銀糸の舞台は機械仕掛け

洞穴の逃走劇

「あれ」

 アリサは河辺に置いていた傘を拾ったとき、その様子の違いに気がつきました。それなりに乱暴な扱いをしてきたはずの傘ですが、見た目は新品なのかと思えるほどに綺麗で、生地もピンと張っています。

「さて、これからどうするんだい?」

 不思議がっているアリサに男が尋ねます。

「雨の国に戻らなきゃ」

「それなら、上流の滝へ行くと良い。君ならきっと、行くべき場所に繋がっているから」

「ありがとう。早く仲間に会えると良いね」

「まあ、のんびり待つさ。それがいまの私の仕事だ」

 男はやはり寂しそうでしたが、その表情にはどこか前向きな色を帯びていました。

「君もきっと、会うべき人に会えるだろう」

 アリサは男に見送られる中、河を登っていきました。


 霞こそなくなりましたが、細かな雨は未だに宙を舞っていました。水面の波紋を蹴りながら、アリサは滝へと向かいます。

 ふと、空を見上げると、天に重くのしかかる雨雲はずいぶん高いところにあることに気がつきました。周囲に切り立つ山々が空を切り抜いているせいで、自分と雲の距離がますます遠く見えます。思えば、こうやって雨空をまじまじと眺めるのはこれがはじめてかもしれない、とアリサは考えました。

 いつも傍にあるはずのものが、自分の見方次第で形を変える——気がついてみれば当たり前のことでも、気がつくその瞬間まで自分の中には存在しない。本当はずっと、いつでも変わらずあるはずなのに——アリサはその事実がなんだか面白くて、胸の内側からくすぐられるような可笑しい気分を楽しみます。

 そうしてしばらく歩いていると、轟音を立てて飛沫を上げる滝と、その麓に佇む人影を見つけました。

 黒い傘を差した紳士のオーレが、アリサのことを出迎えます。

「あなたはどっちのオーレ?」

「……弟に会ったのかい」

「ため息をついていたわ。兄の不始末に呆れてしまうって」

 オーレは苦笑混じりに「そんなことを言っていたのか、あいつ」と言いました。

「それで、僕の不手際で君には遠回りをさせてしまったが……見つかったかい?」

「うん」

 アリサの表情を見て、オーレは安堵した様子でした。

「それでは行こう。今度はちゃんと案内してあげる」

 オーレが落下する瀑布ばくふに傘を差し出すと、水の流れは切り分けたように割れました。二人はその下をくぐり、奥の洞穴へと進んで行きます。


 洞穴は滝が閉じてしまえば光の差し込む隙間もありませんでしたが、それでも足元が見えるくらいには明るさが保たれていました。

「なんだか不思議。ちょっとあったかいし」

「壁を見てごらん。光る苔があるだろう」

 岩壁を良く見てみると、なにやら見覚えのある苔が張りついていました。雨の国で目が覚めたとき、アリサがベッド代わりにしていた苔です。

「これ、森にあったやつだ」

「国中、至るところに生えているよ」

 オーレはほのかに光る苔を優しく撫でました。

「これだけ優しいものがあるんだ。この国の造り主も、きっと優しい心の持ち主だろうね」

「……からかってる?」

 アリサが睨んでも、オーレはなんでもないといった表情です。

「本心からさ。僕の仕事は聞いたんだろう? それとも、この旅はお気に召さなかったかな?」

「まあ……悪夢ではないわ」

 アリサは顔を背けながら、足早にオーレを追い越します。

「でも、まだ終わりじゃないでしょ。女王のところに行かないと」

「……確かに、エンディングにはまだ早い」

 オーレはそう言うと、突然アリサの肩をつかんで抱き寄せました。

「ちょっと、なにするのよ!」

「しっ、聞こえないかい?」

 耳を澄ませてみると、確かにアリサ達のいる場所とは別のところから音が反響して聞こえてきます。

「女王の追っ手かもしれないな」

「どうするの?」

「回り道をしよう。こっちだ」

 オーレがアリサの手を引き、洞穴の横穴へと駆け込みました。オーレは薄暗い中でも凸凹の岩場を器用に走り抜け、それでいてアリサが転ばないように的確にリードします。アリサは感心しながらも、どこか気恥ずかしさを感じました。

 しかし、そんなことを考えていられたのも束の間で、どれだけ走っても追っ手の足音は二人の後をついてきます。

「どうしよう、どんどん近づいてきてる」

「もう少し行けば、手がないこともないが……」

 少し張りつめた声でオーレが呟きます。やがて二人は、地底河川の流れる場所で行き止まりました。轟々と音を立てて流れる水は洞穴の更に奥、鍾乳洞の向こうの暗がりへと続いています。

 二人が足を止めると同時に、まばゆい光が洞穴の中を照らします。

「ついに捉えたぞ、この犯罪者ども」

 スマホ兵の隊列から、得意げな表情の隊長が出てきます。

「隊長! 三名ほど岩場で転んでひび割れしてしまいました」

「いま良いところだからちょっと黙って! ひびは保険で直るから」

 緊張感のない会話とは裏腹に、兵隊の数は次々に増してきます。向けられたライトのまぶしさに、アリサは思わず顔をしかめました。

「その無粋な光を向けるのをやめてくれないか」

 オーレはアリサをかばうように前に出ます。

「あなたたち、なんで追いかけてくるのよ」

「黙れこの大罪人。貴様は女王を騙って我々を惑わした罪で投獄する。貴様のおかげで我々はみんな左遷だ!」

「別に騙ってなんかいないわ。なんならもう一回命令するわよ!」

「残念でした。いまの我々はパスワードロックだ!」

「アリサ、良く聞いてくれ」

 高らかに笑う隊長を無視して、オーレが肩越しに囁きます。

「ここは僕が引き受けるから、女王の元へは君だけで行くんだ。後ろの川をくだっていけば、女王のところへ行けるから」

「こいつらに捕まった方が早くない?」

「捕まって連行されたのでは意味がない。君から迎えに行くから意味があるんだ」

「……わかったわ」

「今度こそきちんと案内するつもりだったが、すまないね」

「こら、無視するな、貴様ら!」

 スマホの隊長は鼻息荒く、いまにもつかみかからんとする勢いです。オーレは黒い傘を剣代わりに、迎え撃つ構えを取りました

「行くんだアリサ。エンドロールには駆けつける!」

 その言葉を合図に、アリサは急流へと飛び込みました。


 アリサは川の表面を滑り、地下深くへと落ちていきました。風圧で目を開けるのもつらいほどでしたが、傘を握って終着点までひたすら耐えます。やがて光が見えてきて、暗闇のウォータースライダーは終着点へと向かいます。

 しかし、出口は広い空間の天井と繋がっており、アリサの身体は宙に投げ出されてしまいました。

「うそっ!?」

 浮遊感に一瞬、身を強張らせるアリサでしたが、次の瞬間に大量の羽音が鳴り響き、小さな影達がアリサの目の前を埋め尽くします。

「わっぷ!」

 アリサは声をあげながら、その影の正体が小さな蝙蝠たちであることに気がつきました。蝙蝠がクッションとなって落下速度を和らげて、アリサは無事に地面へと着地します。

 その場にへたり込んで呆然とするアリサに、群れの中から二匹の蝙蝠が近づいてきました。

「怪我しなかったかい?」

 スカーフを巻いた蝙蝠が、心配そうに尋ねます。

「相変わらず間抜けそうな顔してるな」

 一方の真っ白な蝙蝠は、嫌味ったらしく鼻で笑います。

「二人とも、ちゃんと会えたんだね」

 アリサは蝙蝠の親子が一緒にいることが嬉しくて、先ほどの落下の恐怖もすぐに忘れてしまいました。

「あんたのおかげさ。ぽっかり沼で途方に暮れてたら、この子が探しに来てくれたんだよ」

「なんだ、良いところあるんじゃん」

「……うるせぇな。関係ないだろ」

 白蝙蝠はひと際大きな羽音を立てます。

「それより、お前なにしたんだ? 女王がお前のことを探してるって噂だぞ」

「女王が?」

「雨を降らせる犯人だ、ってな。見つけて、見せしめに処刑するって話だぜ」

「自分で吹っ飛ばしといて、いい加減だなぁ」

 そう言いながらアリサは立ち上がりました。

「助けてくれてありがとう。それで、女王のところへはどっちに行けば良いかな?」

「お前、俺の話聞いてたか?」

 白蝙蝠が呆れた声で言いました。

「うん。でも行かなきゃ駄目なの」

「あのなぁ……」

「行かなきゃ駄目なの」

 力を込めて繰り返すアリサに、白蝙蝠は言葉を呑んでしまいます。

「無駄だよ。この子は言ったら聞きやしないさ」

 母蝙蝠は羽先の小さな指で器用にスカーフを外し、アリサの襟に巻きつけます。

「あっちの出口を出てまっすぐ行けばすぐさ。それより、女王に会うならきちんと正装しないとね」

「うん。ありがとう」

 蝙蝠の毛が首筋をくすぐりますが、アリサはされるがままでした。

「お礼を言うのはこっちだよ。さあ、これでちゃんとしたね」

「なぁ、本当に大丈夫か?」

 白蝙蝠がアリサの周りを旋回しながら尋ねます。

「大丈夫だよ。心配性だなぁ」

「お前な、人がせっかく……」

「嘘嘘。ごめんって」

 アリサは笑って、白蝙蝠の鼻先をつつきます。

「心配してくれてありがとう。あなたは優しいね」

「やめろ、つつくな!」

「お母さんのこと、大事にしないと駄目だよ」

 アリサは蝙蝠たちと別れ、女王のところへ向かいます。通路は最初、洞穴と同じごつごつとした岩壁でしたが、徐々に人工的な造りへと様子を変えていきました。一本道で迷うことはありませんでしたが、道の先から、どこか懐かしい匂いがしてきます。

——ああ、雨の降りはじめの匂いだ。

 それはアスファルトが濡れたときの、あの独特の薫りでした。アリサはこの薫りの先に、女王がいると確信します。

 やがて通路の先の方に、出口の明かりが見えてきました。

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