第7話 怠惰な護衛
春藍は都を出たのち、まずは都の西側に位置する山に向かった。旅の伴として、護衛官の陶慶峻(とう・けいしゅん)を連れて行くためである。
慶峻は春藍の幼なじみであり、護衛官でもある。だがしかし、世捨て人のような気質の持ち主であり、春藍から呼ばない限りは山に引きこもっていた。
慶峻は名門貴族である陶家の当主を父に持ち、実母もそれなりの身分の女性である。しかし、不義密通の結果生まれた子であったため義母にうとまれ、八つになるまでは陶家ではなく実母の弟である叔父に育てられた。
その叔父というのが山々を放浪し隠遁生活を送る変人であり、慶峻もその叔父の気質を受け継ぐことになった。義母が死んで陶家に戻ることになっても、慶峻の浮世離れした性分が変わることはなかった。春藍の護衛官というのも、慶峻の父が体裁を保つために縁故と金を使って用意した名ばかりの役職であり、ほとんど機能していないのも当然のことなのであった。
春藍は麓で馬をつなぎ、鳥の鳴き声がまったく聞こえないほど静まりかえった山を歩いた。
水は生い茂る木々に覆われた谷を音もなく流れ、草や花は春のやわらかい陽射しの中でゆれていた。のどかだが、さびしげなところである。
――たしか、ここらへんだったと思うのだが。
山頂近くで春藍は立ち止まった。慶峻の居場所はだいたいは把握しているはずなのだが、どこも似たような景色なのでいつも迷ってしまう。
「陶慶峻、私だ! 李春藍だ!」
取り囲む森に向かって、春藍は叫んだ。風が吹き抜け、ざわざわと木々がゆれる。春藍は頬にかかる髪をかき上げ、頭上を見上げた。
「せっかく気持ちよく寝てたのに、姫が来ちゃったか……」
掴みどころない透き通った声が、ふわりとふってくる。声の方向に振り向くと、薄汚れたぶかぶかの白い深衣を着た少年が太い枝の上で寝転がっていた。この少年こそが、陶慶峻である。
茶色の文様で縁取られた服の裾をひらめかせ、慶峻は木から飛び降りた。
「この前の春節で会って以来、かな?」
春藍の目の前に着地した慶峻が、顔を近づけた。深衣についた頭巾を深々とかぶった下から、薄い褐色の目がのぞく。その瞳は気だるげで、妙な色気を持っていた。
「慶峻、またお前は妙なキノコを食べて幻覚を見ていたな。そういうのはもうやめろと言っただろう」
春藍は慶峻の悪趣味な遊びに気づき、たしなめた。だが慶峻はまったく気にしていない様子だった。
「大丈夫。俺は玄人だから、寿命を縮めるようなヘマはしない。いい暇つぶしだよ」
退廃的な笑みを浮かべて、慶峻は木の幹にもたれる。
「それで、今回は俺に何の用?」
春藍は高飛車に慶峻を指さした。
「私は伯父上の軍を追って、西域へ行く。お前も私について来い」
あからさまに嫌な顔をする慶峻。
「それって、誰かの許可を得ての行動?」
「独断に決まっているじゃないか。ま、一応紀中郎将には見逃してもらったが」
「うわ、面倒くさそう……。ちなみに西域ってどこらへん?」
「国境のほうだ」
下手したら年単位の旅になる目的地を、春藍はあっさりと告げた。
慶峻は情けない表情で、不満そうに音を上げた。
「それって、何か月もかかる旅ってことだよね。嫌だなぁ」
「お前は一応、私の護衛官だろ。ここ一年くらい何もしていないのだから、たまには仕事をしろ」
弱音を吐く慶峻を、春藍は軽く怒鳴りつけた。
「だって、姫は俺が守る必要ないくらい強いし。姫が一人で行くんじゃ駄目なわけ?」
怒鳴られてもなお、慶峻は物怖じせずに意見を述べた。
春藍は怒ったままの口調で答えた。
「一人で旅したら、話し相手がいなくてつまらないだろ」
寂しがるのでもなく、甘えるのでもなく、大真面目に言葉通りの意味で春藍は言った。
何かが慶峻の笑いの琴線に触れたのか、慶峻は吹きだした。
「あはは。そっか、つまらないんだね」
爆笑する慶峻を、不服そうに春藍はにらんだ。
「私は何か、おかしいことを言ったか」
「いや、別に。俺はやっぱり、姫には逆らえないなぁって思って」
笑いをこらえた慶峻の言葉はとぎれとぎれだったが、どこか殊勝な響きがあった。
「突然、何だ」
わかりづらい慶峻の笑いに、春藍はその言葉の真意をきいた。
いらだつ春藍を見つめ、慶峻はそっと答えた。
「俺は面倒なことが嫌いだけど、姫の頼みを断ることが一番の面倒なことだってことだよ」
そのとき、強い風が二人の間を通り抜けた。
慶峻の頭巾が外れ、さらさらと伸びた色の薄い髪が陽に透けて黄金色に輝く。整った顔立ちには繊細な影が落ち、薄汚れた深衣さえも綺麗に見えた。その姿はまるで天女のように美しかったが、春藍にとっては見慣れた光景であった。
――まったく。本当にこの男の美貌は無駄だよな。
春藍は頭をかいてため息をついた。
「それで、お前は私の言うことをきくのか?」
「いいよ。姫と西域に行ってあげる。そのかわり、これが終わったらしばらく引きこもらせてよ」
慶峻は微笑み、拳を片手で包み礼をした。
満足げに春藍は微笑んだ。
「では、今すぐ行けるか? 何か必要なものがあれば言え」
「えーと、馬は呼べば来るのが一頭いるし……。そうだな、武器だけほしいかな」
「わかった。これでいいか?」
春藍は邸から持ってきた双刀を、慶峻に渡した。
その刀を受け取り慶峻は、試しに腰の両脇につけて抜いた。湾曲した白銀の刃がきらきらときらめく。
「うん。軽いし、いい感じ。じゃあこれ、借りるよ」
慶峻はくるくると曲刀を回して鞘に収めた。
女である春藍と比べても少し細い慶峻は、力はあまり強くはない。しかし、戦闘の才能がないわけではなかった。むしろ不意打ちや奇襲といった攻撃なら、春藍よりも殺気のない慶峻の方が得意である。
もしも慶峻に就労意欲があれば、国で一番の暗殺者になっただろうと春藍は思った。
「よし、これで準備はできたな。では、行くぞ」
春藍は慶峻を手招きし、外套を翻して走り出した。
「了解、姫」
慶峻も山を駆け下り、春藍の後を追った。
こうして春藍の旅に、慶峻という伴が一人加わった。
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