歯車は噛み合った

 通路を出ると、巨大なケーキがアリサの視界を塞ぎます。周囲にはたくさんのぬいぐるみや人形が透明な天幕を張って座っており、ケーキの下段では星のバッジを付けた自動人形が数体、ひっきりなしになにかを書きつけていました。どうやら、陪審員の真似事のようです。

「きたな、はんざいしゃ」

 ケーキの頂上から、舌足らずな裁判長の声が聞こえてきました。

「私のことを探しているって聞いたけど?」

 アリサは傘を開き、ケーキの方へと一歩前に踏み出します。

「おまえはふたつのつみでたいほする。わたしのふりをしたつみと、あめをふらせるつみのふたつだ」

「逮捕されるとどうなるの?」

「え? えぇとね、しけい!」

 死刑になっては堪らないと、アリサは強気で抗弁します。

「女王のふりをしたのは、そんなつもりはなかったのよ。わけもわからず、必死だったから」

「いいわけはいけないんだよ!」

「情状酌量の余地があると思うわ」

 ケーキの上から、「じょーじょーさくりょー?」と返ってきます。

「罪が軽くなるってことよ」

 女王はしばらく沈黙しました。ケーキの上でうんうん唸っている様子が、アリサの脳裏になんとなく浮かびます。

「じゃあ、それはゆるしてあげる」

「ありがとう」

「でも、あめをふらすのはゆるしません!」

 女王は思い出したように宣告します。

「それについても言い分があるわ。話して良い?」

「どうぞ」

「雨も、別に私が降らせてるわけじゃないのよ。そりゃ無関係ってことはないけど、少なくともわざとじゃないわ」

「じはくした! やっぱりはんにんなんじゃない」

 興奮した声とともにじょうろが顔を出し、その注ぎ口がアリサの方へ向けられました。アリサは吹き飛ばされたときのことを思い出して、ほんの少し身構えます。

「だからそれは、あなたも降らせているわけで……ああもう、説明が難しい」

 しどろもどろになるアリサに、女王はしてやったりという具合に「しっけっい、しっけっい」と囃し立てます。それに併せて傍聴席にいた猿の人形がシンバルを叩き、法廷にはシュプレヒコールが起こりました。

「そんな言葉、使っちゃ駄目!」

「さいばんはおわりました。ひこくにんはしけいです!」

「私を死刑にしたら、雨を止められないわよ!」

 アリサの叫びに、法廷は一斉に静まり返ります。

「とめられるの?」

 その声はこれまでと違い、素直で、小さな声でした。

「止められるよ。でも、そのためにはあなたにも協力してほしいの」

「きょうりょくって?」

「簡単よ。そこから降りて、顔を見せて」

 ケーキの上のじょうろが、少しだけ揺れ動きます。

「……やだ」

「どうして?」

「だって、おりられないんだもん」

「降りられるはずよ。自分で登ったんだから」

「おりられないもん。じぶんでのぼったんじゃないもん」

 駄々をこねる女王に、どう説得したものかとアリサは当惑します。

「どうして降りられないの?」

「だって……おいていっちゃうもん」

「おいてっちゃう?」

「おいていかれるんだもん。だからひとりになったから……それなら、さいしょからひとりのほうがいいもん」

 その言葉に、アリサは胸が締めつけられる思いでした。

「そうかもしれないけど……それでも、いまの私は——」

「うるさい! バカ! ほっといて!」

 にわかに雨の勢いが強まりました。その意味をいまは理解できるアリサですが、だからこそどうすればいいのか悩みます。

——ああ、そうか。こんなに寂しかったんだ。

 寂しさと出会ったとき、人はどうするべきだろう。優しく包み込んで、その傷が癒えるのを待つべきだろうか。

——いいや、違う。

 この寂しさは私のものだ。幼い自分に押しつけて、忘れてしまった私の気持ち。

——だから、私のするべきことは。目の前の小さな女王を救うには。

 アリサは傘を閉じました。土砂降りで自分が濡れそぼつのも構わずに、バンドで留めた傘を逆さに握って、ケーキの側へ近寄ります。

 そして、肩に寄せるように構えて——力の限りスイングしました。

「うきゃあ!」

 大きな音を立てて揺れるケーキの上で、素っ頓狂な女王の悲鳴が聞こえます。

「なにするの!」

「降りられないんでしょう。だったら、私が手伝ってあげる」

 アリサは繰り返し、ケーキを横から叩きます。達磨落としの要領で、無理やり下に降ろそうという作戦です。傘のグリップを打ちつけるたびに巨大なケーキが揺れ動き、まずは一段目がすっぽ抜けていきました。

 ケーキを叩く感触は固いゴムの塊を叩いているようで、手のひらも腕も痛くてたまりません。それでもアリサは、我慢してひたすらに叩き続けます。

 ビルほどの大きさもあったケーキは、アリサのスイングで見る間に段数を減らしていきました。吹っ飛んだケーキの段は傍聴席に突っ込み、ぬいぐるみや人形達は混乱して逃げ惑います。

「やめてよ、こわいよ、おりたくないよ!」

 女王の叫びが聞こえてきますが、アリサは聞く耳を持ちません。

「だめよ。なにがなんでも降ろしてやるから」

「なんでこんなことするの!」

「『私』がそうしたいと願ってるからよ!」

「ヤダ、ヤダ、ヤダ!」

 残り少なくなったケーキの上から、赤い服を着た小さな人影が飛び降りました。その姿を確認する間もなく、天幕の奥へと逃げていきます。

「待って!」

 アリサはケーキを叩くのを止めて、走り去る女王を追いかけました。


 天幕の向こうには幾重もの幕が連なり、天空から無限に吊るされているように思えるほどでした。柔らかく真っ白な布地には銀糸が織り込まれていて、揺らめくたびにちらちらと輝きを発しています。

「お願い、待って。話を聞いて!」

 赤い服の少女は幕の銀波ぎんぱをひらひらと泳ぎ、アリサはそれを必死に追いかけました。二人の間には何百枚もの幕が隔たりを作っていますが、進むこと自体は妨げません。

——なんだか私、ずっと走っている気がするなぁ。

 そんなことを頭の片隅で考えたアリサは、線路や市街をハレと一緒に走り回ったことを思い出しました。そして、頭によぎった思い出から急に場違いな感傷が襲ってきて、ふいに目頭が熱くなります。自分でも馬鹿だと思いながら涙を拭うと、幕の間からギザギザの棘が見えてきて、やがてアリサの周囲には、いくつもの巨大な歯車が現れました。

 歯車はどれもいびつな形で、噛み合っていないせいか軋む音が周囲に響きます。見ていると頭が痛くなるほどの不気味な光を色とりどりに放ち、アリサはひどく不安な気持ちを抑えながら、棘の頂点を飛び移って駆け下りました。

 そうして幕の海を抜けると、円形の舞台がある劇場の中に出ます。

 アリサからまっすぐに伸びる花道の先、舞台の中央には、スポットライトが当たっていました。その光の下には、銀色の枠で縁取られた姿見がぽつんと置かれています。

 アリサはその鏡に、ゆっくりと歩み寄りました。鏡がもう一つの世界を映し出し、その逆さまの舞台の上では、一人の少女が背中を向けて泣いています。

 がらんどうの劇場に、少女のすすり泣く声だけが静かに響いていました。その声も劇場の高い天井がすべて吸い込んでしまいます。そのあまりのいじらしさに、アリサはどうにも堪らない気持ちになります。

 アリサは膝をついて、鏡の世界の少女に声をかけました。

「ねぇ、どうしてあなたは泣いているの?」

 少女は返事をしてくれません。

「むりやり降ろしちゃったから? それとも、一人ぼっちだから?」

 少女は尚も泣くだけです。

「お願い。泣くのはやめて、こっちを向いて」

 アリサの懇願にも、少女は頑なに振り向きませんでした。たった一枚の鏡の板が、アリサと女王を隔てます。

 それでも、アリサは悲観しません。

——だって、『たった一枚』ではなく『あと一枚』なのだから。

「ねぇ、外に出ようよ。そうしたら、きっと楽しいことが待ってるよ」

 アリサは小さな背中に優しく語りかけました。

「美味しいものも沢山あるし、友達だってできるよ。休みの日にみんなで買いものに行って、スイーツ食べたり、プリクラ撮ったり、カラオケ行ったりしてさ。それに、夏は家族で旅行に行くんだよ。私、いつもつまらなさそうにしてたけど、本当は毎年楽しみなの。学校だって、勉強はちょっと大変だけど、楽しいよ。恋愛だってするし、お洒落だって楽しいし、他にもいっぱい、毎日が輝いているんだから」

 アリサが話している内に、少女はだいぶ泣き止んでいました。しかし、それでもこちらの方を向く気配はありません。

 少女は背を向けたまま、「でも、いないんでしょ」と呟きました。

「え?」

「おねえちゃん。おねえちゃんはそこにいないんでしょ?」

「……そうだね。いないよ」

「それなら……わたしはいらない。そんなのはいらないもん」

「でも、ずっと連れていくよ。私の中に、ちゃんといるから」

「わすれちゃうでしょ。なまえだってわすれたくせに」

「あなたは覚えているの?」

「わすれちゃったから、さみしいの……」

——そうだ、寂しかったんだ。失われていくことが、どれほど恐ろしいことか。だったら最初からない方が良い。忘れてしまう方が楽だ。そう思っていたんだけど。だけど——

「……————」

 アリサは鏡に近づいて、河畔で見つけだした名前を小さくささやきました。金色の光が、吐息に混じって瞬きます。

 少女が振り返り、アリサはようやくその顔を見ることができました。この雨の国に君臨する、小さな頃の自分の姿を。

「それって……」

「探したよ、ちゃんと」

 アリサは鏡に向かって手を伸ばし、幼い自分の頬を優しく撫でました。間を隔てるものは最早なにもありません。その感触は温かくて、とても心地のよいものでした。

「ごめんね、今度は忘れない。ちゃんと一緒に連れていくから」

「……やくそくしてね」

 赤く腫れた目で見据えながら、女王はアリサの手に自分の手のひらを重ねます。

「うん、約束」

 アリサは鏡の世界から、幼い女王を抱き寄せました。

 今度は離さないように、しっかりと力を込めて。


 その瞬間、どこかで大きな音が響きました。なにかが噛み合うような音と、それに続く振動で、アリサは先ほどの光る歯車を思い出します。

「なにが起こってるの?」

 アリサは女王に尋ねますが、女王も不安げな表情で「わかんない」と答えます。

 やがて振動は大きさを増していき、破壊音とともに劇場のあちこちから大量の水が噴き出してきました。その水流の勢いたるや凄まじく、見る間に劇場の水かさは増えていきます。

「あめがながれてきてる……」

「雨?」

「ふるはずだったあめが、ぜんぶ」

 もし国中の雨がここに押し寄せてくるのなら、アリサ達はあっという間に沈んでしまいます。アリサは来た道を戻ろうとしましたが、水位はすでに腰の辺りまで高くなっており身動きが取れません。

 そうしている間にも壁や天井は次々に崩れ、流れ込む水量が増していきます。

 女王の小さな手が、アリサの袖を固く握りしめていました。

「大丈夫、絶対に離さないから」

 しかし、激しい水流はあっという間に劇場全体を埋めていきます。逆巻き、渦巻く水流に、アリサ達は成す術もなく飲み込まれてしまいました。

 水中をぐるぐると掻き回されるアリサは、女王が流されてしまわないように必死に抱き締めます。けれども、この状態で他に出来ることはなにもなく、考える余裕もありません。

 アリサは視界の端で、水面から差し込む淡いオーロラみたいな光を見つけました。きっと先ほどの歯車だろうと考えたアリサは、なんとかそこまで行こうともがきます。しかし水流はそれを許さず、思うように上昇できません。

 もう、このまま沈んでしまうのか——息が苦しくなり、力尽きる寸前のことでした。光の向こうから、何者かがこちらに近づいてくるのです。

 その人影はアリサよりも年上の女性で、青いワンピースとウェーブのかかった栗毛の髪を揺らめかせながら、アリサ達のところへやってきました。

 アリサはその顔をどこかで見たような気がして、不思議に思いながらぼんやりと眺めます。

「ぐぁんぶぅっ」

 女性は口を大きく開けて、謎の言葉を発しました。その表情からなにかを懸命に訴えているのはわかりますが、肝心の内容がちっとも理解できません。空気の泡が空しく水中に散っていくだけです。

——水中なんだからわかるわけないじゃん。なにしに来たのよ。

 アリサはどこか呆れた気持ちで思いました。しかし女性は諦めず、再び口を開きます。

「がぁ、ぶぅっ!」

——がぶ? ガブ……ガム!

 アリサははっとして、ポケットに手を伸ばそうとします。しかし、女王を抱いたままではうまく体を動かせません。そこで女性がアリサを女王ごと抱き締めて、アリサの手を自由に使えるようにします。

 アリサはポケットの中から、小さな包みを取り出しました。雨の国に来たときに、オーレに貰ったチューインガムです。

 口に押し込んだガムを急いで噛んで、残り僅かな肺の空気を思い切り吹き込みました。ガムは大きく膨らんで風船となり、アリサ達の体を包みます。

 水の中から解放された一同は、咳き込みながら乱れた息を整えました。

「もうっ、早く気づいてよ」

 ぜぇぜぇ言いながら文句を訴える女性を見て、アリサは言葉に詰まります。はじめて見る姿なのに、切ない懐かしさがこみ上げてくるのです。

 なにも言えないアリサでしたが、女性の正体に説明なんていりませんでした。

——生きていたら、きっとこんな感じなんだ。

 アリサは涙を浮かべながら「どこ行ってたのよ、馬鹿」と言います。

「……まったく、泣き虫だなぁ、お姉ちゃんは」

 成長したハレは照れくさそうに、頬をかいて微笑みました。

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