第10話 出会は捕囚
敵に連れられ、春藍が呂国軍の野営地に到着したのは夜中のことであった。
森を抜けた先にあるだだっ広い平原には、簡易的な木の柵が並んでいた。かがり火が焚かれた門の前では、見張りの兵士が立っている。
斥候部隊の男にこづかれながら柵の中へと進むと、いくつも並ぶ薄茶色の天幕と、色とりどりの旗が目に入った。
野営地は莫族という胡人の部族が支配する土地にあった。そのため陣中では呂国軍の兵士に混じって、莫族人の姿もちらほら見えた。莫族は采国と呂国から同時に冊封を受けている。しかし、少なくともこの地域の人間に限って言えば、完全に呂国側に乗り換えたようであった。
――莫族人全員が、呂国側なのだろうか?
春藍は、霄文に有意義な情報を持って帰ろうと、注意深く彼らを見た。陣中の雰囲気からは呂国と莫族は対等な同盟関係で結ばれているように思われたが、それ以上のことはまだわからなかった。
連行された春藍は、まずは所持品を調べられた。
鉄槍は捕まった時にすでに奪われていたが、隠し持っていた短剣も没収されたのは少し寂しかった。後で慶峻に取り戻してもらえるはずであっても、悲しく感じられた。
さらに春藍は、縄の代わりに今度は手枷をはめられた。きついものではなかったがかなり重く、動きが制限されるのは窮屈だった。
だが服はもともと粗末なものを着ていたせいか、身ぐるみをはがされたり着替えを命じられたりすることなく、そのままの格好でいられた。
――よし、後は用をたすときだけ気をつければ、女だとばれることはほぼないだろう。
雑魚寝程度で性別を悟られるほど、春藍に女性らしさはない。安心して、兵士に引っ張られるままに移動する。
その後春藍は、広い陣の中でも一段とぼろぼろの天幕に連れてこられた。かび臭く埃っぽい薄汚れた布が、頼りなくはためいてる。外からぱっと見ただけでもすき間が目立ち、雨漏りがひどいであろうことがすぐさま予想された。
「今日からここがお前の寝床だ」
兵士は冷たく言い放つと、乱暴に春藍を天幕の中へと押し込んだ。春藍は枷をはめられたまま手をつくことができずに、土っぽいござにしりもちをついた。体を起こし、兵士をにらむ。
「手枷は、はずしてくれないのか」
「お前は信用できないから、しばらくはそのままだ」
春藍を見下して吐き捨てると、兵士は踵を返して立ち去った。
――この重いのをしばらく着けたままか。いざって時に凶器になりそうなのは便利だが、だるいな。
舌打ちをして周りを見渡すと、春藍は自分以外にも大勢の人間が天幕の中にいることに気がついた。
麻のつぎはぎの服を着た男たちが、遠巻きにじっと春藍を見つめている。ざっと数えて四十人くらいであろうか。身なりは汚らしいが、健康状態は悪くなさそうであった。髪型はみな一様に太い三つ編みで、どの男も肌が浅黒く、目はくぼみ鼻が高かった。今まで見たことがない顔立ちだったので、春藍は彼らが遠い異国の人間であることをすぐに理解した。
「春藍だ。よろしく」
春藍は立て膝で軽く礼をしたが、男たちはお互い顔を合わせるばかりで、返事は返ってこなかった。
「こいつらは漢語が苦手なんだ。君を敵視しているわけじゃないから、許してくれよ」
奥から奇妙な抑揚のある漢語が聞こえた。見れば、背の高い青年が背をかがめてこちらに歩いてくる。
「顔、大丈夫か?」
青年は春藍の前に座ると、濡れた雑巾を投げて寄こした。
「すまないな」
春藍は片手で掴みとり、腫れた頬に布を押し当てた。雑巾はごわごわしていたが、冷たくて気持ちが良かった。
周りの男たちが青年に対して向ける視線に尊敬の念がこもっていたので、春藍は青年が男たちの指導者のような存在なのだろうと推測した。
青年の深い赤茶色の瞳には人の上に立つ者の力があり、その表情も堂々としている。狭い天幕がより狭く見えるほど大柄で、美丈夫。三つ編みに結われた髪はもつれて汚れていたが、見事な銀色に輝いている。春藍はその青年に、白い狼のような印象を抱いた。
「お前がここの頭か」
春藍は男に向き直り、青年を値踏みするように眺めた。
「あぁ。よろしく春藍。俺はハルグート族の先代族長ソルゲイの息子、アルジェイだ」
青年は誇らしげに名乗った。
まったく聞いたことのない部族名だったが、春藍は一応手を軽く組んで敬意払った。
「アルジェイ……不思議な名だな。どこの出身だ」
「ここからいくつも山を越えたところに住んでいた。多分、君には地名を言っても通じない」
アルジェイは寂しげに遠くを見る。その言葉の先にある少数民族の不幸な境遇は、事情を知らない春藍でもだいたい想像がついた。
「そんな遠くにいたのに、なぜこんなところにいるんだ?」
だが、春藍はあえて踏み込み、情報を得ることにした。
アルジェイは険しい表情で、低くうなるように答えた。
「呂国の連中に負けたんだよ、俺たちは。だからこうして奴隷部隊となって故郷から遥か離れた場所で戦わされているんだ」
憤りを隠さずに、腕を組むアルジェイ。荒っぽい獣を想起させるその体は引き締まっていて、かなりの強者であるように見えた。
「見たところ、お前たちは生活が厳しくとも元気がないわけでもなさそうだ。縛られてもいないし、逃げればいいだろう」
春藍は周りにいるそれなりに屈強そうな男たちを見渡した。
「それができれば良かったんだがな。俺たちには故郷に家族がいる。母や妹を人質に取られたら、従うしかない」
アルジェイは目を伏せ、肌の色に反して色の薄いまつげを震わせた。
ここにいる男たち全員が、奪われた故郷に家族を残し戦っているのだと思うと、春藍は少し居心地が悪くなった。
「妹がいるのか?」
そっとひかえめに聞く春藍。
「あぁ、十三歳になる妹がいるよ。アルタという名だ」
アルジェイは簡潔に答えた。思い出したらつらくなったのか、それ以上多くを語らなかった。
「それで春藍、君は何者だ?」
今度はお前の番だと言うように春藍に目を向け、アルジェイは話題をそらした。
自信たっぷりに、春藍は答える。
「私は親戚の結婚式へ行きに隣村へ向かっていたところ運悪く呂国の兵士に捕まった気の毒な旅人……という設定だ」
「設定? 知らない単語だな。次期族長として一応学んではいたが、俺もそんなに漢語が得意じゃないんだ」
アルジェイは銀色のふさふさした眉を下げ、困った顔で首をひねった。
「そのうち、教えてやる」
春藍は自分自身に秘密を作ることを楽しんで、笑みを浮かべた。
その時、天幕の入り口を覆っていた布が開けられ、黒い影がぬっと入ってきて怒鳴った。
「無駄話はそこらへんにしろ。お前たちに私語は許されていない」
そこには、黒髪を三つ編みにした青年が立っていた。呂国軍の鎧を身に着けてはいるが、その顔立ちは明らかにアルジェイと同族である。特に目はアルジェイと同じ赤茶色であり、形も良く似ていた。
――しかしこの男は、同族にも恨まれている……?
青年を見つめる周りのハルグート族の男たちの目が険しいことに、春藍は気づいた。
だが、アルジェイは友人に声をかけるように自然に青年を見上げた。
「トゥヤン」
青年にあっさりと呼びかけるアルジェイ。それはトゥヤンと呼ばれた青年の神経を逆なでしたようであった。
「奴隷の分際で、気安く僕の名を呼ぶな」
表情を一瞬で怒りに歪め、トゥヤンはアルジェイと同じなまりのある漢語でぴしゃりと言った。
「なぜ? お前も、アルジェイと同族だろ?」
トゥヤンとアルジェイの事情に遠慮することなく質問する春藍。
トゥヤンは今度は勢いよく春藍はにらんできた。
「僕は呂国軍の武官だ。貴様たちとは位が違う!」
激しいトゥヤンの怒りに対して、春藍は立ち上がり目線をそろえ、わざと意地悪な態度をとった。
「どうせお前が威張れるのはここだけなんだろ。お前だって、奴隷とそう大して変わらないんじゃないのか」
春藍は、容赦なくトゥヤンの面子を砕きにかかった。
トゥヤンは体をわなわなと震わせ、春藍の胸倉を掴んだ。
「黙れ。二度とその口を開けないようにしてやるぞ」
「やってみろ」
春藍はトゥヤンの赤茶色の目から目をそらさずに、挑発した。やや苦しくなった息に構わず、頭の中で次の動きを計算する。
慌ててアルジェイが立ち上がり、間に割り込んだ。
「そこまでにしてくれ。その……隊率殿」
手を広げて二人を見つめるアルジェイ。隊率というのが、トゥヤンの官位らしい。
トゥヤンは不満げに春藍の服の襟をぱっと離した。
体勢を崩すことなく、春藍は両足を地面についた。
トゥヤンはアルジェイと春藍を順番ににらむと、鼻を鳴らして後ろを向いた。黒い三つ編みが背中で揺れる。
「ふん、明日を楽しみにしていろ」
そう言い残して、トゥヤンは入口の布をくぐって出ていった。
春藍は乱れた襟を整えながら、アルジェイにきいた。
「あの男は何だ?」
「俺の従弟で、今の族長の息子のトゥヤンだよ」
妹の名前と同じくらい、その名前を大切そうに答えるアルジェイ。その瞳は、トゥヤンの去った入口を見つめていた。
春藍はさらに、問いを重ねた。
「なぜお前たちが奴隷で、奴は武官なのだ」
「あいつの父親が裏切って先代族長だった俺の親父を殺した結果、ハルグート族は呂国に下ることになった。だから、トゥヤンは呂国で良い地位でいられるんだ」
アルジェイは言葉を選んで、なるべくトゥヤンが悪く聞こえないように説明しているようであった。
それを春藍は身も蓋もなく一言でまとめた。
「なるほど、裏切り者か」
春藍は試すようにアルジェイの顔を覗き込んだ。
「だが、お前は親の仇の息子であるトゥヤンを恨んでいないようだな」
「親父を殺したのは、あいつの父親であいつじゃない」
アルジェイはきっぱりと答えた。トゥヤンのことを、深く信頼している様子であった。
そして、目の前にトゥヤンがいることを願うように、アルジェイはそっとささやき付け加えた。
「それに、あいつにはあいつの考えがあるはずだ。俺はその邪魔をするつもりはない」
それは小さなつぶやきであったが、春藍は聞き逃さなかった。
――トゥヤンという男は、狙いがあって呂国側についていると、少なくともアルジェイは思っているようだな。
アルジェイの真っ直ぐな瞳を、春藍は横から見つめた。
春藍がさらに追及する前に、アルジェイはぱっと表情を明るく変えた。
「さ、また誰かが叱りに来ないうちに、寝よう。この藁を使うと結構暖かいんだ」
アルジェイは部屋の隅にある藁を抱えた。周りの男たちもアルジェイにならい寝る準備を始める。
春藍もまた、今日はここまでと眠ることにした。手枷をはめられたままで寝にくいのを我慢して横になる。ござは不潔で、わらは暖かいがちくちくしてかゆかった。
春藍は今日新しくわかったことを思い出し、明日からのことについて考えた。
――あれが様々な胡人の集団である呂国の綻び、だな。トゥヤンという男の考えを探る必要がありそうだ。まぁ、探らずとも何となく察しがつくが……。
いろいろ頭を働かせているうちに眠くなり、いつの間にか春藍は寝ていた。
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