雨と傘のゆりかご

「みんな、行っちゃった」

 アリサが呟くと、ハレが後ろからアリサを抱き締めます。

「寂しい?」

「……ううん。出会いに別れは付きものだもん」

「そうね。でも、私はもう少し一緒にいられるから」

 その言葉を聞いて、アリサは胸にこみ上げてくるものがありました。しかし、それを必死に隠して、ハレの腕を掴みます。

「……そういえばさ、なんて呼べば良い?」

「なんて、って?」

「“ハレ”は私のつけた名前でしょ? その……お姉ちゃんって呼ぶとか」

「ハレって名前も気に入ってるんだけど……せっかくだから、お姉ちゃんって呼んでもらおうかな」

「わかった、お姉ちゃん」

 そうして笑い合ったあと、ハレがあることに気がつきました。

「ねぇ、虹だ」

 龍の髭が、七色の光の帯となって空に軌跡を描いていたのです。アリサが手を伸ばして虹に触れてみると、聴いたこともないほど美しい音色が鳴りました。

 ハレも同じように手を伸ばして触れてみると、今度はまた違った音が鳴ります。

「色によって……ううん、触れる場所によって音が違うみたい」

 ハレはそう言うと、なにかを思いついたような笑みを浮かべます。

「ねえ、演奏しよう」

「演奏?」

「約束したでしょ? 一緒に弾こうって」

「……うん!」

 そうして虹の光を使った、二人の連弾がはじまりました。曲もなにも決めていませんし、虹がどこでどんな音を鳴らすのかもわかりません。それでも二人は打ち合わせもなしに、自然と曲を紡ぎました。なにも言葉を交わさなくても、次にどこを押さえるのか、相手がどんな音を出すのか、面白いくらいにわかるのです。

 そうして流れる曲の旋律は、極めて美しく、そして楽しげな音楽でした。アリサもハレも自分たちで弾きながら、こんなに綺麗な曲があるのかと夢心地の気分です。

 龍の背中で奏でる曲は国中に響き渡ります。ふとアリサが下を見ると、木を切って土を耕す開墾民たちが、その手を止めて虹の旋律に聴き入っているのが見えました。

 その中の一人に、アリサと同じくらいの年頃の少女がいました。アリサはどうしてか、その少女から目を離すことができません。その少女との距離は当然ながら天地の距離であるはずなのですが、まるですぐ目の前にいるような、そんな錯覚に襲われたのです。

 少女は目を瞑り、全身で音楽を感じていました。大地に立つ一本の木のようにただそこに立って、土で汚れた手足もいまはしばし休めています。風を身に受け、心を開き、生きているということを実感しているのです。

 アリサはその少女の生活と感覚が、ありありと自分に重なるような気がしました。理由も理屈も分かりませんが、この気持ちはとても大切なものだと思えて、心に大事に刻み込みます。

 ふいに龍が頭を上げて、さらなる上昇を始めました。身体をくねらせて逆さまになり、天空に大きな弧を描きます。

 弧の頂点に来たときに、アリサもハレも宙に投げ出されてしまいました。二人は龍が架ける虹を見ながら落下していき、やがて真っ白な、一つの大きな雲の中に入っていきます。

 雲の中に入ってからもしばらく沈んでいきましたが、それも途中で止まり、二人は向かい合って寝ているような格好になりました。雲の中は暖かく柔らかなので、本当にベッドの中にいるみたいです。二人は夜中にこっそりベッドに潜りこんだ子供のように、くすくすと笑い合います。

「楽しかったね」とハレが優しく言いました。

「うん。楽しかった」

「落ちるとき、びびってなかった?」

「びびってまーせーん」

「本当にぃ?」

「もう、からかわないでよ」

「だって可愛いから」

「だから、止めてってば」アリサは口を尖らせます。

「いつかのお返し」とハレがアリサの頬をつつきます。

「お返し?」

「覚えてない?」

「よくわかんない……」と言って、アリサは小さくあくびをします。

「眠いの?」

「……眠くない」

「アリサって、眠いのに眠くないって言うよね。昔から」

「だから、眠くない」

「はいはい」

 そう言ってあやすように、ハレはアリサを抱き寄せました。ハレの心地よい体温が、アリサのまぶたを重くします。

「眠って良いよ。そばにいるから」

「……やだ」

 アリサの子供のような駄々に、ハレは小さく吹き出します。

「もう、なんでよ」

「だって、眠ったら、もう夢から醒める気がして」

 アリサはハレの服を掴みます。その感触を、その存在を確かめるように。

「……夢はいつか醒めるものだよ。それで、また新しい夢を見るわ」

 ハレがアリサの髪を撫でます。その感触が心地よく、アリサの眠気は更に強くなります。しかし必死に睡魔に耐えて、少しでもこの時間が続くことを願いました。

「私、変なの」

「……なにが?」

「だって、こんなに楽しいのに、こんなに嬉しいのに……どこか心の片隅で、寂しい気持ちを感じているの。悲しい気持ちが離れないの。自分もみんなも笑っていると、どうしてって思っちゃう。寂しさも、辛さも、苦しさも全部なくならないのに、ずっと世界の中にあるのに……それを忘れたみたいに楽しそうにしているのが、なんだかすごく悲しいの」

 アリサの目から涙がこぼれます。それがとても熱くて、自分自身でもどうしてこんなに泣いているのか訳がわからなくなりました。

「ねぇ、どうして死んじゃったの? なんで一緒にいてくれないの? もっとたくさんお喋りしようよ。もっと一緒に演奏しようよ。旅行だって、美味しいものだって、本当は一緒に楽しみたいよ。ありがとうもごめんなさいも、たくさん、たくさん言いたいんだよ。もっとずっと、忘れないくらいの思い出を、二人で一緒に作ろうよ。これで終わりなんて嫌だよ」

 ハレの腕がより力強く、アリサのことを抱き締めました。アリサの涙でハレの服はもうぐしょぐしょです。アリサはただただ泣きじゃくり、子供のように「やだよぅ」と繰り返します。

「ごめんね。おいていっちゃって」

 ハレはアリサの背中をさすりながら話します。そして、言葉を一つ一つ確かめるように、ゆっくりと語りかけます。

「もう、私は一緒にいられないけれど……それでも、アリサが思い出してくれたから……これからあなたが感じるすべてに、私も一緒にいるから。嬉しいことも、悲しいことも、アリサを形作るすべてのものに、私の形はもうなくても、ずっと、ずっと一緒にいるから。だから……いっぱい、一生懸命、生きて欲しい。それがお姉ちゃんの、最後のお願い」

 アリサは黙って、鼻をすすります。本当はわかっているのです。自分の望みはわがままで、別れはどうしようもないことだと。世の中には、できることとできないこと、叶うことと叶わないことがあることを。どれだけ頑張っても、変えられないことがあるのだと。

 アリサは鼻をすすりながら、小さく頷きます。

「本当に泣き虫ね。お姉ちゃんちょっと心配だわ」

「……十年分だからね。それに全部、お姉ちゃんのせいだよ」

 二人は目を合わせ、どちらからともなく笑いだしました。

「泣いたら疲れちゃった」

「そうね」

「ちょっと眠るけど、ずっと撫でててね。手を止めちゃ駄目だよ」

「あぁ、なんてわがままな妹だろう!」

「可愛い妹の頼みだよ、お姉ちゃん」

 アリサは再び、ハレの胸に顔をうずめて目を閉じました。その心地好さは、雲のベッドや苔のベッドとは比べ物になりません。

 とくん、とくんと、心臓の鼓動が聞こえました。こんなに確かな感触なのに、こんなに近くにいてくれるのに、もう二度と触れられないなんて、信じられない思いです。

——いや、もうよそう。いま、こうしていてくれるだけで、他になにもいらないじゃないか——そう考えながら、やがてアリサはまどろんでいきます。

 心臓の鼓動とは別に、どこかから音が聞こえました。遠いような近いような、外からのような自分の内側からのような、不思議な聞こえ方です。これはなんの音だったろうと、アリサはぼんやりと考えました。

 そして、意識が途切れる寸前に、その答えがわかります。

——ああ、そうだ。雨の音。

 雨が傘を打つ音が、アリサを優しく包みました。

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