ぽっかり沼
泥ひばりと白蝙蝠
気を失っていたアリサが目を覚ますと、辺りは一面真っ暗でした。冷たい雨の音だけが、ぽつりぽつりと聞こえてきます。
自分の身体さえも見えないほどの暗闇でしたが、身を起こしたときの感触で下はぬかるみになっていることがわかりました。
アリサはふらつく意識のなかで、なにが起こったかを思い返しました。そして女王の説得に失敗したこと、じょうろの水流で吹き飛ばされたことを思い出します。
結局、自分にはなにもできなかった——アリサは膝を抱えて、無力感に打ちひしがれます。あっさりと吹き飛ばされてしまって、なんのために女王のもとに行ったのか。アリサは自分の情けなさに悲しくなってきます。
ハレのことが頭に浮かび、ますます不安になりました。あの子はいったい、どこに行ったのだろう? 無事なのだろうか? そんなことをぐるぐると考えますが、答えが出るはずもありません。
大人しく別の方法で雨の国を出ていれば、こんなことにはならなかったのではないか——そんなふうに、後悔と自責が募ります。
「寒い……」
アリサは途方にくれながら、膝を抱える力を強めます。暗闇のなかでじっとしていると、自分の意識が肉体から抜け出したような感覚に陥ります。
もし幽霊や死後の世界があるのなら、こんな感じなのかもしれない——そんなことを考えて、もしそうなら本当に、このまま消えてしまえれば良いのにと思いました。
ゆっくりと、溶けるように消えていく。そうすれば不安も、孤独も、惨めさも、すべて溶けてなくなってくれるのではないかと、淡い期待がアリサの胸に浮かびます。そして、その淡い期待を抱いたまま、ますます心は沈みました。沈めば沈むほど、このままではいけない、立ち上がらなければという想いが覆い隠されます。
そうして心を沈めていって、時間の感覚も薄れてしまったころでした。ぱしゃり、ぱしゃりと、雨音とは違う、水を跳ねる音が聞こえてきます。その音で、アリサの心にわずかな波紋が起こります。
「ちょっと。あんた、大丈夫かい」
アリサが顔を上げると、そこにはランタンを持った兎が立っていました。毛皮は茶色く、大きな耳が胸の辺りまで垂れ下がっています。
兎は丸いふわふわの手を、アリサの額に当てました。
「だいぶ体が冷えてるね。うちにおいで。立てるかい?」
兎はアリサの返事も聞かずに、てきぱきと肩を貸してアリサを連れて行きました。その毛並みは柔らかく、心地好い温かさがありました。
兎の家は、黒い沼にぽつんと一軒だけ建っていました。
小さな島のように浮かぶ敷地を、外灯の優しい明かりが照らしています。芝生は綺麗に整えられて、花壇が植えられているなど、狭いながらも手入れが行き届いている印象です。
家に入ると、アリサは最初にお風呂へ案内されました。
「タオルはこれを使いな。着替えは入っている間に置いておくから」
兎にうながされるまま、アリサはシャワーを浴びはじめます。明るいところに来て、はじめて自分が泥であちこち汚れていることに気がつきました。思い返すと、雨の国に来てからというもの移動ばかりで、まともな休息はこれがはじめてです。
お風呂場から出ると、美味しそうな香りがアリサの鼻をくすぐりました。香りにつられて台所に辿り着いたアリサに、調理中の兎が笑いかけます。
「おや、出たかい。さっぱりしたね」
兎は片手で鍋を混ぜたまま、もう片方の手で牛乳の瓶を取り出しました。
「お風呂上りにはこれだよ。グイっといきな」
アリサは牛乳の瓶を受け取ります。蓋を開けて口をつけると、これまで飲んだどの牛乳より美味しくて驚きました。
「甘い……普段飲んでいるのより、濃くっておいしい」
「毎日、搾りたてを買ってるからね」
兎は皿を取り出して、かき混ぜていた鍋からスープをよそいます。
「あんたの服はいま洗ってるから、もうちょっと待っててね。ほら、座った座った」
言われるままに椅子に座ったアリサの前にスープが置かれ、白い湯気が立ちのぼります。
「ほら、食べな。余りもので悪いけどさ」
アリサはスプーンを手に取り、具材と一緒にスープをすくいました。ほどよい塩味と具材の旨味、そしてなによりその温かさが喉を、食道を、胃を通り、身体を芯から温めます。
「どう、おいしいかい?」
「……はい、おいしいです」
アリサはスープを頬張りながら、気づくと夢中になっていました。いままでの疲労や、不安や緊張が、すべてほぐれていくようで、同時に心も満たされていくのを感じます。
「まずは、とにかく食わなきゃね。なんでも話はその後さ」
兎もアリサを見守りながら、満足そうに微笑みます。それから、思い出したように「ああ、そうだ」と口にしました。
「あんたが持ってた傘、あっちで干してあるからね。ちょっと汚れてるから、食べ終わったら拭いておきな」
傘は、暖炉の前に広げて置いてありました。虹色の傘地は少しくすんで、石突もすり減った跡が見えます。思い起こせばかなり乱暴な使い方をしたものだと、アリサはちょっと反省しました。
そんなことを考えていると、ふと、暖炉の上に視線がいきました。そこにはガラスのポッドに入れられたハーバリウムがありました。数種類の花や葉がオイルとともに詰められており、咲いたときと同じであろう鮮やかな色彩を保っています。
その花のなかの一つが、アリサにも見覚えのあるものでした。薄黄色の小さな粒々の花達と、それらを守るように取り囲んで咲く、大きな白い花弁です。
「胡蝶樹の花……」
「おや、知っているのかい。あたしの一番好きな花さ」
「それじゃあ、あなた……あのときの花嫁さん?」
驚くアリサに対して、兎はきょとんとした表情で小さな黒い瞳を向けました。
アリサはこれまでの旅のことを、すべて兎に話しました。
兎はお茶を淹れながら、アリサの話に聞き入りました。ときに笑い、ときに憤慨しながら相槌を打つ兎に、アリサも口の滑りが良くなります。
「でも、あのときの花嫁さんだとは思わなかったです。全然印象が違うから」
「毛の色だろう? この辺で泥ひばりをやってたら染みついちゃってね。真っ白な毛並みが台無しさ」
そう言いながら笑う兎は、どこか楽しげにも見えました。大らかで快活な兎の性格に、アリサもすっかり安心してしまいます。
「泥ひばりって、なんですか?」
「沼の泥さらいをしてお宝を探すのさ。国中のごみが雨に流されてくるから、色んなものが落ちてるよ」
ここが理屈屋の言っていたぽっかり沼だということは、兎との会話でわかりました。そこでアリサは、地下水道で会った蝙蝠のことを思い出します。
「あの、蝙蝠は見かけませんでしたか? 息子か、それを探しに来たお母さんなんですけど」
「さあ、この辺りでは見てないねぇ。まあ、この沼もかなり広いから、どこか別のところに流されているかもしれないけど」
あの蝙蝠は、無事に息子を見つけただろうか——アリサは気にかかりましたが、それを確かめる術もありません。それに、いまはハレのことの方が問題です。
「私、これからどうすれば良いんだろう」
女王に会って、雨を止めるという目的は失敗しました。国のごみ捨て場と呼ばれるこの地に着いて、アリサにはもうなんの指針もありません。カップの紅茶に映る自分の顔は、情けなく揺らいでおりました。
兎が二杯目の紅茶を注ぎながら「そのハレって子だけど」と切り出しました。
「記憶喪失ってことで思い出したんだけどね。この沼のさらに奥深くに、『メメント座』っていう映画館があるんだよ」
「メメント座?」
「そこでは、観客の記憶を映画にして観させてくれるらしい。本人が覚えているのも、覚えていないのもね。ぽっかり沼に行きつくなんて、女王に捨てられるか
「記憶を……」
もしその話が本当なら、ハレの記憶を取り戻すことも可能かもしれない——それどころか、すでにそこに向かっている可能性もあるとアリサは考えました。
「私、そこに行ってみます」
「それが良いね」
新たな目的が出来たことでアリサは元気が湧いてきて、紅茶を一気に飲み干しました。それから兎にもう一つ気になることを尋ねます。
「あの、あなたは帰らないんですか? お兄さんも、いつでも帰って来いって言ってましたよ」
兎は「兄貴の心配性も相変わらずだね」と笑います。その様子がいやにあっさりとしていたので、アリサは拍子抜けしました。
「一応、ここを離れちゃ駄目なんだよ。女王様の命令さ」
「でも……ここは、その、不要なものが来る場所なんでしょう? だったらもう命令に従う必要もないんじゃないですか」
「まぁ、そうかもしれないけど……なんて言えば良いのかねぇ」
兎は少し困ったように、鼻をひくひく動かしました。
「女王に会ったときさ。あたしは、女王が寂しそうに見えたんだよね」
「寂しそう?」
「うん。玩具とか、お菓子とか、周りに欲しいものを山積みにしてさ。あたしもきっとそのなかの一つなんだろうと思うんだけど。それでも、色んなものをかき集めても、女王は満たされないんだなって思ったのさ。そうしたら、なんだか可哀そうに思えてきてねぇ……。結局、あたしもすぐに沼送りになったけど。この人はこうやって次々にお気に入りを入れ替えないと、耐えられないんだと思ったんだよ」
「……寂しければ、そのために他の人に迷惑をかけても良いってこと?」
「そうは言わないさ。けれども、あたしが辞めろなんて言っても、聞きゃしないからね。だったら、ここで泥ひばりをするのも悪くないか、って思ったのさ。女王がいつか心を取り戻したとき、いままで捨ててきたものを少しでも取り戻せるようにね」
「でも、あなたがそこまでする義理はないでしょう?」
「義理はないさ。けれど、そうしたいと思ったからね」
兎の言葉に嘘はなく、本心からだということはわかります。けれども、蛙の親分の気持ちを考えると納得は出来ません。あの蛙はきっと、遠く離れた妹をいまも心配しているのです。
思いやる気持ちが相反するときはどうすれば良いのだろうと、アリサは心のなかで自問します。
「まあ、とにかくあたしはいまの暮らしに満足してるってことさ」
兎はあっけらかんと笑い、それから「ああ、でも」と言ってハーバリウムに目をやりました。
「庭のあの花が咲くのは、もう一度見たいねぇ」
懐かしむようなその眼差しは、きっと遠い昔を見ていました。
アリサは洗ってもらった制服にそでを通しました。皺一つない仕上がりで、洗剤の良い香りがします。
傘もできる限りの汚れを落として磨きました。傘地の布もしっかり乾いており、水滴をよくはじきそうです。
「うちから出たら、外灯沿いに歩いて行きな。しばらくしたら看板があるから」
「うん。ありがとうございます」
アリサは傘と兎に貰ったランタンを持って、家の門をくぐりました。外は相変わらず真っ暗で、外灯に照らされる小雨までもが黒い雨粒です。
「気をつけてね。あんたに幸運がありますように」
兎はアリサの両頬を撫でて、祈るように言いました。そうしてぽっかり沼を歩き出したアリサに、見えなくなるまで手を振り続けます。
細長い外灯が延々と続いており、道しるべとなってアリサの進む足元を照らします。ぬかるみはありましたが、歩くのに支障はなさそうでした。
しかし、外灯とランタンの明かりが照らす範囲は限りがあります。後ろを振り向けば、もう兎の家は見えなくなって、辺り一面は塗り潰したように真っ黒でした。
泥を蹴る自分の足音と、辺りを覆う雨の音だけが響きます。気が滅入るのを少しでも紛らわそうと、アリサはあえて一人で喋ってみることにしました。
「メメント座にはどれくらいで着くのかなぁ。そこにハレもいると良いなぁ。会えたらまずはどうしようか。……勝手にいなくなって、って怒ろうか。でも、別に怒ってないしなぁ。とにかく、無事でありますように。それで、メメント座で記憶を見せてもらって、その次はどうしよう。もう一度、女王様に会いに行く? それとも、森まで戻ろうか。それで、蛙の親分に兎のことを伝えて。妹さんは元気でしたよって伝えて、それから別の国に行くんだ。家に帰れなくても、二人でいればなんとかなるよ。もちろん、ハレが帰りたいって言えば努力はするけどさ。けど、二人でいれば大丈夫。きっとどこでもやっていける。漫画や小説みたいに、異世界で暮らすのも悪くない。そう、二人でいれば大丈夫。きっと、きっと大丈夫——」
声に出すという行為は、平静を保つのに効果的ではありました。自分がおかしな人に見えないかと言う点を除けばですが。
それでも、だれも聞く者もいないのだから気にする必要はないと思っていたアリサですが、頭上からの声に呼び止められます。
「おい、お前なにしてるんだ?」
アリサが足を止めて顔を上げると、白い影が浮かび上がります。白い蝙蝠が、外灯にぶら下がっていたのです。
「一人でぶつぶつ、気持ち悪いぞ」
「だれもいないと思ったのよ」
本当に自分以外いないと思っていたので、アリサはちょっと気恥ずかしくなります。
「こんなに変なやつははじめてだよ。沼に流されておかしくなったか?」
「これでも持ち直した方なんだけどね。それと私はあなたみたいなの、二人目だわ」
「どういう意味だ?」
「あなた、女王の機嫌を損ねた蝙蝠さんでしょう? 森にお母さんがいる」
「……なんなんだよ、お前。なんでそんなこと知ってるんだよ」
白蝙蝠は怪訝そうな目でアリサを見ました。
「あなたのお母さんに会ったのよ。森のなかと、お城の近くの地下水道で」
「地下水道? ちょっとまて、お袋がどうして都に来てるんだ」
「あなたを探しに来たのよ。ぽっかり沼に流されたって泣いていたわ」
白蝙蝠を首を反らせて沼の水面を見ていました。
「なにしてるの?」
「呆れてるんだよ」
逆さまだから、天を仰ぎたいときは逆に地面を見るのかと、アリサは納得しました。
「どうして呆れるの? あなたのことを心配してたよ」
「もう何年も前に家を出てるんだ。心配なんかされたくないよ」
この白蝙蝠の言葉に、アリサは他人事ながら憤慨します。
「ひどくない? 自分の親でしょ」
「子離れできない親を持つと、苦労するのは子の方だよ。まぁ、お前も甘やかされていそうだけどな」
「ちょっと、私だってね……」
アリサは反論を言いかけて、自分の異変にはたと気がつきました——私のお母さんって、どんな人だっけ?
それは不思議な感覚でした。雨の国に来る前の、普段の日常が思い出せないのです。もやがかかったようにぼんやりとした映像しか頭に浮かばず、しかもそうした記憶の忘失を、すんなりと受け入れている自分がいるのです。
「おい、大丈夫か?」
沈黙するアリサの様子に、蝙蝠も心配して声をかけます。アリサはそんなことはどうでも良いかと思い直して、蝙蝠に「なんでもないよ」と答えました。
「ねぇ、それより聞きたいことがあるんだけど」
「な、なんだよ」
「いったい、どんなことで女王様を怒らせたの?」
この質問は純粋な好奇心が半分と、もう半分は女王のことを少しでも知った方が、今後の役に立つと思ってのことでした。白蝙蝠は「調子狂うなぁ」と呟きながらアリサの質問に答えます。
「無茶な命令に逆らっただけさ。ぶら下がるのをやめて、普通に立つようにって命令にさ」
「それのどこが無茶なの?」
「俺達蝙蝠は、普通に立てるほど足が強くないんだ。それなのに『雨が降るのは、真っ白でぶら下がるお前が逆さのてるてる坊主みたいだからだ』って、言いがかりをつけてきてよ。白いのも上向きに立てないのも生まれつきだって断ったら、そのまま沼送りってわけ」
アリサは白蝙蝠の話に、違和感を覚えました。
——この話が本当なら、女王は雨を止めたがっている?
アリサは女王との会話を思い出しました。確かに女王も『じょうろの水が止まらない』と言っていました。つまり、雨を降らせているのは女王の意思ではないということです。
「おい、お前本当に大丈夫か? ぶつぶつ一人で喋ったり、急に黙りこくったり……」
「ちょっと考えごとをしていただけ。ありがとう」
白蝙蝠は「なら良いけどさ」と言いながら、翼の先で器用に頭を掻きました。
「まぁ良いや。俺はもう行くぜ」
「行くってどこに?」
「さぁね。適当にその辺をぶらつくさ」
翼を広げ飛び立つ白蝙蝠に、アリサは再び問いかけます。
「ねぇ、もう一つ教えて。メメント座ってどこにあるの?」
「俺が止まってたところをよく見なよ」
白蝙蝠は上空を二、三度旋回した後に、どこかへ飛び去って行きました。白蝙蝠の言う通りに目を凝らすと、さびついた古臭い看板に『メメント座』という文字が書かれています。
気づけばアリサのすぐ横に、小さな映画館がありました。
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