第四章 幽霊鯨

岬で待つ人と、それを待つ人

 アリサ達が扉をくぐると、そこはすでに古い列車の中でした。

 木造の客車はギシギシと悲鳴を上げて激しく揺れて、窓の外では仄暗い海がうねりを上げて飛沫を上げます。灰色の空から降る横殴りの雨が窓ガラスを激しく叩き、遠くの雲には稲妻が光ります。

 列車は荒れ狂う嵐の中を、波を切り裂き走っていました。

「列車に乗れるって、直接じゃん!」

 アリサは座席につかまりながら呆れます。揺れのあまりの激しさに、まともに立つこともできません。

「すごいね、海の上を走ってる!」

 一方のハレは、揺れも気にせず窓辺に駆け寄り、荒れる海を覗き込みます。

「窓開けちゃダメかな」

「ダメに決まってるでしょ」

 アリサは背もたれを伝いながら、ようやく席に座りました。車内を見回しましたが、他に乗客はいないようです。

「ジェットコースターみたい。ハレ、ちゃんと座ってないと危ないよ」

 アリサが引っ張って席に座らせますが、ハレは尚も窓の外に釘づけです。

「空も海も真っ暗じゃん。見ててなにが楽しいのよ」

 アリサはふと、かつて家族で海に行ったときのことを思い出しました。白い砂浜と、深く鮮やかな青空と海。波間がきらきらと光っていて、こんなに荒れ狂った天気ではなく、波のさざめきとカモメの鳴き声だけが聞こえて……。

 そこでアリサは気がつきました。自分の記憶の中で、まただれか、なにかが抜け落ちていることに。記憶の中心に、空虚な穴があることに。

——海に行ったのは、私がまだ本当に小さいときで——一生懸命記憶を探りますが、まったく思い出せません——自分と、両親と、それから——それから? ——なんだっけ。いま、なにかを思い出そうとしていたはずなのに——それすらも忘れてしまいそうになります——そうだ、海の思い出だ。船に乗って、カモメに向かって手を伸ばしたんだ。私と、私と——

 轟音とともに、列車が激しく揺れました。記憶の海から引っ張り出されたアリサは、転がりそうになるハレをとっさに受け止めます。

「ちょっと、大丈夫?」

「うん、いま、おっきな波がマドに……」

 ハレは途中で言葉を止め、目を真ん丸にして窓を見上げました。

「ちょっと、頭でも打った?」

 アリサが心配するも、ハレは黙って窓を指差します。アリサもそちらに視線を向けて――人生最大級の悲鳴を上げました。

 人の形に似た、けれども確実に異形のなにかが、窓にへばりついていたのです。

「しっ、しっ、死体!」

 アリサはハレを抱いたまま、通路を挟んだ反対側の座席まで後ずさりました。

「お姉ちゃん痛い、痛いってば!」

 恐怖のあまりアリサはパニックになり、力一杯にハレのことを抱き締めます。

 そのなにかには手足こそありましたが、赤褐色で固そうな肌や先が尖り頬まで裂けた口など、どう見ても人間ではありません。どちらかというと“人型の動物”という表現が正確でした。

 そして、そのなにかが突然動き出しました。水掻きのついた手を広げ、何度も窓を叩くのです。アリサは更に「ひぃっ!?」と悲鳴を上げました。

「なに? なに? なにしてんの? 幽霊? ゾンビ?」

「待ってお姉ちゃん、なにか言ってる」

「え?」

 確かに、その人型の動物をよく見ると、鬼気迫る表情でなにかを訴えているのがわかります。

「もっと近づかないと」

「えぇ……マジで? 勇気ありすぎ……」

 ハレに連れられる形で、アリサもおそるおそる窓に近づきます。側に来てようやく、その生き物の声が聞き取れるようになりました。

「……はよ、はよ入れてくれ! お願いだから! 死んでまう!」

 どうやらその生き物は、助けを求めていたようです。


「いやぁ、助かった」

 アリサとハレが窓を開けると滑り込むように車内に入ってきた生き物は、しばらく咳き込んでから、ようやく人心地ついたようでした。

 その生き物は背中に大きな甲羅を背負い、頭頂部は滑らかに禿げ上がって光を反射しています。

「「……河童?」」

 アリサとハレは声を揃えて呟きました。

「おう。おいらは海河童のキハチってんだ。礼を言うぜ、嬢ちゃん達」

 キハチと名乗ったその生き物は、甲羅の裏側から手拭いを取り出して身体を拭きはじめます。身長はアリサよりずいぶん低いのですが、その動きにはどことなく中年オジサン臭さが感じられます。

「河童って、普通は川にいるものじゃないの?」

「だから、海河童って言ってるだろ。川ではなく雄大な大海原を華麗に泳ぐ。それこそが誇り高き海河童」

 キハチは空中で水を掻く動作を真似してみせました。

「その海河童がなんで溺れてるのよ」

「それだけ海が荒れてるってこと。いつもだったら、どんなに上が荒れていたって海中は静かなもんだが、今日はずいぶん機嫌が悪い……ええと、お二人さん、お名前は?」

「アリサ」

「わたしはハレ」

「アリサとハレね。良い名前じゃない。それで、アリサ。河童の川流れって言うだろ。おいらの場合は海流れ、いや波流れかな? とにかく、いくら泳ぎが得意でも自然を舐めてちゃ、あっという間に海の藻屑もくずってわけ。本当だったら、こんな日は岩影で静かにしているべきだね」

「じゃあ、キハチさんはなんで泳いでたの?」と、今度はハレが尋ねます。

「まあ、深い事情があるのよ。一言で言えば……愛のためかな」

 アリサとハレはぽかんとしました。

「おっと、二人にはまだ早かったかな。わっはっは」

 一人で盛り上がるキハチを前に、アリサとハレは目を見合わせていると、隣の車両から車掌らしきお爺さんが入ってきました。激しく揺れる車内で、さもなにごともなさそうに、平然とまっすぐ歩いてきます。

「おや、いつの間にかお客さんが増えてるね」

 アリサは、そういえば自分達が無断乗車しているということに気づきました。

「あの、私達、切符とかなくて……」

「ん? ああ、いや、二人は蛙の親分のところから来たんだろう。じゃないと、この車両には入れないからね。だから切符はいらないよ」

「この列車は闇列車だからな。鳥獣一家御用達の」

 意地悪く笑うキハチをお爺さんが睨みました。

「その闇列車に無理やり乗車しているお前も大したもんだよ。なにやってるんだい、こんな日に」

「いや、緊急事態なんだよ」

「またあの娘のところかい」

 お爺さんはため息をついて呆れます。

「よっぽど惚れてるんだねぇ。まあ良いよ。もうすぐ駅に着くから座ってな」

「さすが、話のわかる」

「そっちの二人は、どこまで行くんだい」

「あ、その、都までです」

 アリサの答えに、お爺さんは「じゃあ、終点までだね」と返します。

「次の駅で一時停車するから、降りて足を伸ばすと良い」

 お爺さんが隣の車両へ移ると、ハレが「恋人に会いに行くの?」と尋ねます。キハチは気恥ずかしそうに照れ出して、体をくねらせながら頭を掻きました。

「いやあ、恋人じゃねえんだけどよ。片思いっていうか。向こうは全然そんな感じじゃないから、まあ叶わぬ恋ってやつだな」

「叶わないって、どうして?」

 ハレは無邪気に、遠慮なく踏み込みます。アリサも気になったので、たしなめたりはしませんでした。キハチは少しためらう素振りを見せましたが、外に視線を移しながら口を開きます。

「その人にはな、恋人がいたんだ。船乗りだったらしい」

 波はますます高くなり、風雨も激しさを増しています。

「貿易船で、外洋に出ていたそうでな。嵐に巻き込まれて、残骸だけが流れてきたんだとよ。ここ十年、雨で海はずっと時化しけっているからな。それ以来、その人は恋人を想って待っているわけ。もしかしたら、どこかで生きていて、いつか帰ってくるかもしれないって」

 アリサもハレもなんと言って良いのかわからず、ただ黙ることしかできませんでした。そんな気まずい雰囲気に、キハチは「ああ、またやっちまった」と後悔します。

「こんなこと、会ったばかりのやつに言うもんじゃねぇよなぁ。あの人にも、お前らにも悪いや。すまん」

「ううん、こっちこそごめんなさい」とハレも謝ります。

「せっかく会ったんだ。楽しく行こうぜ。二人は都でなにするんだい」

 明るく話すキハチを見て、アリサは本当に優しいんだな、と思います。

「女王さまに会いに行くの」

 ハレの答えに、キハチは少し驚いた表情を浮かべました。

「へぇ、そりゃまた難儀だねぇ。でも、またどうして?」

「雨の国から出るためよ」とアリサが返すと、キハチは怪訝な顔つきになります。

「お前達、蛙の親分に会ったんだろ。この国を出たいだけなら、逆方向の列車にも乗れたはずだぜ」

 改めて問われると、正直に答えて良いものかアリサは少し迷いました。女王のことも、この国のことも知らない自分達が、女王に文句を言うなんて滑稽なことではないかと、そんな考えがよぎったのです。

 しかし、嘘をつくことの気分の悪さも、つい最近に知ったような気がします。

「女王に文句を言ってやろうと思って。雨なんか降らせるな、って」

 アリサはいかにも普通のことであるように、努めて平静に答えました。

 キハチはというと、一瞬の間を置いて「んひっ」と奇妙な声を漏らします。そして、裂けた口を思い切り開けて、大声を上げて笑い出しました。

「確かに、確かにな。この雨を降らせてるのは女王だからな」

 キハチは明るい調子で膝を叩きます。それからなぜか、急に頭の皿が光りました。

「良いじゃねぇか。おいらは応援するぜ。こんな雨さえなければ、もっとみんな、楽しいもんな!」

 頭頂部の皿は真っ白な光で客車の天井を照らします。アリサとハレはその様子がおかしくて、二人そろって吹き出しました。

「ちょっと、なんで光るのよ」

「へんなの!」

「おっと、いけねぇ」

 キハチが頭を抑えますが、水掻きの間から光が漏れ出し、更には点滅まではじめます。

「おいおい、笑うんじゃねぇよ。こいつは誇り高き海河童の象徴、ちょうちん皿だぜ」

「だって、急に光るから……」

 アリサは涙目を拭い、ハレも笑い続けます。列車の中に、ひととき笑いが響きました。


 しばらくすると、列車は灯台のある小さな島で停まりました。

 ホームに降りたキハチは、貨物の入れ替えをしていた車掌のお爺さんとなにやら交渉し、小さな包みを受け取っていました。

「お土産もってかねぇとな」

 キハチは照れ臭そうに笑ってから、ホームから見える小さな灯台を指差しました。

「あの人は、あそこに一人で住んでるんだ。見た通りなにもない島だからな、アリサ達が来たらきっと喜ぶよ」

「灯台で働いてるの?」

「いや、あそこはもう使われていないんだ」

「え、でも」

 石造りの灯台は、一筋の光を海面へまっすぐに投げかけています。それを見たアリサはてっきり、いまも現役の灯台なのかと思ったのです。

「あの人が、ライトだけいつもつけてるんだよ。もし船が戻ってきたときに、灯台の光がないと困るからって。でも、いまは女王が船を使うことを禁止しているからな」

「禁止って、どうして?」

「表向きは悪天候で、外洋が危険だからだけどな。実際は、外の国との物流を列車に限定して利益を独占するためさ」

「なにそれ、ひどい」

 アリサは憤慨ふんがいしましたが、ハレは別のことが気になったようでした。

「でも、さっきキハチは車掌さんからなにか買っていなかった?」

「言ったろ、これは闇列車だって。あの爺さんはお国の物資をちょろまかして——痛ぇっ!」

 キハチの後頭部を、木箱を持ったお爺さんが小突きました。

「やめろよ、皿が割れちまうだろ」

「人聞きの悪いことを言うからだよ。だれのおかげであの娘へのプレゼントを用意できてると思ってるんだい」

「へいへい、おかげでいつも助かってますよ。ほら、早く行こうぜ」

 キハチを先頭に三人が改札を抜けたところで、ホームからお爺さんが声を張ります。

「海に落ちないよう気をつけなよ。落ちたらあっという間にさらわれちまうぞ」


 灯台のある岬はごつごつとした岩場の、殺風景なところでした。風を遮る樹木もないので、アリサは傘を短く持って、ハレと身体をくっつけながら歩きます。

「転ばないよう気をつけてよ」

「うん」

 一方のキハチは、雨や風も気にすることなく平然と前を進みます。

「ねぇ、ここって普段からこんなに風が強いの?」

 キハチが、「んあ?」と間の抜けた返事をします。質問の意図がわからない、という顔でした。

「まあ、見ての通りの吹きさらしだからなぁ。普段から潮風はガンガン吹いてるぜ」

「そっか」

「あんまり体の強い人じゃないから、本当はもっと静かなところに住んでほしいけど……でも、それがどうかしたか?」

「ううん、なんでもない」

 アリサは改めて周囲を見渡しました。岬には、ところどころに生える雑草以外は、本当になにもありません。石造りの白い灯台が、風に吹かれながら灰色の空に向かって立っています。アリサにはその光景が、とても寂しげに見えました。

 ハレを抱えるアリサの腕に、ほんの少しだけ力が込められました。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

「……別に。ただ、寒いなぁって」

 キハチの想い人は、いったいどんな気持ちでここに住んでいるのだろう。アリサは自分の中に沸き上がった感情をうまく整理できずに、心がもやもやとしました。

「ユキナさん!」

 突然、キハチが叫んで走り出しました。その先には、黄色い傘を差した女性が岬の縁に立って、荒れ狂う海を眺めています。

「キハチさん」

 ユキナと呼ばれた女性は華奢な体つきで、線の細い印象でした。色白、というよりは青白い顔色で、「いまにも折れてしまいそうな」と形容したくなるほどの、冷たい繊細さがありました。

「今日も来てくれたんですね。それに、可愛いお客様が二人も」

「来てくれたんですね、じゃないですよ。なにやってるんですか、こんな日に」

「なに、って……」

 ユキナは再び海の方へと視線をやりました。その瞳は、水平線の更に彼方の遠くを見ており、アリサはその表情にどこか怖ろしいものを感じました。

「あの人が巻き込まれたのも、きっとこんな嵐だと思って。だから、帰って来るかもって」

 ユキナの黒い長髪が、荒れる潮風にはためきます。

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