雨の国の女王

 蝙蝠は、アリサ達に城までの道順を教えてくれました。

 蝙蝠いわく地下水路は常に形を変えており、記憶に頼りにしては決して進めないようになっているそうです。音と耳で周囲を把握できる蝙蝠に出会えたことは、幸運だったといえます。蝙蝠自身はこのまま息子を探しに行くからと、同行することは断りました。

 地下水道はやがて延々と伸びる階段となり、そこもひたすらに上り続けたアリサ達は、ようやく出口へと辿り着きます。アリサはとうとう女王に会えると、勇んで最後の段差を踏み越えますが、その先に広がる光景は思いもよらないものでした。

「なにこれ……これがお城?」

 アリサが目にしたのは、高層ビルが林立する巨大なスクランブル交差点でした。横断歩道が何十、何百にも折り重なって縦横無尽に広がっており、あちこちで信号が赤と青に入れ替わります。そして、気が遠くなるほど大勢の群衆が、雨に濡れるのも構わずにぞろぞろと交差点を歩いていました。

「ここは“大通りの間”です。女王がいるのはこの先、この部屋の中央です」

「部屋っていうか、もう街じゃん」

 見渡す限りの人・人・人で、ビルの向こうに見える空は、灰色の雲に覆われています。

「ここからまっすぐ突っ切れば女王は居るはずですが……なにぶん、この人通りですからね。難儀ですよ、この部屋を通るのは」

「この人たちはなんのために歩いているの?」

 人の多さに目を丸くしながら尋ねるハレに、わからず屋が「奴らはただ歩いているだけだ!」と叫んで答えます。

「補足すると、彼らは歩くのが仕事なんですよ。まあ、侵入者を防ぐための防犯ですね。歩く以外の意思はないので、こちらを襲ってきたりはしません」

 たしかに行き交う人々の顔には意思や、もっと言うと生気そのものが感じられません。歩く列こそ整然としていますが、一人一人は無表情です。もしもこの集団に取り込まれたら、二度と抜け出せないような不気味さがありました。

「さて、この中を進む必要がありますからね。心の準備は良いですか」

 アリサは、女王に会う決意が削がれたわけではありませんが、この軍隊の行進みたいな間を縫って行くのは相当の気力が必要だと思います。

「あっ、あっ、あっ、あの、良かったら、これ」

 恥ずかしがり屋が、鞄から小さな玉を取り出しました。裏通りでハレが拾って渡した、青緑色の小さな玉です。

 恥ずかしがり屋が指先に力をこめると、玉は薄いガラス細工のように、簡単に砕けました。青緑色の煙とラメが一瞬だけ立ち上り、すぐに消えてしまいます。それと同時に、甘く爽やかな香りが辺りに立ち昇りました。

「たっ、たっ、タイムの香りです。リラックスできて、元気になると思います」

 たしかに、それまであった身体のこわばりが緩んで、気持ちが楽になるのをアリサは感じました。

「あっ、あの」

 恥ずかしがり屋はうつむきながらも、精いっぱい声を振り絞ります。

「さっ、さっ、最初は、雨を止めるって聞いて、なんて、変な人たちなんだろうと思ったんですけど……いっ、いっ、いまは、応援したいと思っています。だから、その……がっ、がっ、頑張ってください」

「……うん、元気出た。ありがとう」

 アリサがお礼を言うと、恥ずかしがり屋は帽子で顔を隠しながら理屈屋の後ろに隠れてしまいます。

「お二人とも、良かったですね。“頑張り屋”の彼は中々見られませんよ」

 なぜか理屈屋が得意げになっています。

「準備はできたか。それでは行くぞ!」

 わからず屋が雄たけびに合わせ、一行は雑踏の中へと分け入ります。


 交差点の混み具合は凄まじいものでした。川のように流れがあるので、ほんの少し気を抜けば、あっという間にその流れに飲み込まれてしまいそうです。

「ちょっと、早いよ。待ってってば」

 アリサの声も空しく、三人の商人はどんどん先に行ってしまいます。

 理屈屋は、時々肩をぶつけながらもむしろその反動を利用して人々の合間を器用に抜けていきました。わからず屋はぶつかっても決してゆずらず、強引にまっすぐ進みます。恥ずかしがり屋は小さな背たけを利用して、足元を縫うように歩いていました。

 焦って追いかけるアリサでしたが、ほんの一瞬だけ群衆の流れに捕まって、握っていたハレ手を離してしまいます。

「わっわっ」

「ハレ!」

 人波をかき分けて、なんとかハレを引っ張り出したアリサは、横断歩道の隙間の三角地帯にたどり着きました。

 もみくちゃにされた二人はぼろぼろです。アリサは手櫛でハレの髪を整えます。

「あいつら、私ら置いて行っちゃたよ」

 商人たちはだいぶ先に行ってしまったようで、もう姿も見えません。

「まっすぐって言ってたから、このまますすめば会えるよ、きっと」

 ハレはそう言いながら息を切らしていました。アリサの小さな身体では、足元を縫うより先に、蹴られてしまう危険の方が高いのでしょう。

「ハレ、こっちにおいで」

 アリサは片手で傘を持ち、もう片方でハレを抱いて持ち上げました。

「ダメだよ、これだとお姉ちゃんがたいへんでしょ」

「大丈夫。ハレはしっかり捕まってて」

 ハレを抱える腕をしっかりと固定し、アリサは再び群衆の中に入っていきました。

 強がりこそ言いましたが、アリサはもう必死です。群衆はアリサに構わず行進を続けて体のあちこちにぶつかりますし、足は踏まれて、腕はしびれて、熱気で全身から汗が噴き出します。無表情に歩く群衆が右から、左から、真正面から次々と押し寄せ、アリサは本当に進んでいるのか、もしかしたら同じところを延々と歩いているだけじゃないのかと、どこかでぼんやり思いました。

 足音と雨音の単調な音が感覚を鈍らせ、意識をどんどん遠ざけます。朦朧もうろうとするなかで、周囲の人々と同じように心が失われるその瞬間——

ん どこかで、ピアノの音が聞こえました。


 気が付くと、アリサの目の前に大きな円形のステージがありました。ビル街の中央にあるそれはひどく場違いで、更に奇妙なことには、ステージの中央に一台のピアノが置かれています。

 アリサはステージに登り、ピアノに歩み寄ります。譜面台には、一枚の楽譜が置かれていました。


『謁見の方はこちらまで。女王のための冗談曲』


「……これを弾けってこと?」

 アリサは、背中に汗が伝うのを感じました。ピアノの白鍵と黒鍵の並びが、鏡のように艶のある塗装が、五線譜の上を泳ぐ音符達が、そのすべてが漠然とした不安を掻き立てます。そう、まるでシレナジタートの吠え声のように。

——なんで、こんなにピアノが怖いんだっけ? 私はピアノが嫌いだっけ? いいや、そんなことはない。ないはず、だけど……見たくない。触れたくない、座りたくないの感情の向こう側に、また、ぽっかり穴がある。私はなにかを忘れている。けれど、それを知るのが怖い。どうして怖い? だれかが座っているのを私は見ている。だれかが弾いた音を私は聞いている。それは、いつ、だれのこと……?

 アリサが呆然と、自分の心に囚われていると、ハレがピアノの前に座りました。

「……ハレ、なにしてるの?」

「これをひけば、女王さまに会えるんでしょ?」

「……記憶が戻ったの?」

「ううん。でも、ひける気がする」

 ハレは楽譜をじっと見ます。自分のすべきことを確かめるように、五線譜を指でなぞります。

「お姉ちゃん、怖いんでしょ?」

「……怖くない」

 なんだかいつも情けないところばかり見せている気がして、アリサは無意味に強がりました。

 ハレは、呆れたように「うそ」と言って笑います。

「楽器、にがてって言ってたでしょ。お姉ちゃんはつかれてるから、わたしにまかせて」

 そう言って、ハレはピアノを弾き始めました。小さな手にはどこかおぼつかなさも感じますが、それでも一つ一つ丁寧に鍵盤を押していきます。

 ハレの奏でる曲は冗談曲スケルツォのタイトルに恥じぬ、跳ねて走るような旋律でした。転がるような急展開があるかと思えば、突然止まったり、狂ったみたいに激しくなったりで、明るいけれどもどこか悲しく聞こえる曲です。

 それを後ろで聴いていたアリサは、演奏するハレの背中が、なんだか遠く離れていくような感覚に陥りました。

 しばらくして、周囲に変化が現れます。無秩序だった群衆の足並みが軍隊のように揃いだし、無気力に歩くだけだった行進はハレの演奏に合わせて、徐々に踊りへ移り変わっていくのです。

 リズムに合わせてステップを踏み、腕を拡げて跳ね回り、ターンを決めたり腰をくねらせたりしています。何千人もの人々が一糸乱れぬ踊りをみせて、それにつられてかピアノの演奏も激しくなります。踊り子達が周りに建っている高層ビルの周囲へ群がり、まるで手品師が覆いの布を外すように、ビルの表面を剥がしていきます。その下から出てくるのは、沢山のお菓子や人形、玩具や洋服、プレゼントの包みの山でした。

 舞踊劇が最高潮に差し掛かるとき、地響きとともに巨大なケーキがせり出してきてアリサの眼前に現れました。ケーキは何段にも積み重なっており、その頂上は遥か彼方の空にも届くほどの高さです。

「そこにいるのはだぁれ?」

 小さな女の子の声が、ケーキのてっぺんから聞こえてきました。


 声の主はケーキの一番上にいるようで、姿はまったく見えません。舌足らずな声だけが、アリサの耳に届きます。

「あなたが女王?」

 アリサが尋ね返すと、声は「そうだよ」と答えました。その声音はずいぶん幼い印象を受けます。

「降りてきてよ。これじゃ首が疲れちゃう」

「や」

「なんでよ」

「だって、じょーおーさまだもん」

「そんなこと言わないで、お願い。私たち、苦労してここまで来たんだから」

「なにいってるの? あなたしかいないじゃない」

 女王に言われて、アリサは初めてハレがいなくなっていることに気がつきました。

「ハレ?」

 周囲を見渡しても、呼びかけてみても、影も形もありません。

——なんで、どうして?

 アリサは不安で急に取り乱しました。一体いつの間に居なくなったのか、周りで踊っていた踊り子たちも、一人残らず消えています。ステージの上にはアリサ一人が、孤独にぽつんと立っていました。

「それで、あなたはなにしにきたの?」

 女王の声でアリサは我に返りました。不安を拭うことはできませんが、なんとか気を奮い立たせて、女王に向かって進言します。

「女王様、どうか雨を止めてください。あなたの降らせる雨のせいで、多くの人が困っています」

「あめって、これのこと?」

 ケーキの上から一柄ひとさおのじょうろが顔を出し、勢いよく水を放ちました。周囲はたちまち雨が強くなり、アリサは傘を短く持って激しい雨を防ぎます。

「やめて、お願いだから!」

 アリサは雨音に負けないように大きな声で訴えました。しかし女王は聞く耳持たず、雨を降らし続けます。

「どうしてそんなに雨を降らすのよ」

「べつにいいでしょ。わたしのかってじゃん」

「お菓子や人形も濡れちゃうよ。これ全部あなたのでしょう?」

「いいもん。そしたら、あたらしいのもらうから」

「……自分勝手に手元に置いて、駄目になったら捨てるってこと? いい加減にしなさいよ。あなたの気紛れのせいでたくさんの人が苦しんでいるのよ。女王様ならそこのところ、もっとしっかり考えなさいよ!」

「だって、わたしのくにだもん!」

「国民をちゃんと見れないんだったら、女王様の資格はないわ」

 アリサはだんだんと怒りを増していきますが、その思いとは裏腹に、雨の勢いでいまに押しつぶされそうです。激しく打ちつける豪雨に、もはや立っているだけで精一杯でした。

 アリサは、努めて優しく女王に尋ねます。

「ねぇ、せめて理由を教えてよ。雨を降らし続ける理由を。私にできることがあるなら、なんでも協力するからさ」

 雨の勢いが、少しだけ弱まりました。女王はどうやら、答えを考えているようです。

「……だって、とまらないんだもん」

「止まらない? 水が?」

「うん」

「そのじょうろが止まらないの?」

 女王は黙り込みます。アリサはケーキに歩み寄って、女王に呼びかけました。

「そのじょうろのせいなら、一度手放してみれば? 良かったら。私が——」

「ああ、もう、うるさい!」

 ケーキの上で、女王のじょうろが振り回されるのが見えます。

「かんけいないじゃん。きらい! こないで! あっちいって!」

 じょうろから大量の水がほとばしり、鉄砲水となってアリサに襲いかかります。驚いて避けようとするアリサでしたが、間に合うはずもありません。

 激流は正面からぶつかってきて、アリサはそのまま、遥か彼方へ吹き飛ばされてしまいました。

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