第8話 旅路と昔話
芝生に覆われた緩やかな丘を、春藍と慶峻は馬でゆっくり進んでいた。空はよく晴れていて、旅日和といった感じである。
早く先へ行きたくてうずうずした様子の春藍が、急かすように慶峻にきいた。
「慶峻、地図は見つかったか」
「ちょっと待って。あ、この地図だね」
慶峻はよれよれの皮袋をあさり、中から古びた地図を取り出した。
「うん、軍隊が通れない近道を使えば、遠征軍よりもかなり先に国境に着ける」
さらさらと目を通し、軽くうなずく慶峻。
馬から身を乗り出し、春藍は地図を覗き込んだ。
「伯父上よりも先に国境の様子を探れるということだな」
春藍は霄文の軍とすぐに合流するつもりはなかった。先行して進み敵の情報を得た上で馳せ参じ、霄文に自分を認めさせるというのが、春藍の計画であった。
「よし、では道案内を頼む」
慶峻に微笑みかけ、春藍は馬を駆け足にした。
慶峻もすぐに拍車をかけ、春藍と轡をならべる。
「ひさびさの旅なんだから、俺にあんまり期待しないでよ」
言葉とは逆に自信ありげな態度で、慶峻が地図を袋に戻した。
幼いころに放浪者であった叔父と共に各地を旅してきた慶峻は、地理に非常に詳しい。春藍が慶峻を道連れに選んだ理由の一つはそこにあった。
それから、二人は順調に西域へと向かった。昼は一日中馬に乗って話をし、夜は宿に泊まったり野宿したりと楽しく過ごした。路銀は十分にあり、都から追手が来る気配もなかったので、苦労や警戒心とは無縁の旅路であった。
しかし、道を進むにつれ、通り過ぎる景色はだんだんとさびれていった。最初の方は整備されていた道も悪くなり、すれ違う人の数も減った。
粗末な茅葺の屋根の家と、顔に生気のない住民。そんなものばかりを二人は数多く見ることになった。
「やっぱり、都から離れれば離れるほど、荒廃してるね」
ぽつぽつと点在する荒れ果てた掘っ立て小屋を馬上から眺め、慶峻は特に感慨深い様子というわけでもなくそうこぼした。
廃屋にしか見えないのに人の気配が感じられるのが、みじめな光景であった。
「そうだな。しかし見たところ、匪賊が出るわけでも、役人が腐敗してるわけでもなさそうだ」
春藍は手をかざし、緑の少ない痩せた周囲の田畑を見渡した。大地は乾いた赤土で、人が耕している跡はあったが実りは少なさそうであった。
関所の兵士も常識的な範囲内の賄賂のやりとりしかしていなかったし、道に盗賊の気配はとりたててない。春藍には、この村に人的な問題にあるようには、見えなかった。
ため息をつき、春藍は前方の道に視線を戻した。
「人が原因ならやりようがあるが、土地そのものが貧しいのではお手上げだ。少なくとも、私は」
武芸には自信のある春藍だが、農業や経済などにはうとく政治は苦手である。悪人を倒してどうにかなる問題なら皇帝の長女として世直しもできるが、そもそもが不毛な土地に対してはまったくの無力であった。
「まぁこれでも、北に比べればましな方だけどね」
慰めているのか追い打ちをかけているのかわからない言葉を、春藍にかける慶峻。その頭巾の奥の横顔は、相変わらず美形だが感情が読めなかった。
春藍は目の前以上の窮状を想像し、少し憂鬱な気分になってきいた。
「やはり北の方は、もっと酷いのか?」
「あっちじゃそもそも村に生きてる人がいないこととか、ざらだからね」
慶峻は軽い調子で答えた。
侵入され胡人の国の一部となった北の土地は、もともと干ばつによる不作が続いてたのに加えての戦乱で惨たらしい状況であると、春藍は知識としては知っていた。だが現地を実際に見た者から直接聞いたのは、初めてであった。
それがへらへらした慶峻の冗談交じりの一言だったとしても、本当に見た人間の言葉として春藍はそれなりに重く捉えた。
慶峻は春藍の表情が暗くなったのに気づいたのか、少し神妙な顔で曇り空を見上げた。
「この国の天は傾いているって、師匠がよく言ってた」
「お前の叔父貴が?」
「うん、女媧の天地修復っていう神話、姫は知らない?」
慶峻は天を見上げたまま問いかけた。薄い色の瞳が空の色を鈍く映し出す。
春藍はぴんとこない様子で答えた。
「女媧が女神の名前ってことしか知らないな。私は昔話とか苦手でいつも寝ていたから」
「それくらいちゃんと聞こうよ。有名な神話だよ」
慶峻は首を傾げて春藍に笑いかけ、からかった。
「ではちゃんと聞くから、今話せ」
わざとぶっきらぼうに要求する春藍。
「しょうがないなぁ、姫は。じゃあ、俺が教えてあげるよ」
得意げに胸を張ると、慶峻は少し声を低くして昔話を語った。
「――古の時代から、天は不完全だった。だから女媧は五色の石で天を修復し、柱を造りそれを支えていた。だが他の神々の争いの中で柱は壊され、再び天は崩れてしまった。その結果、世界は裂け、洪水や干ばつやそのほかの災いが起こるようになった。だから今も天は傾き続けているし、国は乱れる。これが女媧の天地修復の話だよ」
満足げに話し終える慶峻。
「傾く天、か」
春藍はそっとつぶやいた。
かつては四百年続いた平和な王朝もあったが、その最後の皇帝が死んで国が三つに分かれてからは、数多の国が生まれては争い消えていくばかりである。
春藍は厭戦家ではなかったが、少し途方に暮れた気持ちになった。だがすぐに切り替え、顔を上げた。
「天が傾くことで戦が起きるなら、その戦に勝てば良いだけのこと。私も伯父上も敗者にはならない!」
馬の腹を蹴って、速度を上げる春藍。
春藍は考えてもどうしようもないことを悩むのが嫌いであった。不真面目なわけではないが、いつもこうして最後は体を動かして問題を忘れてしまうのだ。
「ちょっと姫、飛ばし過ぎだよ」
そして慶峻は、そもそも悩むことすら少ない人間であった。
荒涼とした大地を二つの影が駆け抜ける。どんな光景も、二人の進路を妨げることはなかった。
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