなかったことを言ってくれたんだ。おいらだって、アリサの言葉で一歩踏み出せたんだし……感謝してるよ」
「でも……」
「それに、ほら」
キハチが包みを取り出し、アリサに渡しました。「開けてみな」と促されてなかを開けてみると、そこには青く輝く笛がありました。
「お詫びと、お礼だってよ。お前の言葉は、ユキナさんにも届いているさ」
アリサは、ものに溢れたユキナの部屋を思い返しました。時の止まったあの部屋が片づいて、全部じゃなくても、少しずつ思い出を整理して……陽だまりの中でお茶を飲むユキナとキハチを想像しました。
「キハチ、ちゃんとユキナさんのこと守ってあげなよ。わたしも、必ず雨を止めるからさ」
「おう、お前らも気をつけてな」
汽笛を再び鳴らし、列車は動きはじめました。アリサとハレは窓から身を乗り出し、キハチへと手を振ります。
風は穏やかになりましたが、空は暗いままでした。しかし、一筋の光線が、岬から灰色の雲に伸びています。
汽笛の音が、煙とともに海の上を流れていきます。
走る列車の中で、アリサは雨の海原を眺めていました。ハレは向かいの席に座って、相変わらず龍のうろこ笛を覗き込んでいます。
なんの目印もない海の旅は、同じ風景がずっと続いていくように思えます。
アリサは島での出来事を思い返しました。ずっと恋人の帰りを待つユキナ。そしてそんなユキナを想い続けたキハチ。自分も大人になったら、あんなに人を愛することが出来るのだろうか、と考えます。
——でも、たとえ自分がどれほど愛しても、報われるとは限らない。ユキナのようにどうしようもないこともあれば、普通に振られることだってある。それでも、想い続けることに意味はあるのだろうか。そもそも、意味があるとかないとかを人の感情に当てはめるのは――それ自体が、意味のないことなのかもしれません。
「あぁ、頭痛くなってきた」
アリサはため息をついてから、こんなこと一人で考えても答えは出ないと、開き直ることにしました。現実にユキナは前向きになったんだから、それで解決、と考えたのです。
「だいじょうぶ?」
ハレは笛を頭に乗せて遊んでいます。よほど気に入ったみたいです。
「あんたさ、好きな子とかいる?」
なんとなく、ほんの雑談のつもりでアリサは尋ねてみます。
「……覚えてないもん」
これを聞いて、アリサは「しまった」と思いました。記憶もないのにそんなこと、わかるはずがありません。自己嫌悪を感じながら謝ろうとしましたが、その前にハレが言葉を続けました。
「だから、いま一番好きなのはお姉ちゃんかな」
へらへらと笑いながら言うのは、きっとハレも恥ずかしいのでしょう。
アリサも、自分の顔が熱くなるのを感じました。
「なぁにをかわいいこと言ってんの、おまえ!」
自己嫌悪と照れがないまぜになったアリサは、ハレの顔をくすぐりました。ハレの方も、それを受けてケタケタと笑います。
車窓の景色は同じように見えていて、それでも確実に進んでいました。
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