最終話 誓約と朝空

 次の日の朝、自分の天幕に戻って普段通りの簡素な男物の服に着替えた春藍は、鼻歌を歌いながら朝餉に向かっていた。陣営の端の塀に沿って進む春藍の足どりは軽く、気分は晴れやかだった。


 早朝の空気は冷たく清らかで、薄い水色の空は天高く澄んでいた。宴の後でまだ皆寝ているのか、人の気配は少ない。


 上機嫌で歩いていると、後ろから突如肩に手を置かれた。

 何者かと即座に振り向けば、そこに立っているのは慶峻だった。


 慶峻はいつもと変わらぬ様子で、ゆるくあいさつをする。

「おはよ、姫」

「慶峻、私に近づく時まで気配を消すな」

 春藍は慶峻の頭を軽くはたいて、怒った。慶峻の気配を消す才能は役に立つが、ときどき主である春藍ですらひやりとすることがあった。


「ごめんごめん」

 笑って謝罪する慶峻。手を合わせながら春藍に顔を近づけると慶峻は、いたずらっぽく声をおとして耳元で問いかけた。

「それで、昨夜は薛将軍とどうだった?」

 春藍は頬にかかる髪を耳にかけ、うっとりとした表情で答えた。

「あぁ、伯父上はやはりすごい技の持ち主だった」


「へぇ、で、それから?」

 慶峻が興味津々で、相づちをうつ。薄い茶色の瞳が好奇心できらめいた。


 春藍は感じ入った様子で腕を組んだ。

「あの局面から負けることになるとは思わなかったな」

 何か違う話を期待していたのか、慶峻が素っとん狂な声を上げる。

「は? 局面?」

 春藍は満足げに一人でうなずいた。

「私が黒番で負けるのは伯父上だけだよ。これほど苦戦した碁は久々だ」

 昨晩のことを思いだすと、自然と顔がにやけてしまう春藍。


 ――徹夜で伯父上と碁を打てるなんて、夢のような夜だった。

 春藍はぼうっとして頬を赤らめた。

 不覚にも泣いてしまったことはともかく、結果的には霄文に一晩中囲碁の相手をしてもらえたのだから、終わり良ければ全て良しだと春藍は思った。霄文の方も最後の方はさすがに眠そうだったが優しく楽しげで、それは二人にとって本当に幸せな時間であった。


 恍惚と思い出に浸る春藍に、慶峻が疑いのまなざしを向ける。

「姫は薛将軍と、一晩中碁を打ってたの?」

「そうだが、何か?」

 春藍はあっさりと答えた。

「いや、そういうときは普通さぁ。新妻と旦那が二人で朝まで碁って……」

 慶峻が何か言いたげに言いよどむ。


 春藍は不思議そうに慶峻を見た。

「別におかしくないだろ。私も伯父上も碁が好きで得意なのだし」

「まぁ、姫がいいならそうすれば?」

 慶峻は頭の上で手を組み、あきらめた顔で背伸びした。


 そのとき、横から間の抜けた声が聞こえた。

「朝から仲良いね、二人とも」

「何の話してたんだ?」

 気が付けば、横からアルジェイとトゥヤンが歩いて来ていた。


「アルジェイ、トゥヤン。おはよう」

 二人にあいさつをする春藍。

「昨日の夜は楽しめたかって、春藍にきいてたとこだよ」

 慶峻も二人に軽く手を振った。


「それなら俺たちも楽しんだよな。最後は二人で」

 アルジェイがトゥヤンの肩を抱き、快活に同意を求める。

 二人は背の高さは同じくらいだが、体格や雰囲気が正反対で結構絵になった。

 トゥヤンが恥ずかしそうに顔を背けた。

「アルジェイ、勘違いされるような言い方はやめてくれ」


 慶峻はくすくすと笑い、アルジェイとトゥヤンを茶化した。

「そっか、二人は断袖の交か」

 断袖とは男色を意味する代名詞であるが、アルジェイはもちろん知らなかったらしい。

「ダンシュウ……? 聞いたことのない言葉だな」

 アルジェイは、首をひねって考え込んだ。


 調子に乗った慶峻は、アルジェイの隣に並んで意味を解説しだした。

「有名な故事だよ。哀帝っていう昔々の王様が、董賢っていう美少年と昼寝してたときにね……」

「妙な言葉をアルジェイに教えるな、慶峻!」

 トゥヤンが悪ふざけを続ける慶峻を一喝する。


 慶峻はふわりとトゥヤンの後ろに移動し、ささやいた。

「君は知ってるんだトゥヤン。やっぱ君って何故か男色の語彙多いよね」

 面白がるように笑みを浮かべる慶峻。

「うるさい、黙れ!」

 トゥヤンは顔を赤くして、慶峻の頭巾を掴もうとする。


 だが慶峻は素早く後退し避けた。

「遅いよ。それじゃ雑魚だ」

 慶峻が勝ち誇り、トゥヤンを挑発する。

 トゥヤンは慶峻をにらみ、わなわな震えた。


「何だ。朝の運動に組手か? 俺も混ぜろよ」

 何が起きているのかよくわかっていないアルジェイは、のんきなものだった。


 臣下たちのじゃれ合いを眺めるのに飽きた春藍は、何か他の良いことはないかとあたりを見回した。そして、遠くを歩いている霄文の姿を見つけた。


「伯父上!」


 春藍は霄文に勢いよく駆け寄り、抱きついた。人が一人ぶつかったところでびくともしない霄文の背中が頼もしい。


 霄文はうんざりと顔をしかめて、春藍をたしなめた。

「春藍、朝っぱらから引っ付くな」

「いいじゃないですか。どうせ付き合ってることになっているのですし」

 春藍は霄文の背中に頬を押し付けながら言った。


「念弟としてのお前とな!」

 苦々しく、霄文が付け加えた。


 春藍は霄文の後ろから顔を出して見上げ、目を輝かせた。

「これからもこの誤解は利用しますから、どうぞよろしく」


「春藍、お前は……」

 懲りない春藍に、霄文があきれて言葉を失う。


「さぁ、伯父上。朝餉に行きましょう!」

 春藍は霄文の隣に進み出ると、手を握って前を指さした。

 霄文は仕方がなさそうに引っ張られ、つぶやいた。

「今回はわしの負けだよ、春藍。好きにしろ」


「何か言いましたか?」

 かすかに聞こえた霄文の声に、春藍が振り返る。

「いや、何も」

 とぼけて素知らぬ顔をする霄文。


 春藍は不思議に思いながら前に向き直った。


 ――お前がいてよかった、愛してるって聞こえた気がするのだが、気のせいだろうか。


 春藍はすこぶる好意的に聞き間違えた。


 ――まぁ何にせよ、これからも私は伯父上と歩くのだ。覇道でも邪道でも、どんな道であろうとな。


 春藍は未来を思い浮かべ、微笑んだ。それは決して明るいものではなかったが、どんな敵も打ち倒せそうな気がしていた。


 頭上には蒼天が広がり、平原の彼方まで続いている。


 春藍はふと、慶峻に聞いた女媧の天地修復の話を思い出した。女媧が修復しても修復しても、柱は壊され天は傾く。


 ――天が傾いているから、戦が起きる。戦が起きるから、伯父上が苦しむ。ならば私は、完全な天を手に入れて見せる。そして伯父上と幸せに暮らすのだ!


 東の空に昇る朝日を見つめて、春藍は霄文の手を握りしめ誓った。

 霄文もまた、春藍の手を握り返す。



 完全な天。戦のない世界。


 そこに二人の居場所はないことに、春藍が気づくことはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

戦神の姫君、蒼天を欲す 名瀬口にぼし @poemin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ