第2話 婚姻の理由
練兵所から立ち去った春藍は、宮殿のもっとも高い楼閣の屋根の上で寝そべっていた。そこは都が一望できる、春藍のお気に入りの場所だった。
都の裏を守る山を背にして見渡せば、前方には河が見えた。広く静かに流れる水の流れが、太陽に反射してきらきらと輝く。舟もちらほらと浮いていた。
規則的に並ぶ宮殿の赤い屋根や、自分がさっきまでいた練兵所にいる兵士達の頭、ごちゃついた城の外の街。霞んで見える遠くの山。
それらを一度に眺めることができる高さが、春藍は好きだった。
思うように身を立てられないいらだちが、遠くまで続く景色に少しだけほどけていく。
――私がこの場所に初めて来た時ときは、内乱の後でもっとぼろぼろだったな。
瓦の冷たいでこぼこした感触に身を任せ、春藍は昔のことを思いだした。
春藍の父、李雄冬(り・ゆうとう)が薛霄文の軍とともに政変を起こし、暴君だった先帝を廃して皇帝となったのは、春藍が八歳のときであった。
それまでの雄冬は流行病で両親を失い後ろ盾をなくした貧乏な王族で、経済的にも政治的にも力を持っていた親戚の薛家の援助がなければ生活を送れないほど困窮していた。軍の有力者・薛家の長男の霄文が臣下でなければ、雄冬は王にはなれなかったと人々はささやいた。事実、そうなのである。
弟や妹たちと違い、春藍は物心ついたときから皇帝の子供だったわけではない。貧乏王族の一人娘として悠々とゆるい教育を受けてきた春藍は、兄弟の中で誰よりも自由闊達な気性となった。
春藍は男子と混じって野山を駆け廻り、石合戦をして育った。雨の日は碁に興じた。刺繍や琴など、姫として必要なことは何も学んでいない。その生活は、父が玉座についても大きくは変わらなかった。
――でもやはり、昔の方が楽しかった。あの頃は伯父上も、いろんなことを教えてくれた。今は、昔みたいに稽古をつけてくれないし、戦の話もしてくれない。
春藍は空を見上げて、ため息をついた。
始まりがどこなのかわからないほど幼いころから、春藍は伯父の霄文のことが好きであった。気づいた時には、春藍の夢は立派な武人になって霄文のそばにずっといることになっていた。いつでも、霄文の姿を見つめ続けた。霄文が遠征でいないときには、心を躍らせて戦況報告に耳を傾けた。
霄文もまた、風変わりな姪の春藍を可愛がった。槍を教え、兵法を授けた。
だがその日々は、春藍の強さが度を超えたものになったときに終わってしまった。
「伯父上に近づきたくて強くなったのに、強くなればなるほど、伯父上は私によそよそしくなった気がする」
春藍は仰向けのまま、晴天に手を伸ばした。高く遠い冬の空を映す瞳が、切ない色を帯びる。
春藍は天賦の才能に加えて、努力も重ねてきた。武芸が性に合っていたということもあるが、一番の動機はやはり霄文のことが好きだからであった。
しかし霄文は、采国でも指折りの強さを得た春藍を遠ざけた。春藍にはその理由がわからなかった。
――伯父上は今も昔も優しい。いや、最近は優しすぎるほどだ。優しすぎて、冷たいのだ。なぜだ。私が子供だからか。
霄文に距離を置かれれば置かれるほど、春藍は霄文とそばにいようと必死になった。
その結果が霄文との婚姻だった。
霄文は雄冬の姉・麗海(らいかい)の夫であり、春藍にとっては伯母婿にあたる。麗海は霄文との間に二人の男子をもうけたのち、舟で夫の任地に赴く途中で嵐にあって行方不明になっていた。
霄文のことを兄上と呼び実の兄のように慕う雄冬は、ある日娘の春藍を呼び出してこう言った。
「姉上が行方知れずとなってから、長い時がたった。兄上は今日まで独り身でいてくれたが、もうそろそろ後妻をもらうべきだ。私は兄上にはお前がいいのではないかと考えている。年は離れているが、兄上はお前を嫌いじゃないし、お前も兄上を敬愛しているようだ。春藍、お前はどう思う」
雄冬が春藍と霄文の婚礼を望んだのには、三つの理由があった。
一つ目は人望が厚く人気がある霄文と自分の関係の深さを内外に見せつけるため。
二つ目は強すぎる春藍にまともな嫁入り先が見つからなかったため。
三つ目は単に自分の好きな人と自分の娘を結婚させ、より深く親交を結ぶためであった。
親子ほど年に差がある男と娘の結婚を勧める雄冬の心は身勝手なものであったが、そんなことは春藍には関係なかった。
春藍は思考するよりも先に、父親の問いに即答した。
「伯父上のお気持ちに反するものでないのなら、是非私は薛霄文将軍の妻となりたいです。今すぐにでも、早急に」
春藍は自分の霄文への気持ちが結婚にふさわしいものであるのかどうか、わからなかった。それでも結婚することに迷いはなかった。霄文のそばにいられるならどんな形でも構わなかった。
こうして霄文と春藍の結婚は決まった。婚礼の儀をとりおこなったのが、数か月前である。
だが、その結果は良好とは言い難いものであった。
――伯父上と結婚すれば、何か変わるんじゃないかと思った。だから父上の提案にも迷わず乗った。だけどこれでは、伯父上が遠ざかったことを実感する機会が増えただけではないか。
霄文は軍務で家を空けがちであり、春藍と共にいられる時間はあまり増えなかった。たとえ会えたとしても、霄文は穏やかな拒絶を繰り返すばかりである。
その状況を打開するために、今度の戦は霄文の軍に入って出陣したいと春藍は思っていた。それは、春藍にとって初陣となるはずだった。
――でも、伯父上は許してくれない。
春藍は体を起こして、寂しげな表情で彼方を見つめた。
霄文以外の人間はほとんど誰も、春藍が戦場へ行くことに反対していない。逆に、王族の出陣は士気を高めるから春藍も積極的に戦に出るべきだという意見すらあった。それほどまでに、春藍は女であることを忘れられている存在であった。当の本人ですら、自らの性別には無頓着である。
しかしそれでも、軍の最高責任者である霄文が首を縦に振らねば春藍の出陣はなかった。
春藍はなんとかして霄文を説得する方法はないかと考えを巡らせた。しかし何も思い浮かばなかった。春藍は兵法に精通していたが、戦以外にも応用できるほど、人間の心の機微というものを理解していなかった。
「仕方がない。父上に直談判でもするか」
春藍はそうつぶやくと立ち上がり背伸びをした。再び都を見下ろせば、楼閣に吹きつける風が顔に当たった。
――伯父上、私はあなたの隣に立つ日をあきらめませんよ。
屋根から降りて、春藍は楼閣の階段を下った。
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