ハッピー・メリー・メランコリー

エンドロール

「ほら、行こう」

 ハレに促されて、アリサは風船を上昇させました。回転する光の歯車を横目に見ながら、劇場の屋根を抜けていきます。

 風船は、水面に辿り着くと同時にはじけて消えてしまいました。大海原と見紛うほどに辺りは水に溢れていて、陸地が一つも見当たりません。

 どうしようかとアリサが思っていると、隣でハレがコバルトブルーの笛を取り出しました。

「それ、龍の笛——」

「見てて」

 ハレはにやりと笑ってから、龍の笛を口に当てました。凛とした音が鳴り響くと、それこそ水を打ったように辺りが静まり返ります。

 そう、まるで、時間が止まったかの如く。

 しばらくすると、どこからか高らかに笑う声が聞こえてきました。遠くから、何者かが低空飛行で飛沫を上げながら向かってきます。それはアリサが河畔で出会った、着流し姿の男でした。

「これこそ、まさに同胞の声! ようやく来たぞ、出立の日が!」

 げたげたと不気味な大声で笑いながら、男は大きく宙返りを見せます。回転した勢いでそのまま水面へ飛び込むと、次の瞬間に水面が盛り上がり、巨大な魚影が現れました。怪魚は猛スピードでアリサ達の方に突っ込んできます。

 アリサ達は半ばさらわれたみたいに、魚の背中にひっかかって乗っかります。

「ああ、アリサ。君も目的を果たしたようだね」

「さっきの笛が、仲間の声なの?」

 アリサは背びれにつかまりながら尋ねます。魚に変化した男は意気揚々としていて、最初に会った気だるさが嘘のようです。

「そうさ。すっかり忘れたと思っていたが、いざ聞けば間違いない。数千年間待ち焦がれた友の歌だ!」

 魚は飛び跳ねるように泳ぎながら、全身を喜びで打ち震わせます。そして一行が向かう先に、大きな滝が見えてきました。

「また変わるぞ、しっかりつかまれ!」

 二、三度跳ねてから、魚は滝に躊躇ちゅうちょなく突っ込みます。魚は滝の水流をものともせず豪快に駆け上り、背びれにつかまるアリサ達は風圧と水滴で目も開けられません。

 長い滝の道を抜けると、魚はひと際大きく跳ねて空中へと躍り出ます。その瞬間に身体が再び変化して、鱗が青く輝く巨大な龍となりました。

 龍がその口を開けて咆哮を発すると、空を覆う分厚い雲に風穴が空き、日の光が降り注ぎます。

「わぁっ!」

 女王が感嘆の声を上げ、アリサやハレもその光景に目を奪われました。雲海を抜けたその先は、どこまでいっても青、青、青の、広大無辺の大空が広がっていたのです。

「落ちないように気をつけたまえ!」

 龍はその身をくねらせて、青空の中を駆け抜けました。眼下の雲はすぐに通り過ぎて見えなくなり、次に見えてきたのは山の上の高原です。草木は龍の飛行で起こる突風で激しく揺れ動いていますが、その根はしっかりと大地につかまり、決して離すことはありません。

 群がり立つ山々を抜けた先で、これまで旅してきた雨の国の姿が見えてきました。森も、海も、街も、ぽっかり沼の黒い泥までもが陽光に照らされて、生き生きとした色彩で輝いています。どこにも影は落ちておらず、これほどまでに輝く光景は他にないのではと思えるくらい、世界は明るく、生命力に満ちていました。

 生まれ変わった国の光景にアリサが見惚れていると、視界の端で青空とは違う色が映りました。なんだろうと辺りを見ると、どこからともなく色とりどりの風船が上昇してきて、アリサ達の周りを駆け抜けるのです。

 赤や青、黄、緑、紫にオレンジと、数えるのも不可能なほど数々のパステルカラーが洪水のように押し寄せてきます。さらには白い花弁を連れて、大きな気球がやってきました。

「アリサ!」

 籠の中で手を振るのは、ぽっかり沼の兎です。後ろの気球には蛙の親分をはじめ、鳥獣一家の面々が揃っていました。

「あんた、本当に良くやったよ!」

 兎が籠から身を乗り出し、アリサの手を取ります。

「お兄さんに会えたんだね」

「おかげさまでね。あんたも会えたんだろう?」

「うん。みんなのおかげ」

「なに言ってるんだい。あんたが頑張ったからだよ」

 兎は嬉しそうに、アリサの頬を両手で包んで撫でてきます。

「あ、あの……」

 アリサと兎が笑い合っていると、おずおずと、女王が気まずそうに声を挟みました。それを見た兎はただ優しく微笑んで、女王が喋るのを見守ります。

「あの、その……ごめんなさい」

 女王は小さく、けれでも丁寧に頭を下げてお辞儀します。

「これからはなんでも、大事にしておくれね。捨てることもときには必要だけどさ」

「……うん」

「わかればよろしい!」

 兎がそう言って高笑いすると、今度は蛙の親分を乗せた気球が近くに寄ってきました。大きな目玉で小さな女王を睨み、女王は怯えてアリサの後ろに隠れます。

「……妹が良いなら、俺から言うことはなにもねぇよ」

 ぶっきらぼうに言う蛙ですが、兎に「なにかっこつけてんだい」と茶化され、すぐにそっぽを向いてしまいます。

 やがて気球は上昇をはじめ、動物達は「また会おうぜー」「次は俺とも勝負しろ―」と言いながら去っていきました。アリサは名残惜しく思いながら、兎達に手を振って見送ります。

「体に気をつけてね。あんまり無茶するんじゃないよ!」

 兎も最後まで手を振りながら去っていき、やがて小さく、見えなくなってしまいました。そして次に、下から一陣の突風が吹いてきます。

 その風に乗ってやってきたのは、大量の風船をくくりつけたオープンカーでした。真っ白なタキシードを着たキハチと、同じく真っ白なドレスをまとったユキナが笑顔でアリサに手を振ります。

「二人とも、結婚したの?」

「いやぁ、これからハネムーンってわけよ。海河童のおいらが、まさか空を飛ぶなんてな」

「彼のところへ行くの。ほら」

 ユキナが指し示す上空は、青がだんだんと濃くなって黒になり、至るところに星が散らばっていました。それらの星座の間を縫って、クジラの群れが揺蕩たゆたっています。

「お土産に月長石の竜胆を持ってくるわ。それともクッキーの方が良いかしら?」

「そういうことで、達者でな!」

 キハチがそう言うと、車は上昇するスピードを早めて遥か宙へ消えていきました。遠くから、クジラの鳴き声が聞こえます。

「気をつけてねー!」

 手を振って車が飛び去るのを見送っていると、今度は三人の商人達が、ドローンを四方に括りつけた板の上でお茶を飲みながら上昇してきました。

「うまいっ! これぞまさに紅茶の味だ」

 わからず屋が紅茶を一口すすって、ご機嫌の様子で叫びます。

「やはり紅茶は雨水がない方が美味しいですね。まぁ薄いのもそれはそれで味がありましたが。ちなみにここで言う味とはいわゆる味覚のことでなく趣のあるという意味であり……」

 理屈屋もなにかぶつぶつ言っていましたが、とにかく楽しんでいるようです。

「ほっ、ほっ、本当に雨を止めたんですね」

 恥ずかしがり屋は相変わらずどもっていましたが、声にはいっぱいの喜びが込められていました。

「すっ、すっ、すっ、すごいです。かっかっ、感動しました!」

「みんなが助けてくれたおかげだよ。私一人じゃなにもできなかった」

 アリサがそう言うと、理屈屋が「そんなことはないですよ」と返します。

「勇気とは、相対的ではなく絶対的な評価です。あなたの行動は、この国に住む人々を解放した。それだけを誇れば良いのです」

「そっ、そっ、そうです。むっ、胸を張って!」

「心堅ければ石をも穿うがつ。天晴れだ!」

「……うん、ありがとう」

 称賛の声をかけると、商人達もまた、上空へと向かっていきます。「また会いましょう。僕らの店はいつでも扉が開いていますよ!」と理屈屋が言いながら、三人の商人達は去っていきました。

「良かったね。みんな喜んでくれてるよ」

 ハレがそう言うと、アリサも感慨深げに「うん」と呟きます。

「やっぱり嬉しい。関わった人達が喜んでくれるのって」

「それも、君が行動したからさ」

 耳元で急に声がしたので、アリサは驚いて振り向きました。いつの間にか、すぐ後ろにオーレが立っていたのです。

「オーレ!」

「すべて上手くいったようだね。無事で良かった」

「あなたこそ大丈夫だったの?」

「機械ごときに後れを取るようじゃ、いまどき妖精はやれないさ」

 オーレが気障ったらしくウィンクをするので、アリサもハレも思わず吹き出します。

「そうだ、これ」

 アリサは手に持っていた傘をオーレに差し出しました。

「これ、オーレのなんでしょう? もう返すわ」

「いや、その必要はないよ」

 オーレは吹き荒ぶ風をものともせず、龍の背中を歩きます。

「その傘はだれでも持っているものなんだ。人の数だけ、色んな種類の傘がある。あれをご覧」

 オーレが指し示すと、飛んでくる風船が次々に傘へと変わっていきました。何本もの色とりどりの傘が空に並んで道を作り、太陽の光を反射します。アリサの持っている傘も、はじめて見たときと同じように虹色の光を放っていました。

「その傘はもう君のものだ。大事にしてくれよ」

 ふいに、女王が「おねえちゃんだ!」と叫びました。そのままアリサ達の間をするりと抜けて、なんのためらいもなく龍の背中から飛び出します。あまりにも唐突だったので、アリサは止めることもできません。

「ちょっと!」

 一瞬寒気のするアリサでしたが、女王は空に浮かぶ傘の一つに取りついて、そのまま上空へと舞い上がります。そしてその傘に、もう一人——雨の国をともに旅した、青い服の少女の姿が見えました。

 二人の少女はとても楽しそうに、風に乗って遥か彼方へと旅立っていきます。

「さて、私もそろそろお暇しよう」

「お別れなの?」

 アリサが言うと、紳士は優しい笑みを浮かべてアリサの頭を撫でました。

「また会えるさ、必ずね」

「……あなたのおかげよ。忘れたものを思い出したのも、それを取り戻せたのも。本当に、ありがとう」

「礼には及ばないさ」

 オーレは黒い傘を広げ、風を捕まえてふわりと浮かびます。

「僕は眠りの精、夢と心の旅人だ。それぞれの歩く道も、必ずどこかで交わっている。次に会うときはきっと、君の物語を聞かせておくれ」

「胸を張って話せるような、恥ずかしくないお話にするわ」

「さらば!」

 オーレは跳ねるように空を駆け、あっという間に見えなくなってしまいます。

 こうして、龍の背中にはアリサとハレの二人だけが残りました。

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