龍の笛

 黒い海に、雨がざんざん振り続けます。

 キハチが半ば引っ張るようにしてユキナを連れ、一行は灯台の中に入りました。居住スペースの扉を開けると、溢れんばかりの美術品、工芸品、骨董品が並んでいます。

 天使の装飾をほどこした金時計やガラス細工のピエロの人形、青磁の絵皿に獅子の形の香炉、ヒエログラフが彫られた石板や極彩色のタペストリーなど、文化も時代も無秩序です。

「博物館みたい」

 ハレの感想にアリサも心の中で同意しますが、それは決して“良い意味”ではなく、とても不自然であるという意味でしたが。

「全部、ユキナさんの恋人が贈ったものらしい」

 キッチンでは、キハチがお茶を淹れています。

「船乗りだった恋人が、船で立ち寄るあちこちで手に入れたもの贈ってくれたそうだ。あんまり一緒にいられないから、少しでもなにかしたかったんだろうな」

 キハチの話の話を聞いて、この部屋の統一性のなさにアリサは納得します。

 ユキナは、窓辺に座って尚も海を眺めていました。静止した姿は周りの美術品と同じように繊細な雰囲気で、目の前にいるのにどこか遠い存在に感じられます。

 傍らに、キハチがティーカップを置きました。

「ユキナさん、今日はお土産にローズティーを持ってきたんです。早摘みの新物ですよ」

「ありがとうございます」

 ユキナは一瞥してお礼を言った後、再び海に向き直りました。その視線の先には、灯台から射す一筋の光が伸びています。

「窓辺は寒いでしょう。ストールをかけた方が良いですよ。それとも、なにか温かいものを作りましょうか? 今日も食事はまだでしょう」

 キハチがあれこれ気を回す様子を見たアリサは、それがまるで小さな子をあやす親に見えました。

「これ、すごくきれい」

 ハレが、棚を置いてあったオカリナに似た形の楽器を手に取りました。コバルトブルーの地色と蝶の鱗粉に似た輝きを持ち、その色が角度によって複雑に移り変わります。

「こら、勝手に触らないの」

 アリサが咎めますがハレは聞く耳を持ちません。楽器を手の中で転がし、ためつすがめつ眺めます。

「それは“龍の笛”ですね。龍の神様の鱗で作ったといわれているそうです」

 ユキナが、淡々とした口調で説明します。

「言い伝えでは、龍の仲間を呼ぶことができるとか」

「りゅうが出てくるの?」

 ハレは目を輝かせます。

「ねぇ、吹いてみてもいい?」

「ちょっと、駄目に決まってるでしょ」

「別に、かまいませんよ」

 ユキナの承諾を得たハレは、迷わず口をつけて笛を吹きます。しかし、龍が出てくるどころか、音の一つも鳴りません。

「そういう伝説があるだけです。この通り、吹いても音も出ませんよ」

 ハレは「なぁんだ」と残念そうに笛を眺めます。

「だいたい、龍なんてのも空想上の生き物だからな。空と海をつなげる動物だっていうけれど、海でそんなやつ見たことないぜ」

 キハチがそれを言うのは変な感じがしましたが、アリサは黙っていることにしました。

「ね、お姉ちゃんも吹いてみてよ」

 ハレが笛をアリサに向けます。

「……嫌よ」

「えー、なんで?」

「嫌いなの。楽器」

 アリサが本当に嫌がっているのを感じ取ったのか、ハレは口を尖らせながらもそれ以上はせがみませんでした。

「あ」

 ふいに、ユキナが呟きます。

「ライトが消えてしまいました」

 窓の外を見ると、先ほどまで暗い海を照らしていた光の筋が消えています。

「ああ、またですか」と、キハチは慣れた様子で返しました。

「この灯台もだいぶ古いですからねぇ。おいら、ちょっと見てきますよ」

「すみません、お願いします」

 キハチが出ていき、部屋には沈黙が流れました。ハレは相変わらず笛をじっと観察し続け、ユキナは窓の外を眺めたままです。嵐の音も石造りの壁に遮られ、静けさが室内を満たします。

「あの」

 沈黙に耐え切れず、アリサは口を開きました。

「キハチに聞いちゃったんですけど……恋人を待ってる、って」

 ユキナはなにも言わず、ただ顔だけを少しこちらに向けてアリサの言葉を聞いています。

「どうして待っていられるんですか。私だったら、その……もう諦めちゃうんじゃないかと思って」

「ずいぶん、遠慮なく聞くのですね」

「……ごめんなさい」

「構いませんよ。別に、隠しているわけでもありませんから」

 ユキナの声は小さく、少し気を緩めたら聞き漏らしてしまいそうです。

「私の恋人は船乗りでした。いつも海に出ているので、一緒にいた時間は少ないです。でも……その分、あの人とともに過ごした時間は私の中で色濃く残っていて、かけがえのないものなんです。今も昔も変わりません。離れていても……いえ、離れているからこそ、その思い出が私を支えてくれるんです」

 ユキナの言うことは、アリサにも充分に理解できました。ましてや、赤の他人の自分が口を挟むべきではない、ということも。

 それでも。アリサの胸の内には、漠然としたわだかまりがぐるぐると渦を巻いて、それを言葉にすることを我慢できません。

「でも、もう死んでいるかもしれないんでしょう? 言葉は悪いけど……そんなの、不毛じゃないですか」

 岬に立つ灯台を見たときや、ものに溢れたこの部屋に入ったときの感情の正体。それは、もう帰ることのない恋人との過去に囚われて、自らを孤独に押しやる生き方への反発でした。ユキナの“今”を軽んじる生き方に、アリサの心はなぜだか無性にざわついていたのです。

 自分がどれほどの失礼なことを言っているか。そもそもこんなこと、会ったばかりの自分が言う筋合いはどこにもないと、アリサ自身も良くわかっていました。

「……本当に、無遠慮ですね」

 ユキナの声に、ほんの少しの怒りが混じりました。アリサはそのときはじめて、ユキナの声や表情に、人間らしい熱を感じた気がします。

「私がどうしようと、私の勝手じゃないですか。なぜあなたが、そんなにこだわるんですか?」

「……キハチが、可哀そうじゃないですか」

 アリサは、自分の中に気分の悪さを感じました。いまこうしてユキナを責めるのは、きっとキハチの為ではないと、わかっていたからです。もちろんそれも理由の一部ではありますが、本当はもっと違う、自分の感情的な部分でユキナに詰め寄っているという自覚があったのです。それをうまく説明できず、キハチを口実にしているのです。

 けれども、一度発した言葉はもとに戻せません。そして、ユキナにとってはそんなことは関係なく、彼女の言葉を詰まらせるのには充分だったようです。

「……キハチさんは、関係ないでしょう」

「ありますよ。甲斐甲斐しく世話をさせて、けれどもあなたは過去に囚われて……キハチの気持ちもわかっているんでしょう?」

「子供が口出すことではないですよ。ませているのね、あなた」

 アリサは自分の首筋が熱くなるのを感じました。ユキナは、窓枠のさんを子供みたく指でなぞります。

「別に、私から頼んでいるわけではないのです。良い人だとは思いますが……大切な友人ですよ」

「……あなたは、それで幸せなんですか?」

 アリサの問いかけに、ユキナは答えませんでした。

――ああ、余計なことを言わなければ良かった。

 アリサもすっかり弱ってしまい、うつむいて後悔します。すると、ユキナからぽつりと、か細い声が漏れました。

「だって、しょうがないじゃない」

 その声を聞いてアリサが顔を上げるのと同時に、窓の外に光線が現れました。ライトが再び点灯したのです。

 まっすぐに伸びる光線は、遠くの海面を照らしています。

 そして、その先に。

「――クジラがいる」

 ハレが魅入られたように呟きます。視線の遥か先、光線の伸びた沖合いに、巨大な鯨が身をひるがえしていたのです。

 鯨は海を割って潜った後、再びゆっくりと頭を出し、垂直の姿勢を取りました。そして、その大きな口を開きます。

 大気を揺るがす咆哮ほうこうが、その口から発せられました。

 咆哮は円形の衝撃波を生み、海面の荒れ狂う波を同心円状に塗り替えます。石造りの灯台も激しく揺さぶられ、飾られていた品々が落ちて床に散らばりました。

「なにこれ……鯨の鳴き声?」

 唐突な事態に戸惑うアリサがユキナを見ると、彼女は鯨の姿を見て涙を流しています。

「……帰って来たの?」

 言うや否や、ユキナは部屋を飛び出していきました。ちょうど上の階から戻ってきたキハチが「ユキナさん!」と叫んで止めようとしましたが、それにも構わず外へと駆け出していきます。

「アリサ、なにがあった」

「わからない。でも、ユキナさんは『帰って来た』って」

 アリサとキハチが玄関を出たときには、ユキナはすでに岬の先端に向かって走っていました。

「ユキナさん!」

「ダメ!」

 アリサ達の静止の声も空しく、ユキナは勢いそのままに岬の先端を踏み切って岸壁の下へと飛び込みました。アリサは悲鳴を上げ、足がすくんでその場にへたり込んでしまいます。しかし、キハチはその足を止めません。一瞬の迷いもなくユキナを追って飛び込みました。

 間もなくして、ハレが遅れてやってきます。

「お姉ちゃん!」

「どうしよう、二人とも飛び込んじゃった」

 アリサは血の気が引いて、その場を動けません。ハレが岸壁の際まで行き、海の方を覗き込みます。

「大丈夫、二人ともまだ無事だよ!」

 それを聞いたアリサも、慌てて岸壁を覗き込みます。確かに、二人とも海面から顔を出してもがいているのが見えました。というより、どうやらユキナとキハチがもみ合っているようです。

「もしかして、クジラのところまで泳いで行くつもりかな」

「そんな、無理に決まってるじゃん」

 河童も流されるほどの荒波を前に、アリサはなすすべがありません。自分が飛び込んだところで泳げるわけがありませんし、それどころか、断崖絶壁を飛び降りる勇気すらありません。

 迷っている間にも、波は容赦なくユキナ達に襲いかかります。そして、一際大きな波が二人を呑み込んで、今度こそ姿が見えなくなりました。

 アリサは目の前の事態に、ただうろたえるしかありません。

「お困りのようだね」

 背後から、急に声が聞こえてきます。驚いて振り向いたアリサの背後には、ハットと深緑のコートをまとい、黒い傘を差した紳士が立っています。

「オーレ! いつからそこに?」

 声をかけられるまで、アリサはその気配をまったく感じませんでした。まさしく降って湧いたように、その紳士は現れたのです。

「ふむ、"幽霊鯨”か。これは大変珍しい」

 オーレは、事態にそぐわない呑気な調子で呟きました。

「あれは、海で死んだ魂の集合体だ。数えきれないほどの未練に縛られ、あの世にもこの世にも居場所がない。永遠に暗闇を彷徨さまよううはぐれ者さ」

「そんな解説はどうでもいいんだって。このままだと、二人が……」

 アリサは期待と焦燥を込めてオーレを見ました。

「溺れて死んでしまうね。仮に鯨のところまで行けても、飲み込まれるのがオチだろう」

「だから、なにか助ける方法はないの?」

「僕にはないよ。だって、君達にもう渡したもの」

「はぁ?」

 オーレの答えに、アリサは考えを巡らせました。しかし、いくら考えたところで思い当たるものはありません。

「もしかして、これ?」

 ハレがそう言いながら取り出したのは、最初に会ったときにオーレから貰ったガムでした。

「そうそう、それそれ」

「……ふざけてるの?」

 この切羽詰まった状況でなにを意味不明なことを言ってるんだと、アリサは怒りがこみ上げてきます。

「別に、ふざけてなんかいないさ。ハレ、そのガムをいますぐ噛んで膨らますんだ」

 ハレは言われた通り、ガムを口に入れて噛みはじめました。

「ちょっと、良い加減にしてよ!」

 一方のアリサはとうとう堪忍袋の緒が切れて、オーレに食ってかかります。

「そうやって馬鹿にして、いったいなんのつもりよ」

「なんのつもりって、僕はいつでもアリサの味方さ」

 オーレは悪びれる様子もありません。

「なにが味方よ。思えば最初から変だと思ったのよ。全部、あなたが仕組んだことなんじゃないの?」

「仕組んだって、なにを?」

「全部よ。私をこの国に連れてきたのも、傘とメモを残したのも、全部オーレがやったんじゃないの」

「おいおい、なんの根拠があってそんなことを言うんだい」

「勘よ」

「勘、って……」

 オーレは苦笑します。

「そうよ。でも、あなた怪しすぎるもん。いま思えば、女王に会いに行くのだってあなたに誘導されたようなものだし。言うだけ言ったらすぐにいなくなって、かと思えば急に現れたりして。いったい、なにを企んで……」

 怒りに任せてまくし立てるアリサですが、ふいにその勢いはしぼんでしまいます。隣でガムを噛んでいたハレの口から、尋常ではない大きさの風船が膨らんでいたからです。

「良いぞ、もっと勢い良く空気を入れて!」

 オーレの言葉に、ハレは思いっきり息を吹き込みました。すると、ガムも一気に膨らみを増してアリサにぶつかってきます。

「んぎゅ」

 ガムにはじかれると思ったアリサでしたが、なぜかガムはアリサの体を包み、いつの間にかガムの内側に包まれていました。膨らませていたハレも同様です。気がつけば、二人は巨大なガム風船の中に閉じ込められています。

「その中にいれば、溺れることは絶対にない。早く助けに行っておいで」

「ちょ、ちょっと待って——」

 アリサの静止も空しく、オーレは微笑みながら風船を押し出します。アリサとハレを入れた風船は、逆巻く海へと飛び込んでいきました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る