第6話 出奔の決心

「伯父上! お待ちください。私も戦に行きたいです!」


 夢の中で、春藍は霄文の背中を追っていた。春藍の姿は幼くなっており、なかなか霄文には追いつけない。短い手足を懸命に動かし、春藍は駆けた。


「お前はまだ子供だ。お前が強い大人になったら考えてやろう」

 霄文が少しだけ振り向いた。だが顔は影になっていて、表情は見えない。


「私はもう大人です。強くなりました」

 いつのまにか、春藍は成長していた。背が高くなり、歩幅が広がる。それでも、霄文との距離は縮まらない。


「伯父上、なぜ――」


 言いかけたところで、目が覚めた。自室の寝台の上で、春藍は天蓋に手を伸ばしていた。


 霄文と試合をするためにいつもよりも早めに起きた春藍は、二度寝をしていた。遠征軍の見送りに参加するのは、悔しいため嫌だった。

 漆塗りの木枠の窓の外を見ると、まだ昼前らしく日は昇り切っていなかった。まだ霄文の軍が出発してから、数刻しかたっていないはずである。


 ――こうなったら、勝手に戦場について行こう。

 自分の部屋に差し込む陽の光を見て、春藍は突然そう思った。


 春藍が霄文に勝てる日はいつか来るであろう、その時にはさすがに春藍も出陣を許されるはずである。だが、そのいつかを待っていられるほど、春藍は器用な人間ではなかった。

 春藍は天蓋に伸ばしていた手を強く握りしめた。


 ――出征に参加することができないなら、自分の力で行けばいい。


 春藍の心に迷いはなかった。


 春藍は立ち上がり、槍を掴んだ。模擬戦用のものではなく、柄も含めすべてが鋼鉄で作られた鉄槍である。殺傷能力は高いものの非常に重く扱いづらいその鉄槍を、春藍はいとも簡単に肩に担いだ。


 一度決心してしまえば、後の行動は早かった。

 まず、行き先を告げる手紙を用意した。用件だけの簡単な内容なので、すぐに終わった。そして、上等な生地の服から、地味で簡素な丈の短い服へと着替える。普段から動きやすい服装だが、さらに身軽になったことで、春藍の胸は高鳴った。

 最後に棚から路銀を取り出し準備は終わった。大荷物で邸を出ると感づかれる可能性があるため、火付け石や毛布など旅に必要なものは城下町で買うことにした。


 支度をすませ部屋を出ると、侍女がはたきを持って廊下に立っていた。

「お出かけでございますか?」

「あぁ、気晴らしに遠駆けしてくる」

 春藍は眉一つ動かさずに嘘をついた。家出したことを気づかれないように、さらに春藍は嘘を重ねる。

「もしかしたら唯寧のところに泊まってくるかもしれないから、帰らなくても気にしないように」

 春藍が唯寧の家に泊まるのはよくあることであったため、侍女は疑わずいつもどおりの反応をした。

「さようでございますか。では、馬丁に馬の用意をさせておきましょう」

 慣れた答えを言う侍女に、春藍は先ほど書いた手紙を渡した。

「これを母上に届けてくれ。急ぎではないから、明日までに届けばよい」

 春藍の母は宮中のしきたりを嫌い、一年のほとんどを別荘で過ごしていた。そのため、連絡を取るのにも、丸一日必要であった。春藍はその距離を利用し、行き先が判明する時期を遅らせた。


「かしこまりました」

 侍女は手紙をうやうやしく受け取った。

「では、行ってくる」

 春藍は外套を身につけながら、侍女に別れを言った。


 その後、春藍は家の裏にある厩に向かった。何頭ものの馬が飼われている広い厩では、馬丁が鞍などの用意をしていた。春藍の馬はまだ若い小柄な牡馬で、気性が荒い。だが、春藍が近づくとうれしげにいなないた。


 まだ幼さの残る馬丁の少年が馬を留めている綱をはずし、春藍に笑顔を向けた。

「準備が整いました、春藍様」

「ありがとう。ご苦労だった」

 馬丁の少年に礼を言うと、春藍は馬に跨り出発した。


 これで少なくとも数か月、この邸に戻ることはない。


 城下町は遠征に行く軍の見送りに来ていた人たちでごった返し、いつも以上に活気があった。身内と別れたつらさに泣く女性、どさくさにまぎれていかがわしいまじないの品を売りつけようとする商人など、様々な人がひしめきあっていた。


 春藍は人の波をくぐり抜け、綱や干した餅などの旅に必要なものを買い集めた。ひととおりの物を手に入れると、街と外を繋ぐ城門へと馬をひいて向かった。


 街を取り囲む城郭の上には、見張りのための楼閣がいくつかある。そのそれぞれの楼閣の下に城門はあった。

 春藍の前方に、その内の一つが見えた。ゆるやかに弧を描く門には頑丈なかんぬきのついた戸がついており、開門の時間である今は開け放たれていた。両脇に門番が立ち、門を出入りする人々を見ていたが、出ていく者にはあまり注意が払われていないようであった。


 春藍はなるべく使う人の多い門を選び、門番に顔を覚えられないようにした。だが衛兵の中には、意外な人物がいた。


 ――紀季徳中郎将? なぜここに。

 細い目をこらしながら立っているその衛兵は、宮中の警備の責任者である紀季徳であった。

 それなりに身分の高い季徳が一兵卒の仕事をしていることに、春藍は驚いた。


 季徳の方も春藍に気づき表情を変え、目くばせで春藍を呼び止めた。

 春藍は渋々季徳に従い、人の流れから外れた。二人は移動し、声をきかれない程度にもう一人の衛兵と距離をとった。


「なぜ中郎将であるあなたがこんなところで、門番をしているのだ」

 春藍は高圧的な態度で、季徳を問いただした。どちらが門番でどちらが通行人であるのか、わからない光景であった。


「部下が急用で来れないときには、責任者が穴を埋めなくてはならないときもあります」

 季徳は軽く目を伏せ、悪びれず答えた。

 城の防衛が食堂の店番の交代のようなしくみで行われていることに、春藍は呆れた。

 しかし、季徳は春藍の反応に構うことなく、話を進めた。

「その荷物……春藍様は、将軍を追って戦場に行くのですね」

「わかってるなら通せ、中郎将。それとも私は、あなたを倒さねば前に進めないのか?」

 春藍は、背負っている槍に手を伸ばした。鉄槍は布に包まれ、使われる時を静かに待っていた。


 季徳は軽く両手を広げて、春藍を押しとどめた。

「こんな往来が激しいところで、本気の試合はやめましょう、春藍様。万が一部下の前で負けたら、私が恥ずかしいじゃないですか」

 戦う気がないことを訴え、季徳は微笑んだ。

「それに別に私は、あなたを邪魔する気はありませんよ。ただあいさつするために呼び止めただけです」


 槍から手を下ろして、春藍は不思議そうな顔をした。

「見逃してくれるのか」


「私は一応、あなたと将軍を応援しているんですよ。でもこのことは、秘密にしておいてくださいね。将軍に怒られるの嫌ですから」

 季徳はそっと口に指を当てた。相変わらず細いその目は考えが読み取りにくかったが、どうやら本当に春藍を通してくれるらしい。


「感謝する、中郎将。いつか必ず、あなたに恩を返すと約束しよう」

 春藍は高慢な態度を少し緩め、季徳に笑みをこぼした。


 季徳はうなずき、門を指し示した。

「ご武運を、春藍様」

「では、な」

 春藍は季徳と別れ、人ごみに紛れて門をくぐった。


 空は青く、地平線は遠かった。高く昇った太陽が遠くの山と大地を照らす。

 何度も見てきた光景であるが、春藍には今日の景色が一番綺麗に見えた。


 ――行こう。伯父上のもとに。


 霄文の広い背中を思い出しながら、春藍はその一歩を踏み出した。

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